4話――日常
「ちょっと紗夜、これどうしたの」
帰宅後、リビングでぼ〜っとしていた私に、ママが珍しく声を荒らげる。振り返ってギョッとした。ママの手には袖が血まみれのYシャツが握られていた。
(しまった……! こっそり洗濯機に入れておいたのに)
「え、えっと……」
脳ミソをフル回転させて理由を考える。
「……友達が鼻血出しちゃって。思わずティッシュで抑えてあげた時に付いちゃった」
「そう……あなたがケガをした訳じゃないのね」
「うん、私は大丈夫だよ、ママ」
「なら良かった……何度も言ってるけど、紗夜は体が弱いんだから気をつけるのよ。あと――これじゃ血の汚れは落ちません!」
洗剤を直接付けてしばらく置かなきゃいけないのよ云々、ママの小言を素直に聞き入れる。我ながら苦し紛れの言い訳だったが納得してくれたようだ。
「紗夜〜〜〜!! 一緒に勉強しよ!」
世界史の教科書を片手に奥の部屋から声の主が飛び出してくる。
「佳夜ちゃん! ……ごめんね、昨日数学沢山教えてくれたのに、あんまり出来なかったや」
「ドンマイドンマイ、過ぎた事をクヨクヨしてても仕方ないよ!」
「うん……!世界史は佳夜ちゃんと同じくらい良い点取りたいな。頑張るよ」
私の言葉に佳夜ちゃんはニッコリ頷いた。サラサラのストレートヘアが肩から落ちる。大人びて綺麗だ。
私と佳夜ちゃんは一卵性の双子だ。遺伝子的には一緒の人間な筈なんだけど、私達は性格も、趣味も、得意分野も、何もかも違う。佳夜ちゃんは私と違って頭もいいし、運動神経も抜群だ。それにモテる……! 顔はそっくりだけど、センター分けストレートヘアの佳夜ちゃんと、もっさりボブヘアーの私を見間違えるクラスメートは一人も居ない。メイクだって毎朝きちんとする(うちの学校は化粧OKだ)。いつも準備でいっぱいいっぱい、殆どスッピンの私にはとても真似出来ない。
自分よりずっとずっと優秀な佳夜ちゃんがたまに羨ましくなるけど、この出来た姉はいつだって私に優しい。勉強を教えてくれたり、泣き虫な私をいじめっ子から庇ってくれたり、一緒にゲームしたり漫画読んだり、そうやって過ごしていると小さな劣等感なんてあっという間に消えて無くなるのだ。
ママだってそうだ。小さい頃にパパが死んで、そこから女手一つで私達を育ててくれた。少し口うるさい所もあるけれど、誰よりも私達が大好きなんだ。
今住んでいるアパートだって、少し狭くて古いけど居心地の良い我が家だ。学校も近いしね。
至って平凡だけど、満たされた私の日常。
それが今、ガラガラと音を立てて崩れようとしている。
――2人が寝静まった頃、こっそりとベッドを抜け出した。佳夜ちゃんは2段ベッドの上の段で寝ているので、起こさないように抜き足差し足で机に向かう。
お目当ての物は直ぐに見つかった。
月明かりに照らされキラリと光るコンパスの針を、自分の手の甲に近付ける。暫く躊躇したが、腹を決めて震える手で思いっ切り突き刺した。
「くっ……!」
歯を食いしばって鋭い痛みに耐える。
ぷうっと膨らんだ赤い雫は、しかしそれ以上大きくなることは無い。
ティッシュでそれを拭き取ると、手の甲には傷一つ、残っていなかった。
何度繰り返しても結果は変わらない。
――ああ、これは紛れもない現実なのだと、
嘲笑うような月明かりの下で、私は声を殺して泣いた。
*****
期待していた現代文のテスト結果は、とても満足と呼べるものでは無かった。
(うう、58点……中間考査の時よりは良かったけれども!)
チラッと佳夜ちゃんの解答用紙を盗み見る。90点……何が同じ遺伝子だ。努力の差だとでもいうのか。私だって頑張ったのに!!
