第七話 忘れていた、ここはギャルゲの世界ってこと。
波乱のスニェクレースも終わり、学院での大きなイベントはなく日々は慌ただしく過ぎる。もう長期休暇は間近だった。
一学期最後のホームルームの時間、プリントの束を抱えた担任の先生がやってくる。教室の中央で集まって騒いでいた生徒はそれぞれの座席に戻っていく。歴史ある学院だからだろうか、俺の持っていた男子校のイメージとは異なり、ここの生徒は聞き分けがいいというか落ち着いている。
「もうすぐ休暇に入りますが、その前に大事なお知らせがありまぁす」
先生はプリントを席の前方から配っていく。大事なお知らせって何かな、と考えていたら
「ぐおおおおおおおおっ!」
最前列でプリントを受け取った生徒が突然雄叫びをあげた。奇声は後ろの方へと伝播していく。
「いやほおおおう!」
「よっしゃああああああ!」
「ホアアアアアア!」
前言撤回。うちの生徒は落ち着いてなどいません。動物園です。
「なになに、何のお知らせ?」
さすがに気になって、一つ前の席のニカのプリントをのぞき込むようにして一緒に見る。
「ラスタチカ学院、共学化のお知らせだってさ」
「へえ~」
確かに驚いたけど、それで野生に帰るほどではない。それはニカも同じようだった。びっくりー、なんて言いながら顔を見交わして笑っていた。――ニカが次の文を読むまでは。
「『ラスタチカ学院は本年度二学期よりウートレニア学院と統合し、共学化いたします。』だってさ」
「な、ななな、今なんと!?」
「二学期から」
「その次!」
「ウートレニア学院と統合するってさ」
「ああああああああああああ!! あああああああああああ!!!」
俺は一瞬にして言語を失った。『根雪のあした』の舞台、ウートレニア学院。忘れていた、ここはギャルゲの世界ってこと。唐突すぎるお知らせが俺にその事実を思い出させた。
ニカが以前言っていた、「二か月もしたら寒さなんかぶっ飛ぶ」という発言はまさにその通りで、この世界において寒い季節は本当にぶっ飛ぶ。ほぼ半年に渡る長い冬が終わると、間期と呼ばれる短い嵐の季節がやってくる。春の訪れまでに気温は急上昇してゆくのだが、その間に暴風や豪雨を伴う。文字通り嵐が寒さをぶっ飛ばすというわけだ。そして温暖な春が終わると間期には急激に温度が下がり暴風雨に襲われ、また冬がやってくる。その繰り返しだ。だから長期休暇と言えど外で遊べる日はほとんどない。俺は友達の部屋を訪れて遊ぶのが日課になっていた。セリョージャからは男の部屋に行ってはならないと釘を刺されていたが、友達と遊んだらだめなんて小学生の親より厳しい。俺は廊下にセリョージャがいないことを確認し、今日遊ぶ約束をしているニカの部屋を訪問した。
「来たぜー!」
どんどんとドアを叩くと、中からうめき声が聞こえてくる。
「さっさと開けろー、開けるぜー!」
早く入らないと兄に見つかってしまいそうで怖い。
「うるせえ〜! 開けるから待て!」
急かされて出てきたニカは、まるでベッドからそのまま飛び起きたみたいな有様だった。
「あはははは、ひでー寝癖」
ニカはむすっとして乱暴に髪を手ぐしで梳かす。部屋に入ると、やはり布団がベッドの端にぐしゃっと寄せられていた。ついでに床も見事な散らかりようで、教科書や本が床に積み上げられている。
「悪りぃ、今起きたばっかなんだ。支度するからその辺の本でも読んで待っててくれ」
そう言いながらニカが寝間着を脱ぎ始めたので、慌てて目を逸らして本を読むふりをする。いや、俺って半分は男のはずだから着替えを見て照れる必要ないんだけど。
「別に無理して本読むフリしなくていいんだぜ」
