第六話 ごめんなさい
「いけない!」
そう叫んだ時にはもう間に合わなかった。カーチャの乗るスニェクは二年生のものと衝突した。よほど息の合う騎手とスニェクでない限り、カーブ前ではスピードを落とす。スニェクは細やかな動きがそれほど得意ではないからだ。だが他の騎手が速度を落としたのを未熟なカーチャは好機と勘違いしてしまったらしい。カーブの手前で加速したのだ。一つ外側の騎手が内側へと曲がってくるとき、カーチャはまっすぐ走り過ぎていた。ぶつかるのは当然だった。転落せず踏ん張ったことに胸をなでおろしたが、すぐに脳が再度警鐘を鳴らす。スニェクは完全に暴走していた。カーチャには手に負えず、止まることはない。そのまま校外の雪原へと駆け出してしまった。このままコースを走り続けるなんて選択肢は、僕にはない。
「カーチャ、今行くから!」
ゴールは目前まで迫っていたが即座にスニェクを方向転換させ、カーチャの姿を追った。
「おいおい……どうするんだよ」
観客席から顔は見えなくても、カーチャが動揺していることは想像に難くない。あいつの気持ちを想像すると胸が締め付けられた。レースが始まる前、クラスメイトの期待がプレッシャーになっていたみたいだった。あの時は緊張をほぐしてやれたが、今はそれがぶり返していてもおかしくない。恐怖の中で冷静さを失っているのは明らかだった。カーチャはスニェクを落ち着かせるための行動を何一つとっていなかった。オレも推薦した手前、責任を感じている。だからスニェクが場外へ姿を消した時には、勝手に体が動いていた。
「ニカ、どこ行くんだよ!」
隣に座っていたクラスメイトが叫ぶ。
「ダチをほっとけるかよ!!」
ほとんど怒鳴るように返事し、観客席の後方――高い場所へと上る。高みから見下ろしてスニェクの行った方向を確認し、校外へ急ぐ。
「くそ、カーチャのやつ!」
色々と危なっかしいやつだとは思っていたが、まさかあんな派手な騒ぎを起こすとは。しかも学年代表のセリョージャまで勝負を放棄して弟を追いかけだした。俺は戦闘コースだが格闘技が専門で、スニェクに長けているわけではないし詳しくもない。だからスニェクレースに出ると聞いたとき、特に根拠もなくあいつなら出来るんじゃないかと期待していた。いや、根拠が全くないわけではなかった。根性と勇気は人一倍あり、セリョージャの指導を受ければレースまでには上達すると思ったのだ。実際、レース序盤はかなりの加速を見せたし、上位を狙える可能性も十分あった。しかしカーブに差し掛かったところで経験の差は如実に現れた。それはさすがに素人の自分でも分かった。カーチャの身は無事だろうか。肝は据わっているが体は細っこいし頑丈じゃない。トレーニングに付き合っていると本当に女みたいに思えてくる。たとえ転落は免れても、この寒さでは早く見つけてやらないと凍えてしまう。
「仕方ないな」
セリョージャがいないレースなど見る価値はないだろう。俺はカーチャを助けに行くことにした。
暴れるスニェクは何もいうことを聞いてくれなかった。雪原を駆け、人気のない通りを抜け、林へ入る。その頃にはさすがにスニェクの方がスタミナ切れし、ついに足を止めた。恐怖のピークは過ぎたが、しかし自分は今見知らぬ林の中にいる。指先と手足が震えるのは、寒さのせいだけではなかった。お疲れ気味のスニェクを休ませ、自分もその暖かな体毛に埋もれて座る。この林はほとんど日が当たらない上に地面が凍っていて、こうしていないと寒さに耐えられそうになかった。
「ごめんな。できないなら乗らなきゃ良かったんだ。なんでもやってみるのが良いことだって思ってたけど、俺のせいでお前は痛い思いしたんだよな」
