第十九話 白昼夢
立っていたのは教室の前。
締め切られた窓からは悠人と花恋、そして本来そこにいないはずの父さんと母さんの姿もあるが逆に他のクラスメイトの姿はなかった。
どうして二人が学校にいるんだ?
そう聞きたくて教室の扉に手をかけるのだが、どう力を入れても扉はびくともしない。
まるで内側から鍵がかかっているみたいに。
「放課後ならまだしも何でこんな真昼間から鍵なんてかけてるんだよ」
口にしたって中の連中には聞こえるはずもないのにそう呟いてまたドアに取り付けられた窓越しに教室を見る。
やはり中にいるのは変わらず俺と関わりの深い面々で、そしてその誰もが感情の感じられない無機質な表情で俯いていた。
――いや、よく見ると一人知らない顔がある。
明らかに俺と関わりのない男子生徒だ。
ただ何処かで見たような気はする。
その組み合わせも含めてあまりに不気味過ぎる、と。
そう感じてすぐのことだった。
「ごぽっ」と嫌な音がして教室の中央から堰を切ったみたいにどす黒い液体が溢れ出したのだ。
「おいおいなんだよ……!」
そんな状況でも顔色一つ変えないみんなは尚も俯いたままで抵抗する様子がない。
こういう時真っ先に悲鳴を上げそうな花恋でさえ反応を示すことはなく、ただ溢れ出る真っ黒な液体が白い上履きを染めていくのを呆然と見ている。
どう考えたって不可解な現状に俺はドアを叩いて中のみんなに訴えかける。
「おい! 何やってんだよ! 早く教室から出ないと!」
それでも中のみんなはこちらを向くことはなく変わらず教室の中で立ち竦んでいた。
これから自分たちがどうなるかわかりきっているみたいに。
「開けろよ! おい! 開けろって!」
何度も強くドアを叩こうと、思い切りタックルをしてみても、扉はびくともしない。
扉一枚隔てられているだけの俺たちの距離はこの扉の所為で酷く離れているようにさえ感じた。
こうしている間にも黒い水は教室の中でどんどん水位を増していく。
窓から見える限り既に腰辺りにまで上昇した水位から最悪の未来を突きつけられた。
このままではみんながこの水に沈んでしまう。
そう考えたところで俺はハッとなる。
思い出したのだ。
見覚えがないと思っていたもう一人の男子生徒について。
不意に、俯いていたはずの男子生徒の顔がぐるりとこちらを向いた。
怨嗟に満ちる血走った両目。
これまで受けたことがないほどの激しい怒りに当てられて思わず足が竦む。
だが彼の怒りは正当なものだ。
とばっちりなんかではない。
どうしようもないほどに俺が悪いのだから。
だって彼は……。
黒く染まっていく教室の中で名前も知らない男子生徒の口元が動く。
聞こえないはずのその声は直接頭に捻じ込むようにして言葉以上に澄んだ怒りを俺に伝える。
『お前が見捨てたんだ』
たったこれだけの言葉で胸が締め付けられたような感覚に陥る。
あの日の俺の最低な記憶が俺自身を苛む。
それでもきっとみんなは俺を許さない。
何もできなかった彼らを何でもできたはずの俺が救えなかったことは紛れもない事実なのだから。
黒い水は身長の一番低い花恋の顎のあたりまで急速に水位を上げている。
彼女が俺の前からいなくなるまでにそう時間はかからないだろう。
それなのにまだ彼女はこちらを見ることもしない。
何度ドアを叩こうと何度名を呼ぼうと顔を上げることはない。
「花恋! こっちに……! 頼むからこっちに来てくれよ!」
まだ好きって伝えられてないんだ。
卒業式の日に告白を諦めてしまってからずっと内に秘めてきたんだ。
このまま何も伝えられずに全部終わってしまうなんてあんまりじゃないか。
幾ら焦ったって待ってはくれない現実に苛立ち、両手の平で窓を叩く。
どうにもならないのかとただ教室の中を睨みつける。
何でこうなった?
なぜ俺ばかりが抱え込まなきゃいけない?
どうしてヒーローみたいに全部を助けられない?
誰に聞いたって答えて貰えることのないだろう問いに教室の誰かがピクリと動いたのが見えた。
花恋だ。
今の俺には神様の言葉や賢人の知恵なんかよりもずっと彼女の言葉の方が欲しかった。
だから花恋と目線が合うのを確認して一筋の希望を掴んだ気がする。
彼女ならきっとわかってくれるに違いない。
あの日頑張った俺を笑って労ってくれるはず。
そう信じて疑わなかかったから。
先程の男子生徒同様、花恋の薄紅色の唇が動く。
見慣れたいつも通りのリズムで言葉を紡いでいく。
だが花恋が俺に伝えてくれた言葉は決していつも通りの優しい助言でも励ましの言葉でもなくて、
『陽太が弱いから』
俺自身何度もぶち当たった、それでも理解したくなかった、俺がみんなを救えない唯一にして最大の理由だった。
「あ……あぁ……」
遂に足に力が入らなくなって膝から固い廊下に落ちる。
夢だと分かっていてもこの光景はあの日を俺に忘れさせずに離さない。
どうやったって直に教室は地の底のような黒に満ちる。
それがわかっているからずっと地べたを見て過ごした。
この夢が終わるまで、ずっと木目の線を目でなぞっていようと思った。
あの夢が終わるまで、味気ない小屋の木目の線をなぞっていようと思った。
* * * * * *
「はぁ……はぁ……」
目が覚めたそばから呼吸が荒かった。
理由はすぐにわかる。
嫌な夢を見たからだ。
頭を抱えて呼吸を整えていると窓の外で鳴く小鳥の声が耳に届く。
人の気も知らず呑気に鳴かないでくれよ。
この世界にやって来て三か月が経つ今では小鳥のさえずりにさえ僅かな苛立ちを覚えてしまう自分に気付く余裕はなかった。
ある程度落ち着きを取り戻したところで汗でぐっしょりと濡れた布団と服を洗濯するべく起き上がる。
最近は何度も似たような夢を見るからこの作業にも慣れたものだ。
おそらく今は昼間なのでもうリザは起きている頃だろう。
今日はなんて説明しようか。
毎度こうして布団を干しているせいで最近はリザが心配するようになってしまったのだ。
リザの質問攻めを覚悟した俺は今日も布団を手にふらふらと部屋を後にする。
たった一つ、記憶が戻った日からずっと決めていたことを確認して。
「あ、陽太くん……。 もしかして今日も?」
「あぁ、そうなんだ。 体調が優れなくて。 だから今日も探索は……」
「はい、わかりました。 じっくり休んで元気になって、また頑張れば大丈夫です」
「――悪い」
「こればっかりは仕方がありませんから」
リザは俺を急かさないよう笑ってそう言ってくれるが内心探索を休むことを良くは思っていないだろう。
そのうちあの夜の誓いは何だったんだと咎められても仕方がないようにも思う。
だけどこれは譲れない。
彼女がどれだけ外の世界を望もうと俺は彼女を外には連れ出さない。
誓いを穢してしまっても俺が嫌われることになってもそれは変わらない。
俺は急に記憶が戻ったあの日から、この森を出ることを完全に放棄したのだから。