第二十九話 なおも蝕まれる世界
「は……?」
もしも笑顔のリザの向こうに見える黒い靄のような何かを見たのが初めてだったなら、俺はきっと呆けた顔をして近付いていただろう。
高校での一件を俺が都合よく忘れたままでいたのなら、こんなにも複雑な感情は湧きださなかっただろう。
だけど俺は知っている。
こいつが俺にとってどんな存在で同時にどれだけ未知な存在であるかを、知っている。
だから俺はもう悔やまないために――走れ。
「リザッ!!」
「えっ」
その手を強引に掴むと俺は全力で来た道を引き返す。
これ以上何も奪われないように。
この時の為に俺はあの星夜の約束を破ってまでこの森を出ないと決意したのだから。
「陽太くん一体どうしたんですか!?」
状況を全く理解できないリザは俺に手を引かれながらも説明を求める。
「いいから走れ! 頼むから! 今だけは全力で!」
「――っ。 わかりました!」
こちらの必死さに気圧されたのかリザが従ってくれたのを確認して俺はペースを落とさないように後ろを振り返る。
さっきまで見えた黒い姿が幻であったらいいと願って。
いっそこれでいなくなってくれていたのならどんなにいいことか。
だが案の定奴はこちらの思っているようにはしてくれない。
木々の隙間から見えるあの黒い何かは今も俺たちと着かず離れず一定の距離を保って追って来ていた。
本当はすぐに追いつけるのに様子を見られているような、或いは嘲笑われているのか。
考えたってあれの考えなんてわかるはずがない。
とにかく奴は何故か今このタイミングで森にいて俺たちを追っている。
それだけは確かだった。
深くは考えず再び前を向くと必死に木々の間を縫って小屋の方へと走る。
するとリザは俺が振り向いたのを見てようやく背後の敵に気付いたようで、
「あれは……?」
見えたそれとこの状況とを鑑みて聡い彼女は薄々理解しただろう。
俺たちは今あれから逃げているのだと。
彼女があれのことを知っているのかはわからないが今の呟きから察するにおそらくは知らない。
その説明は後でも出来ることだ。
しかしリザは一変俺と同じ感情――恐れを抱いたような声で言う。
「そんな、ありえない……! なぜ急にこんな!? レベル210なんて!」
突然慌て始めたリザの手に汗が滲むのがわかる。
それだけふざけたレベルの敵が現れたのなら当然だ。
レベルに関してはそれほど驚かなかった俺だが初見の時は吐くほど怯えた。
彼女の恐れは仕方のないものだった。
それにしてもリザの呟き通りなら210レベルという桁外れの力を持っているにもかかわらず未だ縮まることのない奴との距離。
弄ばれていることを半ば確信しつつも荒い息をあげて小屋まで走る。
全力で走っているだけあってあと僅かのところまで来ることができた。
後ろで走るリザの体力ももう限界を迎えそうだがこの分だと何とかなりそうだ。
思わずリザの手を取る手に力が入る。
あとは祈るだけ。
他のモンスターと同様に奴が小屋までは追って来れないことを。
根拠のない祈りをただ信じる。
最初から正攻法なんてないんだからこれに賭けるしかなかった。
振り返るとやはりまだ奴はいる。
すぐに向き直り意味がないと知りながら撹乱しようと時折木を避けてジグザグと走った。
振り返る、走る、振り返る、走る、振り返る、走る。
繰り返して少し。
ようやく森の出口を前にして泉の輪郭を目で捉える。
俺もリザも体力は限界。
早く……早くあそこへ……あの小屋へ……!
そして――。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
「つ、疲れました……」
「あいつは……!?」
「追って来てないみたいです! 泉まで来れずに引き返したのかと」
「いや、まだ油断はできない。 あいつならいつ現れてもおかしくないからな」
リザを信じていないわけではないがあれを前に警戒を解くのはまだ早い。
俺は森には入らぬよう泉の傍から来た道に目を凝らす。
最悪の場合は土地の開けた花畑の方に逃げることも考えてあるし、まだ追われていたのだとしてもさほど驚きはない。
いつも通り理不尽に憤るだけだ。
だが幸いあの化け物は本当に姿をくらましたようだ。
正直上手く撒けたとは思えない。
まだそばにいる可能性も十分にある。
次に森へ出てくるのを近くで待っているかもしれない。
そうなるともう森へ出るということは考えられなかった。
「一体あれは何なのですか? 私の目で見てもぼやけて種族が分かりませんでしたし……そもそもあれは生物なのでしょうか? 陽太君は何か知っている様子でしたけど……?」
危機を脱したと思っているリザに問われる。
あれは一体何なのかという問い。
これから行われるのはわかっていたはずの問答だ。
「俺は……俺はあいつを――」
もちろん元いた世界で追い回された俺は奴のことを知っている。
しかしその説明をするのなら必然的に元いた世界のことをリザに話さなければならない。
異世界から来たなんて与太話を誰も救えない逃げてばかりの臆病な男の話を添えてだ。
ただでさえスキルもろくに使えない俺の何もできなかった話を彼女に聞かせられるだろうか。
俺を信頼してくれる彼女を落胆させるだけではないか。
とてもじゃないがただでさえ仮病まで使って森を出まいと目論む俺にこれ以上自分を貶めることは出来なかった。
失望されるのは嘘を吐くよりも辛いことに思えたから。
「――知らない」
「――そうですか」
僅かに目を合わせあった静寂を経てリザは観念したようにその目を伏せた。
明らかに知っている素振りだった俺にそれ以上の追及をしなかった。
これでいい。
これでいいんだ。
どれだけ苦しくても俺は彼女を騙してこの場所で生きていかなければならない。
でないと殺されてしまう。
また現れたあいつにリザまでもを奪われてしまう。
あの終わりみたいな日のように悪戯に掠め取られてしまう。
だとしたらせめて学校のみんなを、家族を、悠人を、花恋を救えなかった分せめて彼女だけは救いたい。
みんなを救う勇者になれなかった俺の……凡人だと分からされた俺にも出来ること。
そう自分を奮い立たせてこれまで過ごしてきたんだ。
こんなことがあってははもう森に入れない。
でもむしろ丁度いいじゃないか。
奴を理由にすればもう脱出に向けた探索に行かなくて済むし二人でのんびりと生きていける。
嘘だって吐かなくて済む。
リザの性格からして今後はもう俺に何も聞かないしこのまま指示に従ってくれるはず。
だからきっと全部上手くいく。
だけどなんでだろう。
なんで、なんで俺はこんなに……。
「陽太くん」
「なんだよ」
「何かあったんですよね?」
「だから何も――!」
「だったら……なぜ泣いているんですか?」
「――ッ!」
こんなに悲しくて悔しいんだろう。
「そんな顔をする陽太君をそのままになんて出来ません。 あのへんてこな何かを本当は知っているんですよね?」
「俺は……俺は……」
「それのせいで陽太君はそんなに苦しそうにしているんですよね?」
リザは宥めるような口調で話す。
自分でもわからない。
どうして涙が流れるのか。
記憶が戻ってから何度も考えて出した答えなのにどうして心から納得できないのか。
いくら正しいと思う道を選んでもずっと後悔を繰り返している気がしてならないのは一体どうしてなのか。
リザに話したからってきっと楽になるわけではない。
それはわかっている。
でも俺の話を聞けば追い詰められた現状に気が付いてくれるのではないか。
どんなに前向きなリザでもどうにもならない現実を知って二人揃って此処で暮らすことを選べるんじゃないか。
そんな望まれた可能性に賭けて俺は。
彼女を諦めさせるための事実を語り始めた。