第五話 スニェクレース出ることになったんだけど、どうしよ
吐く息は白く、冷たい空気の中に溶けていく。厚い毛皮のジャケットすら貫く寒さに身を縮め、スニェクの背にしがみついていた。いつ来るか分からないスタートの合図。不安と期待で胸がドキドキする。極寒のグラウンドの上、俺は人生初のスニェクレースに挑んでいた。
入学式から早三ヶ月。相変わらず忘れ物やうっかりミスの多いニカのフォローをよくしているせいか、クラスではしっかり者と認識されたらしい。今ではたくさんの人から声をかけてもらえるようになり、随分と友達は増えた。だけど気温は下がる一方で、寒さのあまり外で遊ぶことは滅多にない。それだけが悩みの種だった。
「あと二ヶ月もしたら寒さなんてぶっ飛ぶぜ、それまでの我慢だって」
ニカはお気楽に笑っていたが、俺は遊びたくてうずうずしていた。体育館で遊ぶ手もあるが、だいたい別のクラスが先に使っていたりして、なかなか遊べない。そこで、ひ弱なカーチャの体を鍛える意味でもトレーニングルームに通って体を動かすようにしていた。アントンと出くわせば指導してもらうこともあった。結果として「あのちびっこカーチャが体を鍛えている」「アントンの舎弟になった」という噂が各所に流れた。
だから学年対抗スニェクレースの話が出た際、なぜかクラスで俺を推薦する奴が出てきた。
「あのアントンに認められてるんだ、きっと凄いパワーを持ってるに違いない」
いえ、ひ弱過ぎて呆れられました。体力が女子並みなのを哀れんでトレーニングに付き合ってくれてるだけです。……とはいえ、正直にいうとスニェクレースにちょっと興味があった。なのでクラスの話し合いでは反対も賛成もせず、流れに身を任せていた。
「確かにカーチャはスニェクレースに向いてそうだな」
「体重はダントツで軽そうだし、きっとスニェクもスピードが出る」
一年生のこの時期だ。お互いのことをよく知らないので推測で話が進んでしまうのも仕方ない。それは仕方ないのだが、なんと親友のニカまで俺を推し始めた。
「カーチャとよく遊ぶけど、運動神経はいいぜ」
それは前世の技能が活かせるボール遊びに限るんだけど……というツッコミは心のなかに留めていたので、あれよあれよという間にスニェクレースの学年代表に決まった。あとで何故ニカが俺を推薦したのか理由を尋ねてみたら、
「だってスポーツやりたかったんだろ?」
と、さも当然のように言っていた。いい親友を持った……のかな?
「そういう流れでスニェクレース出ることになったんだけど、どうしよ」
「『どうしよ』じゃねえ。出来ないなら反対しろ」
アントンは俺のこめかみにコツンと拳を当てて殴るマネをする。
「だってやってみたかったんだもん」
口を尖らせてアントンをちらりと横目に見た。
「おい、俺に期待したって何も教えてやれんぞ。スポーツや喧嘩とスニェクに乗るのは別だ」
「ちぇー」
「当たり前だろ。こんな巨体が乗っかったらスニェクが潰れてレースにならない」
俺とセリョージャで二人乗りできたのだから潰れるというのは流石に誇張だが、アントンの体格がレースに不向きなのは間違いない。
「アントンと競争したら俺勝てちゃうな」
にやにや笑ってからかうと、突然ふわりと体が宙に浮いた。
「うわっ!?」
俺はアントンに脇の下から抱え上げられていた。
「ふん、軽いな。カーチャを推薦したクラスメイトの目は間違ってない。これだけ軽ければ相当なアドバンテージになる」
まるでダンベルみたいに体を上げたり下ろしたりする。
「お、下ろせよ!」
ジタバタ暴れたら、アントンは「すまん」とあっさり下ろしてくれた。
「でも、不安だなあ。レースの練習はしておきたい。落っこちたら危険だし」
「当然だ。そうだな……練習ならセリョージャが適任だ。あいつは去年、俺らの学年を代表してスニェクレースに出場した」
なんと。そんな頼もしい人物が身近にいたとは。
「わかった、そうしてみる。ありがとうアントン!」
「お、おう」
アントンはぼりぼりと頭をかいた。
