(三)遠い記憶の向こう側
祖父は部屋に入り、泣きじゃくるわたしをソファへ座らせた。
「彼らに近づいてはいけない。彼らはファシストだ。とても危険な連中なんだよ」
祖父は、わたしがあの男達を『視た』のに気づいていた。
あの場で話さなかったのは、危険だったからだ。
わたしたちの会話が少しでもあの男達の耳に届いたら――。わたしがあの男達について話していると気づかれたら、何をされるかわからないと判断したから。
「落ち着きなさい。もうだいじょうぶ、だいじょうぶだよ」
祖父は一度わたしをギュッとだきしめてから、わたしの左横に座った。
「ここは安全だからね。さあ、深呼吸して。何が視えたのか、話してごらん?」
わたしはいつも持ち歩いている手提げポーチから白いレースのハンカチを出し、止まらない涙をふいた。
「お母さんがいたの。薄汚れたエプロンをしてた。お母さんの後ろには木がたくさん生えていた。でも、お父さんはいなかった。お母さんがかわいそう。とても寂しそうだった」
わたしの答えは支離滅裂。
だが、さすがはわたしの祖父、すぐに察してくれた。
「お母さんの姿を『視た』んだね。その映像を思い出してごらん。断片でもぼやけていてもかまわないから。できるね?」
「できるわ」
ほんの一瞬、ロビーにいた1人の男が、記憶の中から浮かび上がらせた1枚のスナップショットのような記憶映像。
黒い髪を結いあげてまとめたお母さん。簡素な白いエプロンは薄汚れていた。洗いざらしの生成り色のブラウスは飾り気が無く、長いスカートはひどく野暮ったかった。
英国の家に居たときは流行の服をおしゃれに着こなしていたのに、あんなひどい格好をさせられているなんて、あんまりだ!
でも、あれは間違いなくわたしの母。五年前と顔つきはほとんど変わらず、若々しく美しかった。あの男が見た母の横顔は、背後の森の景色とあいまって完成された美しい肖像さながら。きっとあの男もそう思ったんだ。だからこそ一瞬見た母の横顔を、あれほど鮮明に記憶へ保管していたのだろう。
「ああ、確かにハナエだ」
わたしの記憶を読み取った祖父が、かすれ声でつぶやいた。日本の文字では花の入り江と書く、美しくも優しいひびき。
わたしの目から涙がどっとあふれる。冷静でなんかいられない。感情がふたたび嵐の海のように荒れ狂う。
お母さん、わたしのお母さん。お父さんはどこに居るの? わたしには視えない……。
「そこはどこなの? どうしてわたしの『眼』にはお父さんは視えないの? お父さんはお母さんといっしょにいるはずなのに!」
「落ち着きなさい。お前が透視したのは記憶の断片だ。残念だが今はわからない。ハロルドは……おまえのお父さんは、姿が見えないだけだろう。ハナエは絶望していないからハロルドは生きているはずだ」
ハロルドはお父さんの名前だ。
「おじいちゃまには見当が付く? もっとたくさんの景色や建物を見れば、どこなのかわかる?」
「地名を特定する特徴がわかればね。だが、そこまで詳しい手掛かりは無いようだ」
祖父はわたしの額のあたりをジッと見つめた。
祖父も透視能力者。過去や未来を自在に視にいけるわたしほどではないが、わたしが思い出した記憶を目ならぬ眼で覗き、わたしが視ているのと同じ映像を視、わたしが捉えた情報までも同じに読み取ることができる。
「背景の森は、雰囲気からしてドイツ近郊だろうね。あの男達の何人かはドイツ人だった。それだけで場所を特定するのは早計だが、どこかに実在する場所にはまちがいない」
祖父は断言した。
欧州から来た男達はドイツ語を喋っていた。話の内容まではわからなかったが。
しかし、それだけでドイツ人と決めつけることはできない。
ドイツ語を使う人々の住まう地は欧州のあちこちに点在している。ドイツ国境沿いの小さな集落や、中世に遠方へ移住したドイツ系の人々の住む土地をも入れたら数え切れないほどに。
わたしの両親はいまドイツ近郊のどこかにいる!
