第五話 散り際に黒
※アイススクープ……アイスを球状に掬い取るための道具。
黒斑が点在した校内を一心に駆ける。
自分の教室は二階にあるのでこれから階段を使って上に行かなければならない。
周囲に起きた不可思議な事象も今となっては恐怖以上に焦りと緊張を与えている。
人間というのは訳が分からないのキャパを越えてしまうと逆にあまり気にならなくなってくるらしい。
教室を後にしたときに感じていたような孤独感も何処かへ吹き飛んでしまったようだった。
今はただ前に走るだけである。
「くそっ!」
ようやく階段まで辿り着いたが最近運動をしていなかったのが祟ってか息切れが酷い。
こんなことならもっと前からジョギングでもしておくんだった。
思わず言っても仕方ないような愚痴が浮かぶがご愛嬌。
とにかく立ち止ることはしたくないので苦しいのを堪えて階段を全力で上る。
それにここを上ってしまえば教室はすぐそばだ。
「――っ」
最後の段差を駆け上がった時に履いていた上履きが脱げた。
勢いがついていたのか階段を転がっていくととと……という音が自分の足音と息切れの音しか聞こえない世界に小さく鳴った。
だがそれを拾いに行く時間さえ今はもどかしい。
転がり落ちた上履きをそのままに俺は自分の教室へと続く廊下までやって来た。
視界に入ったのはやはりいつもの学校の廊下の姿ではなく、やはり所々が底知れぬ黒に変色しており、段々とその箇所は増えていっているようにさえ見えた。
状態が一階に比べて軽微であることに期待していてのだがそれは高望みだったようだ。
現に見えている限りではさほど変わりない。
あの黒い化け物とこの校内に点々とある黒い何か。
時間が止まってしまってから連続して起きている異変であるあたり関連性がないとは言い難い。
しかしどう止めればいいのか。
ここに来るまでに少しでも考えておきたかったがやはりこの短時間では無理があったようだった。
とにかく足を動かすべきだろう。
俺は元いた教室の方へと走る。
早く走って、もう命を奪わせないようにと少しでも早く目的の場所へ。
罪滅ぼしとは言わないが助けられなかったあの男子生徒の分も誰かを救える立場である俺がみんなを救わなければならなかった。
しかしまずは俺の幼馴染の二人のもとへと。
我が儘なのはわかっているがどうしても……どうしてもあの二人だけは先に助けたかった。
今まで救われてきた俺だからこそまずは最低限二人にそれを返さなければならなかった。
自分の教室へ走っている途中で他の教室のことも覗き見てみた。
するとどうだ。
まだあの化け物はやって来てはいないようでぱっと見た限りではどの教室も壁や天井が他と同じく部分的に黒く変色しているだけで生徒たちに大きな変化は見られなかった。
もしかしたら、と動いている人間に期待していた俺としては少しくらい変化して欲しかった光景ではあるのだが命が無事なだけ感謝しよう。
ようやく着いた教室の様子は窓ガラス越しに見る限り先のような変化が教室自体にこそあれど他は問題ないようだった。
疲労で眠っていた時間がどれほどだったのか確認できていない以上何が起きていてもおかしくはなかったのだが、どうやら眠っていた自分を呪う羽目になることはなさそうだ。
教室の端には……良かった、昼休みと変わりなく黒くもなっていない悠人と花恋の姿がある。
変わりない呆れたままの悠人と昂ったままの花恋。
あれからそこまで時間は経っていないと思うのだが凄く懐かしい気がした。
「良かった……」
本気で胸を撫で下ろしたのは生まれて初めてかもしれない。
俺は安堵からかほっと息を吐くと少し固い教室のドアを開け――。
ブオオオオオオンッ!!!
――た?
扉を開けた途端視界全体を覆った特大の黒と鈍い音。
長めの瞬きをしているような錯覚に陥って、しかしすぐに自分の目が閉じられていないことに気が付く。
するとこれは一体?
その答えはものの二秒くらいが経ってから嫌でもわかることになる。
真っ黒になった視界が再び色を取り戻したとき、既にさっきまでの教室の姿は一切残っていなかった。
教室そのものがまるごと冗談みたいになくなってしまっていた。
俺のすぐ目の前からアイススクープか何かで削られたみたいに根こそぎ何もかもが存在しなかった。
――いや、厳密には何もないというわけでもなかった。
ただその中心に黒い球体だけがぷかぷかと浮かんでいたから。
思考が完全に詰まる。
ドアを開けたら教室が無くなった。
俺のせい?
教室にはクラスメイト達がいた。
でもそれも全部いなくなった。
俺のせい?
視線を下に向けると下の教室も同じように何もなかった。
多分下から真上のこの教室を飲み込んだようだった。
俺のせい?
机も教卓も黒板も時計も残ったものは一つもないようだ。
此処には呆然とする俺と黒い球体だけが在った。
俺のせい?
飲み込まれた色々の中には二人もいたはずだった。
つまりいなくなった。
俺のせ――。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
自らの理解が追い付いた時を皮切りに意味のない絶叫が剥き出しの空に漏れる。
消えてなくなったこの一角でそれでも俺は此処にいた。
何もできないくせに此処にいた。
理不尽は理不尽だから理不尽なんだと否が応にも理解させられた。
抗える相手ではなかったのだと、決意したばかりの折れないつもりでいた心がもうぐちゃぐちゃにぶち壊されそうだった。
「ああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」
トイレで枯れ果てたはずの涙が嘘のように溢れた。
ただ全部吹き飛ばしてしまいたい気持ちを堪えられずにどうにもできないから声を上げ続けた。
「ああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」
生まれて初めて喉が引きちぎれそうなほどに叫んだ。
そしてそのまま声は殺さずに怒りは目の前の黒い球体へと向けられる。
「お前は何なんだよ! 突然現れたかと思ったら俺から何もかも奪って! 学校も、教室も、友達も、先生も、幼馴染も……! ふざけんなぁっ!」
それは何もすることなく浮遊している。
「大体この世界で一体何が起きてる! 何で時間が進まない? 何で俺だけが動き回ってる? 当てつけか!? 目の前で怖いもん見せつけて楽しんでんのかこのクソカス野郎! 死ね!」
どれだけ罵声を浴びせようとそれが何かをすることはない。
「ファンタジーに憧れたりもした! 異世界とか非日常に憧れたりもした! でもこんな悲惨なこと願ったりしない! いいからさっさと全部元に戻せって! 戻してくれよ……!」
悲しみが怒りに追いついて更に複雑な感情として心を支配する。
楽し気な二人の姿が、居心地の良かったあの空間が、こんな俺でも仲間外れにしなかったクラスメイト達が。
目の前でこいつに消されてしまったのだ。
にも関わらずこの忌々しい何かはその場にぴたっと張り付いたように動かない。
俺がこんなにぶち殺してやりたいと思っているのに身じろぎ一つしない。
それがまた俺たちを馬鹿にしているようで我慢ならなかった。
それ故すぐには気付かなかったのだろうか。
何もしていないように見えていたその黒い球体の表面がうっすらと波打ち始めたことに。