(二)古い記憶、新しい記憶
さて、わたしと祖父はふたたび船に乗り、欧州へ引き返す予定だ。
祖父は帰りの計画もきちんと立てていて、アデル・オーレンドリアⅡ世号の一等船室をキープしていた。
もちろん、親友マリナス氏のコネである。そういう抜け目のないところはさすがはわたしの祖父だ。
マジックの大道具を港の倉庫街へ預けたわたしたちは、身の回りのものを詰めたトランクだけで船を下りた。
煉瓦作りの建物が並ぶ街は景観が整っている。道行く人々の顔つきには活気があり、いかにも繁栄している港街っていう感じ。
「ボストンはアメリカでもっとも歴史の古い街のひとつなんだよ」
祖父が教えてくれた。
大きくて広いアメリカ大陸は、北と南でいくつかの国に分かれている。
いちばん北はアラスカ。少し南下してカナダがあり、その次が北アメリカ。いまわたしと祖父がいるボストンを含めた東海岸は、大西洋に面した地域だ。
南アメリカにはメキシコやブラジル、ペルーやアルゼンチンなど、年中暑い国々がある。
祖父は何度か行ったことがあるそうだ。
わたしはまだ行ったことがない。
いつか行こうとは思っている。もちろん、わたしの両親もいっしょにだ。
歩くこと15分ほどで到着したのは、おもに中産階級以上の人々が利用する立派なホテルが立ち並ぶ通りだった。
「今日の昼だが、レストランでロブスターでも食べよう。この街はクラムチャウダーが有名なんだ。生牡蠣もあるぞ」
ボストンは伝統的な建築物で有名だが、古い港町だけあってシーフード料理も有名だ。
祖父なりに気遣ってくれているのだ。
でもわたしは、欧州のどこかに囚われている両親のことを考えると胸の奥がざわついて、クラムチャウダーや牡蠣なんか食べてる場合ではないと反抗的に思ってしまう。
生牡蠣はフランスのニースで食べさせてもらったことがある。おいしいとは思ったけど、わたしは好んで食べたいとは思わない。
そう思ったのが顔に出たのか、祖父がわたしの顔を覗き込んできた。
「だったら、この街発祥のクリームパイはどうだ? ここでしか食べられない名物だぞ」
『ボストンクリームパイ』は、呼び方こそパイだが、カスタードとチョコのケーキと聞いたわたしの心は動いた。
というわけで、少し早い昼食はボストンクリームパイを出すレストランに入った。
どんなに焦ったところで、いますぐ欧州へ飛んで帰ることは叶わないのだ。
シーフードに特別なこだわりがあるわけではないが、わたしはクラムチャウダーよりボストンクリームパイの方が気に入った。パイ皿を使ってスポンジケーキを焼いた名残で、パイと呼ばれているのだとか。
ことにボストンクリームパイは、この街に滞在中にもう一度食べたいと祖父へ頼んだくらい、好きになった。
レストランから帰ってきてホテルのロビーに踏み込んだとたん、違和感があった。
その源を探してロビーのフロアを見渡すと……。
ロビーの一角にあるソファで、気難しい顔つきで新聞を読んでいる男がいた。
リズの監視人だったジャノ。
二等船室に乗っていたときとは段違いに高級そうなネクタイとスーツ。格好だけは申し分の無い上流階級の紳士で決めている。これが泥棒貴族の一族で有能といわれる男のもう1つの顔か。
彼もこのホテルに宿泊するのかしら。
わたしは祖父の方へ顔を向けた。
ジャノは、わたしたちを知っている。
わたしと祖父はジャノの存在を知らないとジャノは思っているはずだから、向こうから近づいてくることはありえない。が、用心に越したことはない。
ふと、嫌な予感。ぞわり、体の芯がさざ波立った。外の刺激とは関係がない。これはわたしの内側からのもの。
ああ、わかった。これは予知。ジャノの運命の片鱗。これから欧州へ帰還する彼には、故郷の地フランスで、なにかしら暗い運命が待ち受けている。
