第三十九話 明け森の狭間にて
「ここまで酷い目に遭ってまで『それでも』と手を伸ばす――貴方の望みは何ですか?」
殴り飛ばされ、木に叩きつけられた先で誰かが挨拶もなしに問う。
リザ……じゃないな。
痛みに動かない身体でそれだけは理解した。
声質は似ていても凛とした声色が違う。
赤い花と変わる形で目の前に現れた雪のように白い素足。
それが誰のものかもわからないまま、かといって訊ねる気にもなれない俺は促されるまま答えを思い浮かべる。
俺の望みか。
それなら偶然にもついさっき心に決めたものがあった。
用意してある以上答えるのは難しくない。
「みんなと一緒にいたい……。何かになるためとかじゃなくて、ただ俺がみんなと笑っていたいから……そのために苦しくても頑張っていたい」
横たわったままで頬を地面で汚しながら朦朧とする意識の中で問われたことに答える。
満足のいく返事だっただろうか?
返答して若干の間が空いた。
呆れていなくなるかと思ったがそういうこともなく。
やがて綺麗な素足の持ち主は嘆息する。
「それはまた……優しいようで大変身勝手な望みですね。人の幸せを願うのは構いませんがその実、あなたは自らの心の安寧の為に努力しようとしている。そこに他者の気持ちはありません。お友達はあなたに戻って来て欲しいなんてさほど思っていないかもしれませんし」
ここまで傷ついた人間によくそこまで事実を吐けるな。
残念なことに俺の目の前に立つこいつは天使ではなく悪魔の方だったのだ。
だが彼女?の言っていることは間違っていない。
俺は自分の為にみんなの安否を確かめたいと考えているから。
そのうえ危ないことになっているなら助けたいとすら思ってしまっている。
大した力もないのにそんな夢みたいなことを考えてしまっている馬鹿をもちろんわかっている。
だから頷くことしか出来ない。
「そうかもな」
「二人の男女が仲を深めている所にあなたの存在は余計かもしれません」
「うっ。 それはまあ想像するだけでなんかこう胸が痛いんだけど……」
やめろ。
お似合いすぎて本気で自分が惨めになる。
「それでも貴方は向かうのですか? この地を抜けて彼らの下へ」
「あぁ。 リザだって助けてくれるみたいだしきっと何とかなると思うんだ」
勢いだけの俺だけでは無理かもしれない。
でも賢くて強かな気立てのいい彼女と一緒であればこの森を出ることが不可能ではないと信じている。
「――そう。 彼女と一緒に……」
また彼女の言葉が途切れた。
急かす気もない。
大人しく待っていることにする。
そういえばこんなにのんびりしていていいのだろうか?
奴は今度こそ俺にとどめを刺しに――。
「では、そんなどん底にいる貴方に取引をする機会を与えましょう」
「取引?」
魂と引き換えにリザだけでも助けてくれるとかそんな話だろうか?
それなら考えないこともない。
悠長にそんなことを思ったが彼女の要求は全く理解の及ばないものだった。
「ええ。この世界を見て回って欲しいのです。他でもない貴方自身の目で」
「この世界を……見て、回る……?」
それだけなのか?
それだけで……俺は何を得られるというのか。
彼女の意図は汲めないが要求が言葉通りなのだとすればそんなのはただの異世界旅行だ。
元々俺の推測通りであればこの異世界にいるではずの皆を探すつもりだった。
必然異世界中を探し回らなければならないことを考えれば何ら苦ではない。
となると見返りとして大したものは見込めないだろう。
しかし、
「それを叶えてくれるのなら私からは貴方に、私の知る限り最高の力をお貸ししましょう」
彼女が支払う対価は想像を上回るものだった。
「私の知る限り最高の力」というのがどれ程のものを指すのかはわからない。
たださっきから彼女は俺たちの状況をわかった風に話している。
奴に勝てる可能性を考慮しての提案であると捉えることだって出来るわけだ。
それは果たしてこの圧倒的不利を覆すことが出来るほどの力なのだろうか。
もしそうなのだとして、やはり話が美味すぎると思ってしまう。
こういった都合の良い変化や成長は努力に実直なこの世界においてありもしないことを、変化を望んで何もせずにいた他でもない俺自身の空虚な日々が証明している。
加えてこの話のどこに彼女はメリットを感じているのだろう?