柔らかな背中を撫でる。ごめんな、ごめんな、と謝るうちにまた涙が頬を伝っていった。異世界に転生して、香癒術とかスニェクレースとか、目新しいものは何でも挑戦してみたかった。だけど、周りから少し認められて調子に乗ったのが良くなかった。やれば出来ると自分を過信したのも、反対されるのを恐れてセリョージャの力を借りなかったのも、全部バカだった。ぶつかった相手にも、期待してくれていたクラスメイトやアントンにも申し訳ない。お兄ちゃんも心配かけてごめんなさい。情けなくて自分を殴ってやりたくなった。
ゆさゆさ、と肩を揺さぶられて目を覚ます。獣かと身構えたけれど、それは人の影だった。辺りは暗くなっていて、それが誰かまでは判別できない。
「だれ……?」
「お兄ちゃんだよ、カーチャ」
「よかった……」
安堵でまたも泣き出しそうになるのを慌てて堪える。目の前の人物に体に掴まって立つと、確かに懐かしい匂いがする。間違いなくセリョージャだった。
「もう大丈夫だからね、一緒に帰ろう」
「うん、ごめんなさい。もうこんな危ないことしないから」
大きな手が、髪を撫でるのがわかる。
「カーチャ、僕は君が無事でいてくれたらいいんだ。謝ることなんて何もないんだよ」
「ううん、謝らなきゃ。私――」
静かに唇を指で塞がれる。
「え?」
「男のフリして。今、僕らの他にも人がいるから」
耳元でセリョージャが囁く。目を凝らせば、確かに周囲にはもう二つの影があった。
「そこ、いるの?」
呼びかけると、二つの人影はこちらへ歩み寄る。
「ニカだ。アントンも来てるぜ」
「怪我はないか、カーチャ」
気恥ずかしくて、セリョージャの胸から離れる。
「大丈夫。心配させてごめん」
「気にすんなよ、事故だし仕方ねえって」
静かな林の中で、ニカの底抜けに明るい声がよく通る。その声を聞いてちょっぴり元気が出た。一方、アントンの声は少し怒っているように聞こえる。
「これに懲りたら無鉄砲なのも大概にするんだな。自分の器量を弁えろ」
罪悪感で押しつぶされそうな今、自分を責めてくれる人がいるのはかえって心が落ち着く。
「ほらほら、怒るのは後でも出来るって。もう暗いし早く帰ろうぜ」
ニカがアントンをたしなめ、俺たち四人は帰路についた。
学院へ戻ると、まず保健室へ連れていかれた。先生に体調を尋ねられ、なるべく正確に話す。
「顔色も悪くないし、大丈夫そうだね。擦り傷だけ消毒して、あとは大事を取ってしばらくここで休んでいきなさい」
擦り傷も大したことはない。スニェクが暴れまわった際、手袋と服の裾の隙間の肌が少し手綱で擦れたくらいだ。先生は温かいお茶を淹れ、ベッド横のテーブルに置いていってくれた。診察が終わって部屋の外で待っていた三人が入ってくる。アントンは俺の無事を聞くとさっさと帰って行ったが、ニカは先生にしばらく保健室にいたいと頼んだ。
「カーチャさんはニカさんがいても平気?」
「あ、俺は平気です」
「なら、今は他の生徒もいないし構わないよ。ただしカーチャさんに無理させちゃダメだからね」
先生に念を押され、ニカは「はーい」と元気に返事した。
「あの、僕もいていいですか。カーチャの兄なので」
「いいでしょう」
先生もセリョージャの優等生っぷりを知っているのか、快く承諾した。ニカは少しつまらなさそうな表情をしていたが。
林の中でしばらく眠っていたせいか、ベッドに寝転がっていても全然眠気がしなかったので二人がしゃべり相手になってくれて有難かった。
「三人一緒に俺を探しに来てくれたの?」
「ううん、僕はスニェクに乗ったまま追いかけたから」
「オレは林に一直線に行ったんだけど、そしたらセリョージャと会ってさ」
