第三十五話 永い夜が明けたなら
「大丈夫か、リザ!?」
奴を全力で殴りつけた後、黒手を離れたリザを見て落下地点めがけて走った俺は、難なくこの腕で彼女を抱き留めることが出来た。
重さに負けて落っことしてしまわないか心配だったが大丈夫だったようだ。
腕の中に探していた当人がいるということで取り敢えずは一安心……ともいかない。
一人でこんな規格外な敵を相手にしていたんだ。
怪我をしていてもおかしくない。
彼女が語らずとも辺りの凄惨から戦いの激しさは窺い知れる。
リザがレベルを吸っていたとすれば互いにレベル100以上の文字通りハイレベルな戦いとなったのだ。
何が起きたのか、一部更地になっている所もあった。
その苛烈さをわかっていたつもりだったが、まさかここら一帯を変貌させるほどというのは想像していなかった。
無事であって欲しい……だけど既に手遅れかも……そんな不安の渦中にいた俺は意を決して腕の中の彼女へと視線を落とす。
リザは――。
泣いていた。
まっすぐに、俺だけを見つめて。
他のものなんて目に入らなそうなくらいに見開いて、ただ俺だけを見ていた。
身体もボロボロで泥のついたワンピースも所々破れている。
泣き顔に、思わずスッと血の気が引くのを感じた。
遅すぎたのだろうか。
邪悪なあれに思いもよらぬような辱めを受けたのだろうか。
だとすれば許せるはずがない。
ただでさえ募る奴への恨みが溢れ出そうだ。
が、その前にまずはリザの涙を止めなければ。
でもどうしたら?
泣いているリザに焦って狼狽える俺を見ても、リザは苦痛に表情を歪ませることも喚くこともしない。
ただ静かに涙を流している。
なのによく見れば大きな碧色の瞳にはあんな危険な状況だった後とは思えないほど鮮やかな、希望が宿っているようにすら見えて。
こんな目を俺はアニメや特撮なんかで見たことがあった。
主人公の助けに歓喜する救うべき誰かの目だ。
しかしそれじゃまるで俺が窮地に駆け付けたヒーローみたいじゃないか、と跳ねそうになる心を抑えつける。
そう思われること自体は願ってもないことなんだけど、実際のところはこれからその期待を裏切ってしまうことになるわけなので申し訳ないとしか思えない。
策の一つも携えず気持ち一つで死地に赴いた大バカ者だとわかっても、彼女はそんな目を向けてくれるのだろうか。
「――どうして来てしまったんですか」
不意に弱々しい声がした。
泣き顔と自らの無策っぷりとの板挟みで困ってしまった俺に、リザが声をかけたのだ。
それに答えたい気持ちは山々だが……果たして俺たちに問答している暇があるのだろうか。
目先の黒いあいつは俺に殴られたことによるダメージなど一切感じさせず、それどころか一歩も動じることなく同じ場所で佇んでいる。
その様子だけを見ると攻撃の意思はなく傍観を決め込もうとしているようにも取れるのだが、そんな都合の良い話はないだろう。
さっきまでリザを殺そうとしていたような奴が何のために?
――どう考えても怪しすぎる。
「少し移動しよう」
念のためリザを抱えたまま駆け足で奴からある程度距離を取る。
駆け足とは言ってもリザを抱えている分多少速さは落ちているが、それでも転移前と比べればかなり速い方だ。
雨が降ったわけでもないのにぐっしょりと濡れた土を踏みしめて走った。
辺りに生い茂っていたはずの木々はなぎ倒されているから走り辛い。
奴のことは見えるが少なくとも一瞬で距離を詰められて殺されることはない……そんなやや心許無い距離まで来ると、俺は一つ大きく息を吐いた。
追ってくる様子はないし、その間にも奴は一つもアクションを起こしてこない。
一体何を考えているんだ?
リザを抱えているこの瞬間なんて俺とリザを殺すにはぴったりなはずなのに。
こいつは知能なんて無いように見えてたまに弄ぶような意志みたいなのを感じさせるから更に理解に苦しむ。
「陽太君! 聞いているんですか!?」
「あぁ、悪い」
「悪いと思うなら早く下ろしてください。 その――恥ずかしいです」
「ご、ごめん……」
下ろせと言われたのでリザを腕からゆっくりと下ろしてやる。
言われてみればずっとお姫様抱っこの状態だったわけだし、年頃の少女にはちと照れ臭かったかもしれない。
というかもう大丈夫なのだろうか?