どうしても俺にはわざわざ手を貸そうとしてくれる理由が掴めない。
それにだ。
「もう少し詳しく聞きたい……けど、あまり時間が無い。知らないかもしれないけど俺は死に体で、今まさにトドメを刺されそうなとこなんだ」
「知っていますよ。だから私が来たんです。貴方に死んで貰うのは惜しいと感じました。それに時間の問題であれば……」
言いながら彼女が後ろに数歩歩いたことで眼界の大半を占めていた足が見えなくなる。
と、必然俺はその先――俺を殴り飛ばしたであろう奴の醜い醜い姿を見ることになり。
「動かない……?」
いや、動かないのとはちょっと違う。
それは黒手を横たわる俺へと伸ばしており、いつもみたく不可解に立ち止まり様子を見ているわけではない。
明らかにこちらへ攻撃の意志を示しており、そのうえで動きを止めている。
つまるところ完全に、あの日の再現だ。
「お前は……!」
一気に血流が湧きたつような憤りを覚える。
と、同時に自らの身体も動かないことに気付いた。
花へと伸ばした腕が地に伏したまま微動だにしない。
痛みや怪我のせいだと思っていたがそうではないらしい。
幸い口元だけは動くようだが他は縫い付けられたようにピクリとも動かなかった。
自分も動けないという違いこそあれどほぼ同じ現象。
最悪の思い出だ。
あの日の出来事は記憶を取り戻した時から毎日のように夢に見る。
毎朝汗でぐっしょりと濡れた枕の不快感と共に目が覚めるのだ。
わかりやすく真っ黒に滅びていく世界と俺だけの時間。
誰も助けられない悲しみと無力な自分への怒り。
最後に友と語らうことも許されず異世界へと連れ去られた。
こいつが全ての元凶なのだろうか。
少なくともこんな現象が偶然に二度も起こるはずがないことは確かだ。
俺は彼女を糾弾しようと口を開きかけて、
「言っておきますが私が全ての元凶などということはありません。復讐の機会は別で探してください」
まるで心を読んだかのようなタイミングで彼女は俺の感情に冷や水をかけた。
「私が示したかったのは今すぐに貴方が死ぬようなことはないということです。この時間の中でなら十分取引について話ができます。とはいえそこまで長い時間は取れませんが……」
「そんな簡単に信じられるかよ!」
一方的な話に納得が出来ず彼女の話に食ってかかる。
本当はもっと具体的な反論がしたかったが今のところ彼女が確実に敵であるという証拠は無い。
「それもそうです。ですがもし私が貴方の恨む相手だとしてこんなやり取りをする必要がありますか?貴方を殺したいならとっくにそうしています。私の殺したい相手があの子であったとしても同様です」
「でも、ほ……他に目的が」
相変わらず返す言葉が浮かばない。
死にかけの金魚みたいに口をパクパクさせることしか出来ない。
悔しいがこのままではこいつの思い通りに話は進むだろうと予感してしまった。
「何にせよ貴方には私と取引をする他ないはずです。私が今この場で貴方を害する気はありませんが、この時間を解けば間違いなく即死するのは貴方ですから」
「こいつ……!」
余裕たっぷりな言動は大変ムカつくが言っていることは間違っていない。
素足の悪魔が言う通り俺には選択肢がなかった。
このまま死ぬかこいつの要求を呑んでイチかバチか抗ってみるかの二つに一つなのだ。
そしてこんなぼろぼろの身体でも諦める気が無い俺が前者を選ぶはずがなく。
「……はぁ。わかったよ。あんたの話に乗る。当たり前だけど納得は出来てない。話が出来過ぎていてまだ裏があるんじゃないかって考えも抜けない。ただ乗らなきゃそこで全部終わるってことだけはわかるから……仕方なくだ」
「ふふ、賢明な判断です。こちらも脅しのようになってしまったことは悪く思っています」
彼女の舗装した道へと誘導されてしまった俺は結局大人しくその道を歩くことを選んでしまった。
だからもしこれが悪い方へ転んだとしても最終的には自分で選んだ道だと納得する他ない。
恨みはするけど。
「ふぅ。では取引成立だ。いやぁ~疲れた。仰々しい喋り方っていうのは荘厳さを出すのに最適だけど如何せん疲れるから良くない。同じ事をやっていた君ならわかるだろう?」
――こいつはどこまで知っているんだ?