別に得意な科目も無いし、数学なんかは更に酷い訳だが、何故だか私は国語、特に現代文が苦手である。これで文芸部所属、クラスの誰よりも本を読んでいるというんだから泣けてくる。
主な原因は「作者の意図・心情を答えろ」的問題だ。授業で習う文章ならまだいい。2年生にもなると入試を見据えて初見の文章が当たり前に出て来るのだ。自分なりに考えて考えて生み出した解答は無慈悲なバツ、バツ、バツ……横に小さく赤ペンで「難しく考え過ぎ」の文字。私は黒板の前に立つ採点者を睨んだ。
彼は今日もボサボサのくせっ毛を邪魔そうに掻きあげながら喋っている。下はカーキのチノパン、上はくたびれた紺のセーターの上から何故か白衣を羽織っている。国語教師なのに何故?と生徒から何度も突っ込まれているが、いつもなぁなぁに受け流された結果、最早誰一人気にする者はいない。
「いいかぁお前ら、一見難解な大問が出ても焦らないこと。答えは必ず文章内にあるからな。律儀に冒頭から読み始める前にしっかり問題文を確認しておく事。著者はあるテーマについて明確に賛成・反対の立場を述べているはずだ。問題文にあるのと同じ単語がキーワードだ、それを丸で囲んでいけば何処かに答えがある。ダミー選択肢に惑わされるな。『確かに〜かもしれない』みたいな文章はオブラートに包んでるだけで著者は1ミリもそう思っちゃいねぇ、その後に続く文章が本当の意見だ」
いつもの「ヤマケー節」で問題の解説をするこの男が、裏では殺し屋をやっていて、自分は誰かに命を狙われていて、おまけに訳の分からない特異体質である――数日前からこの身に降りかかった非日常は心をぐちゃぐちゃにかき乱したけれど、それでも日常は何事も無かったかのように平和に進んでいく。
ヤマケーは「取引」の後、特にアクションを起こしてこない。てっきり人体実験か何かのモルモットにでもされると思い込んでいたので、警戒していた分肩透かしを食らった気分である。
ここ数日、自分なりに色々試してみた結果分かった事実はこうだ。
①切り傷・刺し傷・擦り傷などの出血を伴う軽い怪我は瞬時に治る。恐らく負傷する部位を問わず、だ。(恐らくと述べたのは自分では試せない部位がほとんどの為。せいぜい手足、顔、胴体、胸、口内くらいが限界である)
②流れた血液はその場に残る。(月経も普通に来るし血液検査も引っかかった事は無い)
③打撃による内出血、アザなどはそもそも出来ない。(血豆が出来て泣く佳夜ちゃんを見てお転婆だなぁと呑気に考えていたっけ……)
④恐らく風邪や病気には普通にかかる。(インフルエンザで寝込んだ経験あり)
⑤準備室の時のような煙が出る現象はまだ起きていない。深い怪我の時に発現するんだろうが……怖くて試せない。
⑥これが1番重要なのだが、痛覚は普通にある。――そう、痛い!痛いのだ。
例えば、「骨折したらどうなるのか」「毒は効くのか」「溺れたら?」「潰されたら?」「焼かれたら?」「凍ったら?」「頭部を切断したら?」なんていうおぞましい疑問は当然湧いてくるものだが、勿論自分で試す勇気は無い。痛いのは嫌だし、うっかり死んでしまったらそこで終わりだ。
そうなると次に湧き出てくるのは「何故、いつからこうなったのか」という疑問だ。少なくとも生まれつきでは無いだろう。双子の姉佳夜ちゃんは普通に怪我をする。逆に私はというと、元々大人しい性格だった為小さい頃から極端に怪我が少なく、全く検討もつかない。勿論、タンスの角に小指をぶつけるとか、紙の端で指を切るとか、些細なポカは何度もやらかした事があるけれども、そんな傷、誰だって気付かないうちに治っているものだ。
ママや佳夜ちゃんに聞いてみたい気もするが、ヤマケーとの取引は「体質を誰にも話さない事」が条件だ。勿論家族も例外なくそこに含まれる。
悶々と考えていると、いつの間に時間が経ったのか終礼のチャイムが鳴った。皆の課題を集めて回る。これも国語係の仕事だ。なるべく目を合わさないようにヤマケーに渡す。さっさと席に戻ろうと踵を返した瞬間、ボソッと低い声が聞こえた。
「石川、テストの裏」
一瞬なんの事か分からなかったが、ハッと我に返ると自分の解答用紙を裏返す。隅の方に小さく折り畳まれた紙がテープで貼ってあった。誰にも見られないように机の下でこっそり広げる。
『明日13時 △△駅前のカフェ「Hideaway」の前に来い(変装する事)』
次に顔を上げた時には、メモの主はもう教室にいなかった。
高校の勉強をまともにやって来なかったので、ヤマケー節はネットの記事を参考にしました(変だったら教えてください……!)
ちなみにコンパスの針ぶっ刺すのは学生時代実際にやった事あります。痛いです。鶏肉にフォーク刺すみたいな感覚でした。