「僕はスニェクの足跡を追いかけて随分遠回りしてしまったみたいでね」
俺の居場所をつきとめたニカの勘はすごいと感心する。
「アントンはどうだったの?」
「ああ、林の中を探索しているときに合流したよ」
「アントンの野郎、素直じゃないんだぜ」
ニカはにやにやして耳打ちしてくる。
「あいつ、毛布とか水筒とか準備して、スニェクに乗って来たんだ。クールぶってるけど、めちゃくちゃ心配してたんだろうよ」
「へえ!」
レースに出ていた誰かから借りたんだろうか。得意じゃないって言ってたけど、一応乗れるんだな。
部屋の外から「失礼します」という声。来客があったらしく、先生が応対する。誰だろう、と耳を澄ませる。
「二年のエドアルトです。カーチャ君のお見舞いに来ました」
聞いたことのない名前だ。
「誰だろう?」
小声で二人に問うと、セリョージャはすぐにピンときたみたいだった。
「ああ、スニェクレースに出た二年生だよ」
「もしかして、俺とぶつかった人?」
恐々と尋ねると、セリョージャは頷く。ニカの顔はひきつった。
「カーチャ、無理して会わなくてもいいと思うぜ」
「ううん、話さなきゃ」
俺はエドアルトを招き入れた。
エドアルトは仕切りのカーテンからひょこっと頭を出す。金色の巻き毛がふわふわと揺れた。俺と目が合うと、小さく頭を下げた。水晶のように薄い青色の瞳をきょろきょろさせて、落ち着かない様子だ。
「あの、入ってきていいですよ」
そう促すと、遠慮がちに入ってきた。
「失礼します」
エドアルトはこの学院の標準からすると小柄なほうで、おどおどとした態度も相まって先輩としての風格はない。小さな目と柔らかそうな眉が優しげな人だった。
「カーチャ君、レースではぶつかってすみませんでした。怪我はなかったですか?」
後輩にこんな恭しく謝ってくるとは思っていなかったので、俺は言葉も出せずにただ首を横に振った。
「そうですか、それを聞いてホッとしました」
優しすぎて、ひどく申し訳ない気持ちになった。
「あの、俺のほうこそごめんなさい。たぶん、俺がコースをはみ出たからぶつかったと思うんです」
「そんなことないですよ! 自分が焦って内側に行き過ぎたのが悪いんです」
俺が、いや自分が、いやいや俺が、と堂々巡りしているのを見かね、セリョージャが口を挟んだ。
「コースを外れたのはカーチャだよ。エドアルトはルールに反していない」
「あ、セリョージャさんもお見舞いに」
「僕の弟が迷惑をかけたね。下手すれば君の身にも危険が及んだ。すまない」
セリョージャが真剣な顔で謝る。俺も慌てて一緒に謝った。
「そんな、セリョージャさんまで」
エドアルトはぱたぱたと手を振り、固まった。
「お二人はご兄弟なんですね! 知りませんでした」
エドアルトと打ち解け、少しだけ話をして行った。レースは当然ながら中止となり、先生たちも混乱していたとエドアルトは教えてくれた。なんでも、俺の乗っていたスニェクはトレーニングを受けていたものの実際のレースに出るのは初めてだったらしい。頭突きを食らってあれほど動転したのも経験不足だったからだろうと彼は推測していた。
「カーチャ君もスニェクも不慣れだったんですね。今後もスニェクレースがあれば、ぜひ成長した君と勝負させてください」
去り際にエドアルトはそう言った。彼の言葉で、ようやく胸のつっかえがとれた気がした。もし次があるのなら、次こそは準備をして臨むんだ。無謀な挑戦じゃなくて、きちんとステップを踏んで。
第1話の挿絵を更新しました。
そろそろ他のギャルゲーヒロイン達も登場する予定なので楽しみにしていてください!