そうアドバイスされたものの、かなり悩んだ結果セリョージャに指導をお願いすることはなかった。レースに出ると言ったら猛反対されそうだったからだ。なんせカーチャにはトラウマがある。確か五歳の頃だろうか。小さな子スニェクに乗る練習をしていたら、誤って急所を蹴ってしまいスニェクが暴れ出した。ふるい落とされそうになり、スニェクの背にしがみついて泣き叫んだ。きっと家族に助け出されるまで一分もかからなかったはずだが、幼い“私”にはトラウマになるのに十分すぎる出来事だった。それ以来、お兄ちゃんやお父さんの後ろじゃないと絶対に乗りたくないと言って練習するのを拒んできた。俺の意識の影響か、恐怖や拒否感は随分と薄れているようだけど、セリョージャはそうは思っていないだろう。レースまでのわずかな期間、俺は図書館でスニェクに関する本を漁り、乗り方を覚え、厩舎で飼育されてるスニェクを借りて実際のコースで練習し、何人かのクラスメイトの支えもあってなんとかスピードを出して走れるようになった。
ついに、その日が来た。学年対抗スニェクレースは極寒の季節の数少ない行事であり、非常に盛り上がると聞いていたが、想像以上だった。グラウンドの片側に観客席が設けられていたが、そこにいる生徒は四学年で二〇〇人に満たないくらいなのに熱気が凄まじい。俺も一年生の席で待機していたが、クラスメイトが交互にやって来て激励してくれる。バシバシ背中や肩を叩いたり雄叫びを上げたり、とにかくそれは激しく鼓舞していくのだった。
「すごいな、もう負けられないじゃん」
「緊張してんのか、カーチャ」
ニカの軽口に、頰が熱くなる。
「そ、そんなわけないだろ!」
「周りなんて気にすんな。こいつらめっちゃ盛り上がってるけど、カーチャが負けたからって怒るような奴はいねえからよ」
「だから緊張してないって」
そうは言うけど、ニカの言葉でいくらか気が楽になったのも事実だ。
「まあ……ありがと」
俺はジャケットについた雪を払い、コースへと向かった。
コースにはすでに三人の騎手が到着していた。三人とも背は俺よりもずっと高いけれど、やはりスリムだった。そして中でも一際目を引く、しなやかな体躯の騎手。体にフィットしたキュロットで、その長い脚と引き締まった体型の美しさが際立っている。男は帽子をかぶり直し、こちらを向いた。
「お兄ちゃん?」
「カーチャ……!」
よく見知ったその人――セリョージャは、目をまん丸にした。きっと兄妹だからそっくりな顔をしていただろう。俺も驚きを隠せなかった。アントンはセリョージャが今年も出るなんて一言も言ってなかったじゃないか!
「カーチャ、どうしてここに? いや、それよりも、スニェクにはもう一人で乗れるの?」
迫ってきたセリョージャに両肩を揺さぶられながら、俺はこくこくと頷いた。
「うん、もう大丈夫!」
セリョージャは表情を緩め、微笑んだ。
「そうか。カーチャは僕の知らないところでどんどん成長しているんだね」
「えへへ……」
こんなに素直に応援してくれるとは思わなかった。だったらレースに挑む前に相談して、乗り方を教えてもらえばよかったな。セリョージャを欺いたような気がして、胸の奥がちくりと痛んだ。
「お互い、頑張ろう」
「うん!」
グラウンドに連れてこられたスニェクに乗る。手綱を掴み、体温を奪われないようなるべくスニェクに体を密着させてその時を待つ。
「レディ」
ブオオオオ!と重低音が鳴り響く。予想外の合図に一瞬出遅れるが、すぐにスニェクの横腹を蹴り、駆り立てる。乗馬鞭ではなく、専用のブーツで蹴ることで指示を出すのだ。
「はっ!」
もう一発。速度が上がる。体重の利があるからか、最初の遅れは致命的ではなかった。セリョージャが少しリードしていたが、他の騎手らとは並んでいる。一進一退のレースに観客席は湧いていた。吹きすさぶ風が強い。寒さが思いのほか体力を削るのだと、この場で初めて知る。だが、まだスピードを上げる余裕はある。俺はスニェクを急き立てた。レースも真ん中に差し掛かり、俺はついにトップに躍り出る。
「いけない!」
激しい足音の中響く大声。どきり、とする。だが、もう遅い。隣のコースのスニェクがカーブを曲がろうとして、俺のスニェクの胴に頭突きする。
「わああっ!」
体がぐらりと揺れ、慌てて手綱を強く握りしめる。ぶつかってきた騎手は大幅に遅れをとったものの、無事だったらしい。よろけながらも態勢を立て直してコースに戻っていく。けれど、俺のスニェクはそうではなかった。聞いたことのない苦痛に満ちた鳴き声を上げ、めちゃくちゃに走り暴れまわった。スニェクをなだめる方法も勉強したはずなのに、肝心な時に思い出せなかった。第一、怖くて体が震え、スニェクにしがみついたまま動かない。観客席から聞こえるざわめきが不安を加速させる。痛みに我を失ったスニェクはついにコースを外れ、グラウンドの外へと駆け出してしまった。
「どうしよう、どうしよう……」
雪原を疾るスニェクの上で、溢れる涙が止まらなかった。