彼女の口調が変わったことよりもリザに嫌われないよう礼儀正しく話していた当時のことを引っ張ってきたことの方が驚きだ。
小屋には間違いなく俺とリザしかいなかったし、第三者の介入する余地はなかったはず。
内弁慶な俺がリザを内に入れたあの夜も確かに俺とリザの二人しかいなかった。
まるで見てきたかのように話す彼女について聞きたいことはいくつもある。
誰?どうやって突然?目的は?取引の真意は?なぜ俺達のことを知って?
動けない俺の眼前を右へ左へ歩き回る彼女に話をさせるべきだ。
「では時間もないし早速刻ませてもらおう。なに、ああいう言い方はしたがそもそも君には星の意思が宿っているわけだし、こうなることは決まっていたようなものなんだ。さ、こうやって肩に触れて……」
「お、おい急に触るなよ!」
「ふふ、君も男の子だろう?可憐な女の子からのスキンシップだ。喜んで身を委ねないと」
「なんなんだこいつ!」
貴方と呼んでいたのが自然に君に変わっているあたり本当にこっちが素なんだろう。
俺が聞きたかったことは一切聞けないままで彼女の手と思しきものが肩に触れる。
痛いことはされないだろうか?
俺は確かに男の子だが痛いのは人並みに嫌いだ。
が、そんな不安をおくびにも出したくない俺は一瞬情けなくもびくり、と反応してしまったことを努めて忘れるようにして目を伏せる。
と、すぐに肩のあたりが温かくなるのがわかった。
それから五秒ほどして触れていた手は温もりの消失と共に肩から離れていく。
あっという間の出来事だった。
大したことをされたようには感じなかったが彼女は最後にやりきったような溜息を一つこぼす。
「ほら、もう終わりだ。そんなに怯えるようなことじゃなかった」
「も……もう終わりなのか?」
「あぁ。今君には私の知る限り最高の力の……その一部を与えたとも」
大変満足そうな様子だが俺は聞き逃さなかった。
一部?一部と言わなかったか?
だとしたらそれは効いていた内容と違っている。
「一部ってお前話がちが――!」
「だーいじょうぶだって!彼女と君が力を合わせれば勝てるさ。これでも私、人を見る目だけはあるんだから」
一体何が大丈夫なのか。
うろちょろ動き回っていた足が俺の前で止まり自信満々な声色で話している。
明らかにこちらが詐欺にあっているというのによくもまあこれだけ堂々と。
それに生憎だがその人を見る目というのも取引相手に選んだのが俺であるという時点で疑わしくなっている。
世界を見て回るくらいなら俺でも出来るだろうという判断なら流石にやってみせなければならないが、それにしても最高の力というのを一部であったとしても易々と渡していいわけがない。
そうなると何か。
まさか俺を信用してくれているなんてことはあるまいし。
やはりこの話に裏があることを考えずにはいられない。
「与えた力がどんなものか。彼女から聞いただろうし知る術はもうわかっているね?」
どうして彼女は俺が何かを考える時間というのを与えてくれないのだろうか。
だが彼女の言わんとすることはわかる。
この世界に来てすぐの時。
何も知らない俺に彼女はこの世界の常識をいくつか俺に教えてくれた。
これもその一つだ。
自らの力を知る術。
能力の可視化。
「ステータス」
口にする必要はないのだが彼女にそのくらいは知っているとを示したかったので一応声に出してみた。
普段はわざわざ口にしていない。
目の前に現れた本人にしか見えない半透明の画面。
そこにはレベルと持っているスキルが表示されるのだが、俺の場合は全く意味のわからないものがあるだけで――。
「こ、これ……」
「ほら!嘘じゃなかっただろう?」
これまで詳細のなかった俺のスキルにある記述が増えていた。
それがどういう能力なのか、使ってもいないのに何となく想像が出来る。
「君に刻まれた意思。是非有意義に使ってくれたまえ。私の知るそれとは理屈が全然違うけど見てくれはほぼ一緒さ」
俺の変化を前にあっけらかんと話す彼女にここでようやく好意的な感情が生まれた。
もしかしたら案外良い奴なのかもしれないと。
それに思えば取引ってなんだ?