わたしよりも長い年月、透視能力を使ってきた経験ある祖父が確信したのだ。
わたしはもういちど母の姿に集中しようとして、ギクリと体を震わせた。
母の姿ならば視たいのに、なぜか怖い……。
わたしは何に恐怖を感じているの?
深呼吸。怖いと思った『何か』の方へ、心のなかで手をのばす。
まぶたの内側から母の姿が消えた。
代わりに浮かぶあのロビーにいた男達。
あれは怖い人たちなのだ……。
とくに母の記憶を携えていた男がいちばん悪い。顔ではなくて、その性格というか、人格というか……。
人と相対したとき、その人間の内側から醸し出されて伝わってくるもの。言葉では説明しがたくもその人自身を表す雰囲気のようなものが恐ろしい……。
さっきは母の姿を見つけたショックでそこまで読んでいなかったけど、わたしの優秀な千里眼と霊能力は、そんなものまでしっかり見透して記憶に保管していた。
わたしの額に触れていた祖父の右手がはなれた。
「いまはドイツ近郊の田舎の風景としかわからないな。ただ、ハロルドとハナエが残した行き先のリストからはドイツかその周辺国という可能性は非常に高い。ドイツ語圏と言えばオーストリア、ルクセンブルクにスイス。ベルギーやリヒテンシュタインもドイツ語は使われている。ポーランドやフランス、スペインの国境沿いまでぜんぶ圏内だ」
たとえば今年ドイツに併合されたズデーテン地方はチェコスロバキアの土地だったが、ドイツ語を話す人々が多く住んでいた。
その人たちは同じ言語を使用する人たちと同じ国になりたかったから、ドイツの併合に賛成したという話だった。
でも、アメリカにも移住したドイツ人はいるし、ドイツ人の街もある。
祖父は、わたしの両親がアメリカにいる可能性は省いて良いという。
「ふむ……。最後にいたリーベンスロールの近くならば、やはりドイツへ連れ去られたんだろうな」
祖父は確信に満ちている。
「どこの組織であれ、あの2人をアメリカへ連れてくるメリットはない。ハナエを記憶していた男は欧州からアメリカへ来たんだ」
「ええ、アメリカ人じゃないわ。それは絶対まちがいないわ」
それは、母の姿を『視た』ときにも感じた。母がこのアメリカの大地にいるなら、もっと強く存在を感じただろうという、逆説的な確信でもある。
あの男が母を見た記憶は少し前だ。たぶん、数週間か数ヶ月ほど。
その時間と方角と距離が、わたしのいる現在地点から『遠かった』から。時間を距離に変換できるならば、何百メートルも離れた遠い景色みたいな感じ。
それに距離は、数十キロ程度ではない。もっと広い――大西洋を隔てた向こう側だ。
さっきの邂逅では、あれ以上視ることが叶わなかっただけ。わたしの求める情報は大西洋の向こうに確かに存在しているのだから。
「いま、ドイツ周辺国はオーストリアのように、じわじわとナチスドイツに侵略されつつある。つまり今やナチスが利用できる土地は、私たちが想像するよりうんと広がっているということだ」
「その人たちは、自分の国とは違う国に支配されることに抵抗はなかったの?」
わたしの住む英国も、昔は世界のあちこちに植民地を持っていた。
けれど、ヨーロッパの先進国が侵略戦争をするなんて、わたしはもうずっと昔の、歴史上の出来事でしかないと思っていた……。
「もちろん、併合を嫌がった人たちもいる。だが、そういった地域ではナチスドイツが台頭する前からファシズムに傾倒していた人が多かったらしい。それにくわえてヒトラー個人に心酔した人々が大勢いた場所では、併合に賛成する人が多かったそうだよ」
あの褐色シャツの人々だ。
ドイツ、オーストリア、ベルギーやモロッコでも、街のいたるところで、若者の集団を見かけた。
