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理想郷には遥か遠く  作者: 小犬
第一章 瓦解する世界と泉の少女
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第三話 恐怖の権化


 実のところ教室を後にするその前からとっくに嫌な予感はしていた。

 進むことのない時計の針が少しでも動いてくれることに期待していたあの時間、廊下の方からも一切喧騒が聞こえてくることがなかったからだ。



 昼休みにも拘らず教室の前を一人も人が通らないというのはまず有り得ない。

 休日かと見紛うほどに静かな現状はまだ教室も出ていないうちから俺に外の状況というのを理解させていた。



 だからだろう。

 廊下でも教室と同じく表情を変えずに動かない彫像のような生徒たちを見ても絶望は薄かった。

 教室でしばらく時間を過ごして頭を整理したのも良かったのかもしれない。



 とにかく俺は落ち込んで何もせずにいるより今何が起きているのかの究明を優先した。

 それを考えられるくらいにはなんとか冷静で平常だった。

 頭の隅に巣食う()()()()()()()を除いては。



 極力それを深くは考えないようにしつつ思考を巡らせながら動かない生徒たちを避けて廊下を進む。

 向かっているのは放送室だ。



 今しなくてはいけないことを考えた時にまず浮かんだのは、この止まった時間の中を生きているのは自分だけなのかということだった。

 やはり自分一人だけでこの状況に向き合うのは無理がある。



 それはシンプルに原因をはっきりさせるためにも一人で考えるより複数で考えた方が良いという理由や、何か不測の事態に陥った時に対応できるようにという明確な理由もある。



 ことわざで言うなら三人寄れば文殊の知恵。

 あるいは猫の手も借りたいとでも言ったところか。

 人を探さない理由もないように思う。



 しかし正直なところ俺が俺以外の存在を探すのにはもっとみっともない理由があった。

 それは先程から俺の頭の中で脈打つ感情……()()だ。



 三人とは言わなくともせめて一人。

 この際猫でもよかった。



 このふざけた状況下で一人でいることが不安で仕方がない。

 先程から何を考えるにも世界に一人かもしれないという可能性が付いて回るのだ。



 家に一人でいるのとは違う。

 雪山の中で一人なのとも違う。

 如何に冷静を装おうと自分がもしかすると本当の孤独を前にしているのではないかという恐怖が常にある。



 だからせめてそれを取っ払うためにも全校にアナウンスして直接干渉できる誰かに出会いたいという理由があった。



 「誰かー!」



 焦っているのかいつもより歩幅が大きくなっているような気がする。

 今のところ廊下にも窓から覗くそれぞれの教室の中にも俺のように動き回っている者はいないし、呼びかけに反応する様子もない。



 いよいよ雲行きが怪しくなってきたなと考えていると正面にある放送室までの一本道。

 そこへ続く曲がり角を曲がる影が見えたような気がした。



 誰も動かない校内で俺以外に何かが動いているのは凄く目立つ。



 「おい!」



 俺は急いで影が見えた角へと駆けだす。

 距離は僅かに50メートルといったところか。



 気のせいでなければあれはおそらく人影だった。

 だとすれば自分と同様に放送室へ向かおうと考えた者である可能性がある。



 良かった、これで少しは希望が持てる!



 呼んだのが聞こえなかったのか曲がり角から誰かが引き返してくる気配はない。

 これだと俺がこのまま走って追いついた方が早そうだ。



 逸る気持ちを抑えながら勢いをそのままに思い切り角を曲がる。

 この先には突き当りに放送室があるだけだが……視線の先に広がる光景は俺の想定と大きく異なっていた。



 何故ってその一本道の先にあったのは黒く、昏いちょうど人間くらいの大きさの何かだったから。



 「へ……?」



 思わず呆けた声が出る。



 黒い何かは俺と突き当りにある放送室との丁度中間くらいに在って、もぞもぞと蠢いている。

 虫がやるような不快さを与える蠢きではない。

 ただただ無機質で何処か機械的にも思える不思議な動きだった。



 しかし、俺はその蠢きに激しく膝を震わせた。

 がくがくと揺れる膝の震えがやがて体中を伝い、冷や汗は噴き出し、自ずと激しくなる呼吸。



 俺の怯えは単にそれの動きが奇妙だったからではない。

 それが昏いのが怖かったというわけでもない。



 ただ蠢いているだけの黒い何かはその中に在ってはいけないものを抱いていたのだから。 

 そう。



 「人を……食べてる……?」



 黒い何かは無抵抗な動かない男子生徒一名の体をゆったりとその身で呑み込んでいたのだ。



 「――ひッ!」



 動けなかったのは僅かな間。

 すぐに我を取り戻すと体は自然に黒い何かとは真逆の来た道を向いていた。



 走れ走れ走れ走れ走れ走れ!



 ただその二文字だけが脳を駆け巡る。

 だから俺は言葉通りに来た道を全力で走った。

 男子生徒の黒く侵されていく身体を見てもなお後ろを振り返ることもせずひたすらに走ったのだ。



 * * * * * *



 走って、走って、走って、走って、いつしか自分のクラスとも放送室とも遠く離れた保健室に来ていた。

 ここへ逃げてきたことに特に意味はない。

 あてもなく走っていたらここに辿り着いたというだけの話だ。



 「おええええええ」



 駆けこんだ保健室に備え付けられたトイレで胃の中のものをひとしきり吐いた。

 花恋の手料理を吐いた。

 悠人から奪ったから揚げを吐いた。

 もう帰っては来ない三人の時間を……吐いた。



 体に残っていた二人の残滓が口から零れていく寂しさと黒に呑み込まれていく生徒を見て真っ先に逃亡を選んだ自分の情けなさが自意識を襲う。



 ヒーローに憧れていたのではなかったのか?

 非現実を求めていたのではなかったのか?

 自分が特別だと信じていたのではなかったのか?



 それがこの体たらくだ。

 目先の孤独を前に焦り、明らかに助けなければならない人間も救えず、今では便器に頭を突っ込んでいる。

 あまりに情けない。



 思うにきっと俺は自分自身が特別であるという可能性を捨てきれていなかった。



 口では自分は何でもない人間だとのたまい、過去を黒歴史だと邪険に扱いつつ、それでも何処かでもしかしたらって考えていた。

 何の根拠もないのに哀れにも俺はもう少し自分を出来るやつだと思っていた。



 だがそれが今完全にへし折られた。

 どうしようもないほどの力でぽっきりと折られてしまった。

 諦めることで認めてこなかった自分の弱さがここにきて露呈してしまったのだ。



 「はぁはぁ……仕方ない……突然の出来事だったから……はぁ……それにこんな状況じゃ冷静になんて――うぷっ」



 自分自身のあまりの気持ち悪さに嘔吐が進む。

 気が付けば言い訳をしている自分にも嫌気がさす。

 襲い来る孤独と恐怖に涙が溢れる。

 涙と胃液でぐちょぐちょになっている顔をティッシュで拭う余裕はなかった。



 結局のところ秦瀬陽太はどうしようもないほどに凡人だった。

 ただそれが証明されただけの話だ。



 「くっ……ううっ……うぅ……」



 誰にも届くことのない嗚咽がこの狭い個室では嫌なくらいに響いて、自身の鼓膜を震わせた。


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