世界を見て回れと言われたがそうしなかった場合については?
既に先払いで対価を得た俺が裏切る可能性を考えれば、単なる口約束でなくもっと厳密な取り決めが必要だったはず。
極端な話、俺が一定の距離以上あるか無かったら爆発する魔法をかけるとか。
それくらいしても俺は文句を言えなかっただろう。
でも彼女は……。
「あのさ――」
「いいから。それよりそろそろ時間がないんだ。少し私に喋らせてくれ」
疑問はまたしても解消する前に遮られてしまう。
彼女はこれまでも好き勝手に喋っていたと思うがそんなことを言えば怒らせてしまうかもしれない。
礼儀をわきまえている俺は大人しく彼女の言葉に従う。
「申し訳ないが私がいなくなるのとほとんど同時に時間は帰ってくる。黒手はすぐに君の命を摘み取ろうと迫るだろう。気を引き締めるように」
「――あぁ」
そんなことか。
何を言われるのかと思ったら心配をされた。
最後まで本当に何なんだろうこの人は。
それでも初対面のはずの彼女の言葉がとても心地よいから不思議だ。
「それから気付いていないかもしれないが怪我を何となく治してある。完全ではないけどね。出会った時ほど苦しさとかないだろう?少なくとも私に『一部ってお前話がちがう』なんて元気にツッコむことが出来る程度には大丈夫だ」
先に感じたような怒りや憎しみは既になく、遠足前の子供を見送るような彼女の世話焼きっぷりに料理が恐ろしく下手な母のことを思いだす。
「ここから先私の助けなんてものは一切期待するな。これでもとっておきを使っているんだ。次はない」
あの日からリザ以外の誰からも俺の事情を知ってもらえず、ほとんど一人で抱えた苦悩も葛藤も悔しさも痛みも。
それらを知ってくれているのだろう彼女の労いは俺の炉心に新たな炎を燃え上がらせてくれた。
「長くなったが最後に……足下しか見えていない相手の発言を真に受けすぎだ。多少は疑ってかかっていたようだけど、少し優しくしてもらえただけで突然現れた人間のことなんて信用しない方が良い」
「はは。その通りだ。肝に銘じるよ」
「うんうん。わかればよろしい――それじゃ」
先程からうろちょろせず目の前を離れなかった二本の足がようやく俺と逆の方向を向いた。
奴のいる方だ。
多分これでお別れで、ここから始まるんだろう。
まだ俺は何も聞けていないのに。
そうだせめて――。
「名前くらい教えてくれてもいいんじゃないか?あなたはこれで俺の命の恩人になるかもしれないんだ」
一歩だけ進んだ彼女の背に声をかけた。
もう二度と会えないような気がして。
「名前か……すまない、言えないんだ。ネタバレ?になってしまうからね」
「なんだそれ」
あんまりな答えに思わず苦笑する。
結局何もわからないままでお別れにしたいらしい。
だが相手がそれを望む以上俺には拒めないな。
ここを生きて逃れられたのならお礼を言うためにいつか見えたい。
再び彼女は歩き出す。
遠のいていく後ろ姿にやがて長い金色の頭髪が揺れる。
彼女は明るみだした空を見上げると、
「この世界を君が見て、その行く先を君が決めるんだ。君だけにその資格がある。私が託したからじゃない」
またよくわからないことを言った。
よくわからないのは今に始まったことじゃない。
でも間違いなく意味はあった。
俺は今勇気を貰った。
「――彼によろしくね」
彼女は最期にそう言って消える。
すぐに奴はやって来るだろう。
でも怖くはない。
力と勇気を貰ったから。
この森を出なければならない理由がまた一つ生まれてしまったのだから。