たいがいはまだ10代半ばで、彼らはヒトラーユーゲントと呼ばれている。鍵十次マークを描いた旗を持ち、楽器を演奏しながら行進する隊列は整然として、純粋な歓喜にあふれていた。
あの行進の何がいいのか、わたしにはさっぱりわからなかったけど。
「あの子たちもファシストなの? ファシズムっていったい何? あの人たちはけっきょく何がしたいの?」
「ファシズムとは、もともと1人のリーダーが決めた事に、全員が従う政治のやり方のことだった。初めはイタリアで、ムッソリーニという男が始めた政治体制だ。そこでは1人のリーダーのやり方に違う意見を言ったり従わない者は容赦なく排除される。そういった民衆を支配する政治を行う者を独裁者という。そしてそんな独裁者に心酔する者たちがファシストだ。彼らは独裁者に忠誠を誓い、彼らにとって都合の良い、偏った理想世界をこの世に作りだそうとしているんだよ」
祖父の穏やかな声を聞いているうちに、わたしは少し落ち着いてきた。
「英国で読んだ新聞に載っていたわ。ファシストって、英国では褐色の服ではなく、黒い服が好きな人たちのことでしょう」
そう言ったとたん、母の記憶を持っていた男の後ろ姿を思い出す。
いやだ、しばらく視たくないのに……。
「あの人たちは、どうしてあんなに意地悪で冷たいの?」
錆ついた鉄のようないやな臭いまでもが鼻をついた。もちろん現実ではなく、わたしの中のイメージだけど。でもあまりにも生々しい感覚に、わたしは両手で鼻と口を押さえた。
「レンカ、いまは視ないようにしなさい。よけいなものまで視てしまうから。もっとも人間なら誰にでもそういう傾向はあるがね」
祖父がそう言うと、わたしはイヤな臭いを感じなくなった。
しずかな間があいた。
わたしはハンカチで涙をふいた。涙だけでハンカチがびしょびしょになることってあるのね。どれだけ水分が出ているのかしら……。
「ファシストは自分たちの望む理想しか見えないんだ。同じ服を着るのもその証だ。同じ格好で、自分たちは完璧に同じだという主張をしているのさ。英国ではすでに下火になったが、他の国ではまだ大勢の人たちがファシズムの未来に期待している。たった1人の非常に優れた理想的なリーダーが現れて支配してくれれば何もかもがうまくいって、自分たちが考える理想の世界を実現してくれるだろう、とね」
祖父は穏やかに話し出した。
このアメリカにも熱狂的なファシストがいるそうだ。
十年くらい前、プロペラ機をたった一人で操縦し、大西洋横断飛行という偉業を成し遂げた人がいる。英雄と呼ばれているその人はファシストとしても有名で、アメリカはヒトラーと友好を結ぶべきだと主張しているのだという。
一昨日の新聞にはその英雄がニューヨークで行われた党大会という大きなイベントで、ファシズムを褒め称える演説をしたという記事が載っていたそうだ。
「あの男達はその党大会にやってきたドイツのナチス党員だろう。アメリカのファシストと親睦を深めるためにやってきたというニュースが昨日の夕刊に載っていたから」
「ドイツのナチスはアメリカ人と仲良くしたいの?」
「アメリカのファシストと協力して、アメリカをナチスドイツのものに、つまりヒトラーが支配できる国にしたいのだろうね」
祖父の言ったことが、わたしには信じがたくて、すぐには理解できなかった。
欧州の、ドイツ周辺国で目にした光景が次々と思い出された。
とくにナチスドイツの影響が強い地域ではユダヤ人が迫害され、破壊された商店がたくさんあった。
そういった地域の人々は表面上は穏やかに暮らしているように見えたが、暗い熱狂が過ぎ去った後の重苦しい静けさが漂い、空気はどこか澱んでいた。大雨の後の平地で流れ去ることができずに溜まり、腐っていく水のように。