地に足を付けるとすぐにくるりとこちらを向きなおしたリザは頬を赤くして怒ったような顔をする。
「助けてくれたのはなんというか、その……嬉しかった、ですけど。 で、でも怒ってるんですからね、私!」
「お、おう……」
リザの勢いに気圧されそうになる。
奴が見えていないのか、それ以上に質問に答えることの方が彼女にとっては大切なのか。
まだ瞳が潤んだままのリザは真剣な顔で俺に此処へ来てしまったことへの説明を求めてきた。
幸か不幸か倒れた木々の合間から遠くに見える奴はまだ傍観に徹したままだ。
まさか数時間ぶりの再開を前に本当に空気を読んでいるなんてことはあるまい。
だがこのまま手を出さないでいてくれるなら今はこのお姫様の怒りを鎮めることの方が先決な気がする。
彼女を一人で行かせたのも結局は能力的にも精神的にも不甲斐ない俺のせいなのだ。
責任は取らなければならない。
「えーと……どうして来てしまったのか、だったよな……」
俺は奴の方を警戒しつつ頭を悩ませる。
どうしてと言われたって、理屈で考えるのを止めてしまった俺には答えづらいのだ。
さっきも言ったが自分の実力とか最善の答えとか、全部投げうってやりたいことをしてしまっている今の俺は、生憎格好の良い理由なんて持ち合わせていない。
全部が良くなって欲しい。
それだけを考えて此処まで走ったんだから。
そんなわけなので、彼女の尋ねにもでまかせを言うしかないわけで。
「一人より二人のほうがいいかなって」
「そ、そんな理由……!?」
リザはただでさえ大きな瞳を更に大きく開いて驚いていた。
そりゃそうだ。
俺が戦力になるのなら最初からリザは一緒に戦うことを選んでいただろう。
何も考えずに一人で駆け出すほどリザは馬鹿じゃない。
しかし一人より二人という理屈は互いにある程度戦えるだけの力を持っていることが前提だ。
レベルも圧倒的に劣っている上にスキルもまともに使えない俺が来たって足手まといになることは必至。
置いていくに越したことはない。
それにリザは森でこいつを目の当たりにした俺の様子を見ていたはず。
わかりやすく恐れを抱いていた情けない顔を。
今だってこの黒い姿を前に鳥肌が立っているし、冷や汗も止まらない。
あの時は言ってしまえば敵うはずがないと決めてかかっている節があった。
リザにもそんな俺の心境がだだ洩れだったのだと思う。
色々考えたうえで俺に何も言わず出て行ったんだ。
俺が彼女の立場だったのならきっと同じことをしただろう。
だから彼女が俺にこれから何を言うのかもわかる気がした。
「陽太君が来てしまっては意味がないんですっ!」
さっきとは打って変わり悲痛な面持ちの彼女は縋るように俺に訴えかける。
「今の陽太君では……! だけどこのままでは陽太君が間に合わなくなってしまう。 だから――!」
『今の陽太君では勝てない』。
一度はそう言おうとして口を噤んだ彼女につい苦笑した。
リザが考えているのはさっき俺が考えたような理屈と、あとは彼女なりのおせっかいだろう。
さしずめ私が敗れても生きていて欲しいとか、あなたには帰る場所があるとか。
確かにあいつらとリザとでは過ごした年月が違うがそれでも彼女の考えは大体察しが付く。
少なくともそれくらいには俺も彼女を知りたいと思っていたし、知っているつもりだった。
そんな彼女がいなくなった後にまで此処でノコノコ生きている自分を俺は許容できない。
リザと戦って死んだ方がマシだ。
最初から駄目だったんだとあの世で唇を噛み締めて、ようやく諦めがつく。
でもそんなことを考えているなんて言ってもきっと伝わらないから。
何も言っても全部言い訳だから、自分の言葉に正当性を持たせることが出来ないだろう。
だったらやっぱり俺は開き直ってそのまま彼女に伝えることでしか前に進めないと思った。
見たくもない現実から解き放たれた俺はやりたいように、素直な気持ちをぶつけるべきだと思った。
だから、
「もう誰も諦めたくなかったんだ」
込み上げた笑みを隠すことなく吐き出すようにそう言ってみせた。
これだけの理由で命を懸けられる。
何度だって泣いてもいいと思える。
喉が灼けるまで吐きだしたって構わない。
心が擦り切れても膝をつくことはしない。
その過程でどれだけ苦しい思いをするとしても黙って堪えているほうがずっと辛いと気付けたから。
寝っ転がってぼうっと木目をなぞる日々を残酷だと思えたから。