しかもジャノ以外にも、数え切れない人々を含めた、運命の巨大な流れがゆっくりと渦巻いていて……。
わたしは急いで心の眼を閉じた。大きすぎる運命の流れは、目を凝らしても視えないもの。無理に視ようとしたらぼやけるばかり。
おそらく欧州へいくわたしも今は同じ運命の流れにいるのだ。
運命は川の流れのようなもの。陸地からなら上流も下流も見渡せるけど、川の真ん中で流されていたら下流しか見えないから。
だからといって、あきらめる必要はない。
未来へと進む道、運命の分かれ道はいくつもある。つまり、運命の分岐点は、自分で選ぶことができるのだ。人間が選択した行動により、未来は千変万化に変化していく。
ジャノの未来も、いまのわたしがはっきり視えないということは、確定されていないということ。
人間にはそれぞれ生まれつきに背負ったものや『死』のような変更不可能な『宿命』があるものだけれど、運命なら変えられる。
ジャノだって、彼の行動次第で明るく良い未来をつかめる選択肢があるはず。
これは曾祖母からの教え。良い未来を占って欲しい人が来たら、その人にとっていちばん良い未来への選択肢を教えてあげなさい、と教わった。
ジャノには教えてあげないけどね。
これは普通に生活していても、自分でもよく考えたらわかることだから。それでもわからず迷って困り果てた人が、曾祖母やわたしのような人間に相談しに来るのだ。
わたしはこっそりロビーを見回した。
ここには欧州行きの船を待つ人々がいる。
――やっぱり……。
そのほとんどの顔には、ジャノと類似した相が表れていた。個人ではどうにも抗えない、ものすごく大きな運命。人間の力では防ぎようがない、時ならぬ嵐のような……。
そしてそれは、信じられないほど悪いものなのだ。
軽い気持ちで覗き視た未来の色は、わたしの思考には重すぎた。ほんの1秒ほどの間、体を動かせなかった。
でも、視て良かったわ。
リズたちとは関係ない。
アメリカに住むリズは安全だ。アメリカは欧州とはちがう。このあとの英国とも……。
「レンカ」
祖父に呼ばれ、わたしは現実に還った。
いま、わたしは英国も……と思った?
わたしの故郷もこの大きな運命に関係があるのかしら。
早く欧州へ戻ければならないという危機感が一気に膨れあがる。
もともと焦る気持ちはあったけど、今日はいっそう強く感じる。
これはジャノの運命の片鱗を見たせいか。
わたしと祖父は、わたしの両親を探すために欧州中を旅してきた。
オランダ、ポーランド、スイス、モロッコ、イタリア、フランス、ハンガリー、オーストリア……。
旅行をしていた両親が通過したであろうコース、少しでも観光に立ち寄った可能性がありそうな所は、ホテルや小さな観光名所だろうと片っ端から訪ね歩いた。
この旅が始まってから1年半の間に、祖父の靴底はわたしが知るだけで3回は修理している。わたしの靴も、途中で成長した分も含めて新しいのを2足購入した。
少し踏み込んだ調査をしたいときはシャハロ魔術団として興行を打ちながら数日間滞在した。舞台から観客をこっそり千里眼で視たり、時間があれば街を歩き回った。
どこのホテルや民宿にも両親が泊まったサインは無く、写真を見せても知っている人はいなかった。
欧州が広いのはわかっているけれど……。その広い場所で、海を隔てた英国までにも、これから何が起こるというのだろう。
「部屋が取れたよ。ここに三泊するからね」
祖父の後ろでポーターが荷物をカートに積んでくれている。トランク3個だけど。
「はい、おじいちゃま……」
良い子の笑顔で応えたその時、わたしの耳は、聞き慣れない言葉を拾った。
「ハイル・ヒトラー」
それが発せられたのは、ロビーの片隅。