「どうしてあの人たちはあんなに意地悪でひどい態度を取れるの?」
あんな意地悪な人達の近くにいるだけでも恐ろしく嫌なことなのに、ずっと見張られているなんて耐えがたい。お母さんとお父さんはそんな恐ろしい生活を、今もどこかで強いられているんだわ。
リーベンスロールやそのほかの街でも、ナチスを支持する人たちは大勢いた。祖父とわたしは身なりの良い英国人の旅行者だから、どこでもたいがい歓迎された。でも、なぜか英国人がナチスドイツを支持する友好国民だと決めつけて話しかけて来る人々には、うんざりしたものだ。
「人に対する態度も言ってることも、まるでこの世で偉い人間は自分たちだけだと思っているみたいだった。信じがたい傲慢の塊よ」
「それはおまえが、普通の人にはわからない目に見えない情報まで透視して、相手の本質を読み取っているせいだよ。普通に目に見えないものは、本当には存在しない物として、触れない方が良いこともある。なぜなら普通に生活するには必要がないものだからだ。それはわかっているね」
「……はい」
それは曾祖母からも何度も言い聞かされたこと。
目に見えるものと見えないものはきちんと区別して扱いなさい。
でないと普通の人の中で、普通の生活ができなくなってしまうって……。
「でも、あの人たちが恐ろしいのは誰の目にも見える事実だわ。オランダやモロッコや、英国では、黒シャツ隊に抗議するためのデモまで起こったわ」
わたしはちゃんと新聞を読んで知ってるんだから!
祖父はわたしの頭をなぜた。
「そうだ。あのデモをきっかけに、黒シャツ隊が広めようとしていたナチスに通じるファシズムは勢いを失ったんだよ。英国人はもともとファシズムが嫌いだからね」
そう、ふつうの英国人はナチスがきらいだ。いっときはファシストの黒シャツ隊というのが町中に現れたが、ファシストがのさばるのを許せない人たちの方が多かったのである。
「さて、私はちょっと出かけてくる。部屋から出るんじゃないぞ。昼寝でもしていなさい」
祖父はわたしの額を指先でちょんとつついてから立った。
どうしていつもすごく小さい子あつかいされるんだろう。
わたしはなんとなくつつかれた額を右手で押さえながら、部屋から出ていく祖父を見送っていた。
バタンとドアが閉まった。
わたしはハッと我に返った。
祖父はきっとロビーを見に行ったんだ。あの男たちがまだいるかもしれないから!
ぼんやりしている場合じゃないわ。
わたしも自分の『眼』で視なくちゃ。自分でお母さんの手掛かりをつかむんだ!
わたしはベッドサイドのテーブルへハンカチを置き、部屋から飛び出した。
わたしの方が祖父よりも透視能力は上。
その気になれば対象者の性格・性質・血統までをも遡って確認することも、過去・現在はもちろん、ともすれば先々の未来の運命まで視えるんだから。
エレベーターは使わず、階段を駆け下りる。
すれ違ったポーターやメイドが驚いていたけど、止められはしなかった。
ロビーに祖父はいなかった。人は少なく、あの男達の姿もない。
わたしはホテルを走り出た。
石畳の道を駆ける。曲がり角をいくつも曲がった。
右か左かなんて考えもせず。
だって、わたしはぜったい道に迷わない自信があるもの。
初めての街でも、勘が働くのだ。目的地がどこだろうと地図を見る必要はない。どの道をどちらの方向へ進めばいいのか、自然とわかる。
これまで間違えたことなどなかったから。……わたしにとって、道を移動するとはそういうことだと、思っていた。
どのくらい走っただろうか。
疲れて歩くばかりになったころ、わたしは遊歩道が整備された広い公園らしき場所にやってきた。