リザを助けるというこの状況もこれから挑むことになる旅路の前哨戦に過ぎないのだ。
だけど俺の気持ちと反対にリザにはまだわだかまりがあるようで、再び溢れだした涙を指先で拭いながら口を開く。
「陽太君の言う『誰も』に私まで含める必要はないんです……」
あまりに卑屈な、自らの価値を見出していない彼女らしい発言だ。
もちろん頷いてなんかやらない。
前から気に食わなかったんだ。
「そんなのリザが決めることじゃない」
断言してやった。
俺の救いたい誰かに例外はないのだ。
「私と過ごした時間よりお友達との時間のほうがもっともっと長かったはずです! だったら私に構わず皆さんと再会することを考えないと!」
「長さなんて関係ないし、みんなに会うためにリザだけ危ない橋を渡らせるわけにはいかないだろ」
「でも窓の外を眺めてたのも、悪夢にうなされているのも、全部お友達のことを想ってじゃないんですか!? それだけ大切なら此処で命を落とすなんてあってはいけません!」
「そうだな。 だから絶対にここで何とかしないと」
「絶対って……! 陽太君は強いです! でもそれは陽太君って言う人格の話で、気持ちが吹っ切れたって、今はまだスキルも使えませんし、レベルだって全然足りてない! はっきり言って……あ、あ、足手まといなんですっ!」
「はは。 ようやく言われちゃったか」
笑ってはみたがリザに足手まといと言われるのは結構来るものがあるな。
かといって譲る気もないが。
「そうです! 足手まといなんです! だから早くおうちに――」
「じゃあ、そうならないようにするさ。 どのみちリザが負けたら俺は勝手に状況が良くなりますようにって願って、あいつの恐怖に怯えながら一人で隠居することになるんだ。 あいつがいなくなるのなんて何年先何十年先の話かもしれないし、あるいはいつか小屋までやって来て俺を殺すかもしれないのに。 だったら今二人で全力を尽くした方が最善じゃないか?」
「それは……」
ようやくリザが悔しそうに口を閉ざす。
そもそもリザだって俺に死んで欲しくない、だけど早く悠人や花恋たちにのもとへ向かわせてあげたいとかいうワガママを押し付けようとしていたんだ。
強引さで俺に敵うと思っているのが間違いだったな。
それに、
「リザだって知ってるだろ? 俺はしぶといんだ。 折れてやることはないね」
不明瞭な俺の持つ何かに彼女が名前を付けてくれたのだ。
だったら俺は幼馴染が見た力と彼女がくれた名前を信じていればいい。
折れずに諦めずに戦って、勝って、森を抜けて。
みんなを見つけたらそれぞれの、これまでの話をする
理想郷は確かにそこに在る。
「ずっと情けなくてごめん。 嘘を吐いていてごめん。 弱いくせにやりたいことを押し付けて――ごめん」
ぷるぷると震える口唇を見るにリザはまだ何か言いたそうだったが、俺の言葉を遮ることはせず潤んだ双眸を揺らしている。
「でも、もう迷わない。 目が覚めたから。 だから今度こそ一緒にこの森を抜け出すって約束しよう。 これからどんな魔物が出てきたって、こいつ以上に怖い奴が出てきたって、一緒なら怖くないと思うんだ」
話しながらリザの方へ一歩二歩と歩みを進める。
そして隣に立ったら、ずっと先に怪しく佇む奴を見据えた。
未だに何かを仕掛ける素振りは見せていない。
でもどうしたって戦闘は避けられないだろう。
諦めたわけではないという予感があった。
「――っ」
リザが息をのんだのが分かる。
俺が隣にいるリザに手を繋ぐみたいに左手を伸ばしたからだろう。
でも伸ばした左手は手を繋ぐためのものじゃない。
小指だけがぴん、と立っていたから。
指切り。
あの時と一緒だった。
俺はリザの方を見ない。
信じているから。
彼女はきっと解けた誓いを結び直してくれると。
目線は真っすぐ、奴だけを捉えている。
奥底の恐怖は確かにある。
でも。
「やっぱりずるいです……陽太君は……! ようやく諦められると思ったのに……。 身を引けると思ったのに……。 これじゃ私の覚悟は……あんまりです……!」
左手の小指が細くて柔らかな何かに触れた。
奴の姿から流れ込む不安が霧散していく。
恐怖をかき消すなんてそれだけで十分だった。
「どうなっても知りませんからね」
「わかってる」
ここで終わらせて、ここから始めるんだ。
重なり合う二人の小指。
朝焼けに星空は淡く滲んでいた。