もしかしたらわたしの生来の能力がわたしの脳へ直接届けた現実ならぬ音だったのかも知れない。
その方向は。
わたしの立つフロントよりもずっと入り口に近い方。1本の柱、その陰に立つ6人。上品なスーツの紳士たち。このホテルの客人としてありふれた格好の人たち。
だが、その光景を捉えたわたしのもうひとつの『眼』は、真実の彼らがまったく異なる服装をしている姿を視た。
3人は褐色のシャツ。あとの3人は黒いシャツ。どちらも恐ろしく画一的な制服だ。共通点は、左腕に4つのかぎ爪を思わせる特徴的な黒い十字紋様を描いた赤い腕章が付けられていること。
単にこんな映像だけを捉えたのであれば、普段ならつまらぬものを視てしまったと溜め息1つですませる。
だって、これがわたしの特質だもの。なにげに視えちゃうものにいちいち反応していたら身が持たない。
もし、とうとつに視る気も無いのにわけのわからぬものが視え、聞こえるはずのない音が聞こえても、そちらへ意識を集中してはいけない。
それが必要なもの、重要な意味を持つものならばけっして消え失せたりせず、あとで落ち着いてからでも視直すことができるから……とは、曾祖母から教わった、わたしの特異体質ゆえに厳格に護るべき大切なルール。
だが、このときばかりは無視するわけにいかなかった。
わたしの優れた千里眼は、黒い制服の男の1人が持つ記憶の断片をも拾い上げて、その奥を覗き視た。
そこには黒髪を結い上げた婦人の横顔があった。色褪せたスカートに汚れたエプロンを着けたこの女性は……!?
「お母さん!」
叫んだわたしの前へ、祖父はサッと立ちふさがった。
祖父の黒い瞳の中に、目をまん丸に見開いてこわばった表情をしたわたしの顔が映っている。でも、わたしは祖父を見ていなかった。脳が捉えた幻のような母の後ろ姿だけに集中していた。
祖父はわたしの両肩へ手を置いた。
「落ち着きなさい。すぐ部屋にいこう」
「でも、お母さんがッ」
祖父の手を振り払おうとするわたしを、祖父はひょいっ、と抱き上げた。わっと、わたしは、祖父の首へ両手でしがみついた。
祖父にわかってもらえるように、うまく話せない。
いま視えたあの人の記憶のことを説明したいのに!
あれは確かにわたしの母の姿を見た記憶だった。一瞬だけど、誘拐されて監禁場所に閉じ込められている母に間違いない。
あの人は誘拐犯ではない。
でも、関わりがある。
彼らは危険なのだ。
なんの前触れも無く母の手掛かりを見つけてしまった衝撃は、自分で想像していた以上にわたしの感情をメチャクチャに乱した。
頭の中では感情が乱れた原因と理由までちゃんとわかっているのに、制御できないのだ。
「だって、だって、お母さんが……う、うえ……」
わたしは小さな子どものように、声をたてて泣き出した。
「よしよし、顔を伏せていなさい」
祖父がわたしの頭へ軽く手をおいた。祖父も能力者だ。わたしの混乱した原因には気づいていただろう。
「お母さんに会いたいッ!」
探し求めていたものを見つけてしまったのだ。わたしは嵐のように荒れ狂った感情の波に完全に飲み込まれた。祖父にしがみついたまま、わんわん泣いた。
「しー、もうだいじょうぶだ。さあ、落ち着いて」
祖父はしゃくりあげるわたしをなだめながらポーターが運ぶ荷物を積んだバゲットカートと共にエレベーターへ乗り込んだ。
エレベーターの鉄柵が閉まり、上昇がはじまる。
祖父の肩に顔を伏せていたわたしは、そのときはまだロビーにいただろう母の記憶の持ち主を、もう一度見ることはできなかった。
あのとき、もう少し冷静になって、ほんのちょっとでも視ておけば、わずかでも情報が取れただろうに。
このずっとあとでそれに気づいたわたしは、後悔のどん底に陥ることになる。