俺の行動なんてお見通しだと言わんばかりにニカは笑った。
「ちゃんと読んでるー!」
「はいはい」
少しニカの声が遠ざかったかと思えば、また戻ってくる。はっと顔をあげると、ニカは俺の後ろに腰を下ろし、目の前に鏡を置いた。
「何してるの?」
「へへへ、まあ見てなって」
ニカはそっと俺の髪に触れ、櫛で梳かしていく。
「カーチャの髪、サラサラでいいなあ」
「そうかなあ」
ニカはいくつか毛束をとり、器用に編んでいく。俺はされるがままになっていた。気がつくと、俺もニカとお揃いの編み込みをサイドにしていた。
「すごい! 人の髪でも出来るんだ。ニカって髪いじるのは得意なんだな」
鏡に映る自分の姿を確かめ、素直に思ったままの感想を口に出す。だがニカは何も言わずぼーっとしていたかと思うと、急に俺の体をくるりと後ろに向かせた。
「わっ! 何すんだよ」
ニカの顔が真正面に、それも近くに迫ってどきりとする。
「カーチャ、やばいじゃん。可愛すぎるよ」
両肩を掴まれ、ニカの熱い眼差しから逃げられない。
「そんなに可愛い?」
ちょっと声が上擦ってしまう。ニカは勢いよく頷く。
「マジで可愛い。ウートレニアのどんな女の子よりも可愛いね、絶対」
断言してしまった。でも、褒められて悪い気は全くしない。俺はゆっくりと後ろを向いてもう一度自分の姿を鏡で眺める。
「そんな、可愛いかな……」
ギャルゲヒロインなんだから可愛いのも当然か。でも、一番やばいのは……この胸の高鳴りだ。前世の意識が醒めてから初めてカーチャの全身を眺めた時、確かに可愛くてテンションも上がったけれど、それはどこか他人を見ている気分だった。でも今は違う。自分がこんなにも可愛く変身して浮かれてる。もっと可愛くなってみたいって気持ちすらある。どうしよう。未知の扉を開けてしまったかも。
ニカと俺はすっかりはしゃいでしまって、いろんなヘアアレンジをしてみた。前世の俺だったら考えられない遊びだけれど、カーチャの体だと自分を飾るのが楽しい。ニカも男の自分では普段しないような大胆な髪型をカーチャで試せて満足げだった。
「ニカの部屋まで来てこんな遊びするなんて思わなかった」
「オレも。思いつきで編み込みしたら、カーチャ本当に似合うからさー」
顔を見合わせ、笑う。ニカが大きく口を開けて笑うのを見ると、これがおかしなことだって後ろめたく思わないで済んだ。
日はすっかり沈み、ニカの部屋を後にする。廊下には食欲をそそる匂いが漂っていた。誰かが夕ご飯でも作っているのだろうか。魚や香草を使った料理だと思うけれど。足がふらふらと匂いのする方へ向かっていた。
匂いを追うと、一階の共用キッチンに辿り着く。鍋の前には、エプロンを着た男性の後ろ姿。艶のあるダークブラウンのくせ毛で気づく。セリョージャだ。後ろから音を立てないよう歩み寄り、ガバッと抱きついた。
「わあっ!」
セリョージャは体を縮めて悲鳴を上げる。ケラケラ笑っている犯人が俺だと分かると、セリョージャは呆れたようにため息をついた。
「あのね、料理してる時は危ないから驚かしたらダメだよ」
「あ……ごめんなさい」
叱られてしょんぼりする。すると、頬をセリョージャの両手が包んだ。彼はいつもの優しい表情に戻っていた。
「それよりも、どうしてここに来たの? お腹が空いたのかな?」
「廊下を歩いてたらいい匂いがして、つい」
照れ笑いして答えると、セリョージャは懐かしげに目を細めた。
「カーチャは昔から鼻がよかったよね。というか、匂いにつられて動く子だった」
「そうだっけ?」
「うん。いつもご飯が出来上がる前に匂いを嗅ぎつけてリビングに下りて来たよ。カーチャが風邪を引いてお父さんたちが香玉を作っている時もフラフラ寄ってきたからね」
「覚えてないよ」
「すごく小さな頃の話だからね」
なぜか、セリョージャが泣きそうな顔をしているように見えた。だが兄はくるりと背を向けて鍋を覗き込んだ。
「うん、そろそろ完成だな。カーチャも一緒に食べる?」
「食べる食べる!」
久しぶりに兄の手料理が食べられるのが嬉しくて、俺はセリョージャの手伝いをし、くるくると働いた。共用キッチンの横に食事スペースもある。この寮に自炊する人はめったにいないので今は誰も使っていない。テーブルのひとつに食器を運んだ。
ハーブとスパイスで味付けされた魚のスープは臭みがなく、出汁がきいている。サラダはジャガイモが中心だけど、前世で食べていた甘いポテトサラダよりも酸味が強い。たぶんマヨネーズと、このシャキシャキしてる野菜の味。よくハンバーガーに挟まれていた――ピクルスって言うんだっけ。
「カーチャ、二学期からウートレニアと統合するって話聞いた?」
「え、あ、うん」
ご飯を食べるのに集中していたから、返事がつっかえる。
「随分前から共学化するんじゃないかって噂はあったんだけど、さすがに驚いたよ」
「あったんだ、そんな噂」
セリョージャは頷く。
「でもこんな中途半端な時期に、しかもウートレニアと統合する形でなんて」
「私もびっくりした」
「カーチャは……女の子に戻らなくていいの?」
「えっ?」
「僕はカーチャがこの学院を選んだことに後悔してるんじゃないかって心配なんだ。だって、竃病にかかる前はウートレニア学院に絶対入りたいって意気込んでて、合格した時もとても喜んでいたでしょ?」
「うん、でも入学手続きも取りやめて入れなくなったから、どうせならお兄ちゃんと一緒がいいって」
セリョージャは物憂げに睫毛を伏せた。
「だから……急にカーチャが心変わりしたのが気になるんだ。男装してまでラスタチカ学院に入るなんて言い出したのは、お父さんとお母さんが亡くなって、一人で学院に通うのが心細かったからじゃないかな?」
なるほど。セリョージャの目線で考えればそうなる。両親が亡くなったショックで急に心変わりしてしまったように見えたんだ。
「ちょっと衝動的に選んだところもあるけど、後悔はしてないよ。ウートレニアと統合しても、女の子に戻るつもりはないもん。今まで作った男友達もいるから」
そう答えても、セリョージャの顔は晴れなかった。
「その友達のことなんだけどね、ニカにはあまり近づきすぎないほうがいい」
「えっ」
カタン、とスプーンが手から落ちる。
「いや、教室でクラスメイトとして接する分には構わない。でも、二人きりになるのは避けるんだ」
「どうしてそんなこと言うの? ニカは友達なのに」
問い詰めると、セリョージャは言葉を濁した。
「それは、その……カーチャはまだ分からないかもしれないけど、男は危険だ。怖い思いをしてからじゃ遅い」
「ニカは悪いやつじゃないもん!」
拳で机を叩くと、セリョージャの肩がびくりと震える。
「でも、ニカは……」
何か言いたそうにして、でも言葉を続けなかった。もしかして、今日ニカの部屋に遊びに行ったことを知っているのだろうか。お兄ちゃんの言いつけを破ったのと、ヘアアレンジして遊んだことが後ろめたくて、胸がどきどきする。
結局、気まずい雰囲気のまま別れてしまった。セリョージャはニカについて何を知っているんだろう。今までは単に男の部屋に入ったらダメ、としか言わなかったのに。
洗面台の鏡に映る自分を見つめ、そっと髪の毛に触れてみる。女の子にしか見えなくても、ニカは友達として接してくれている。何も恐れることなんてない。そう自分に言い聞かせた。