第一〇話 私、子どもっぽいかな
二学期に入ってから一か月が過ぎ、女子生徒がいる教室の風景も当たり前になってきた。男装しながらの学院生活はとても順調で、今週末もいつもどおりの平穏な休日になるはずだった。……はずだったのだが。緊急事態が発生した。
「げ!」
起床してすぐ、トイレに入って異常を察知した俺は、ヒキガエルのような呻き声を漏らした。用を足したあとも自分の下着を見つめてしばらく固まっていた。
「これって絶対……アレだよなあ」
とにかくなんとかしないと。桶に水を張って汚れた衣類を浸し、念入りに洗う。ごしごしと擦りながら、今後の対策について考える。とりあえず今はトイレットペーパーを代用しているが、ちゃんとしたナプキンを買わなければならない。
「いや、でも、どこで買う?」
共学校になってから購買部にはナプキンが売られている。でも、今の俺は男。ナプキンを買っているところを目撃されたら変態扱いだ。
「ううー、ダメだダメだ!」
ズボンを洗う手を一層速め、慌ててその光景を脳内からかき消した。かといって、学院の外でナプキンが買えるお店なんて知らない。街にある店の配置もうろ覚えだし、どういう類のお店に売っているのかも見当がつかない。お母さんから話くらいは聞かされていても具体的な対処法は教わっていなかった。前世の中学一年生男子のほうは……言うまでもない。
悩みに悩んだ末、それでも学院の購買部には行かないことにした。知り合いに見つかる可能性が恐ろしかったし、店員さんにもそろそろ顔を覚えられている頃だと思う。無謀だとは思うが外に探しに行くほかない。ネイビーのハーフパンツに、お下がりのオフホワイトのトレーナーを合わせる。知らない人が見れば女の子だと思うはずだ。街で知り合いとすれ違っても大丈夫なように、体形はカバーしてボーイッシュな雰囲気も残している。もちろん、ナプキンを買っているときに出くわしたらゲームオーバーだけど。
というわけで、学院の周辺でナプキンを売っている店を探しに行くことにした。
……なぜか、セリョージャと一緒に。
「なんでついてくるのさ、お兄ちゃん!」
「だってカーチャ一人で学院の外を出歩くのは危ないよ」
男の部屋に遊びにいっちゃだめ、の次は一人で街を歩いたらだめ、と来た。校門を出ようとしたところでばったりセリョージャに出くわしたのが運の尽きだった。なにを買うのか言い出しづらくて、結局セリョージャの同行を流れで許してしまった。
「もぉ~、過保護だなあ」
この辺りの道路は日本よりも安全だと思う。自動車はなく、車道を走るのはスニェクの牽く車ばかり。レースほどのスピードは出さないし、俺みたいに暴走スニェクを走らせるような輩がいなければまず事故は起こらないように思える。むくれている横で、なぜかセリョージャはクスクス笑っていた。
「過保護で結構。カーチャは大事な家族だからね」
爽やかな笑顔でそう言って背中をぽんぽんと叩かれると、強くは言い返せなかった。
二人並んで歩くには少し道幅が狭くなったところで、縁石にひょいと乗って歩く。小学生の頃はこうやって靴の幅ほどしかない縁石の上を如何に速く落ちないように歩けるかを友達と競ったものだ。目線が近くなったセリョージャは、向かい風で乱れた前髪を整えながら、時折俺の様子を気にしていた。
「それで、カーチャはなにを買いに行くの?」
されたくなかった質問が、ついに来た。学校から商店街まで出るにはほとんど一本道を歩けばいいが、ここからはどの店に行くかで道が分かれる。伝えないわけにはいかない……けれど。なぜだろう。言葉にするのはすごく勇気がいる。前世は男だし学院でも男として振舞っているんだから、セリョージャは半分同性みたいなものなのに。
「えっと……あの……」
縁石の上で足を止める。歩いていないとバランスが取りづらく、ぱっと歩道に飛び降りた。セリョージャの真横に立ってしまったのに言葉が続かなくて、すごく気まずい。ちらりと見上げると、目線が合う。セリョージャは俺が何も言わないのを不審がる様子もなく、穏やかにこう言った。
「言いづらいなら一人で買ってきなよ。店の近くで待ってるから」
気遣いはすごくありがたいと思う。なのに、一人で歩き出すことはできなかった。地面をじっと見つめ、ごくりと唾を飲む。
「お兄ちゃん……私、生理になったの。でも、どこで買えばいいのか分からなくて」
俯いたまま、周囲の人に聞こえないような小さな声で告げる。告白してようやくなぜこんなにも言い出しにくいのか分かった気がする。自分の心の性別に関係なく、これは女性の体にしか起きない現象で……だから男性であるセリョージャに知られるのが恥ずかしいのかも。小学校高学年になると、生理になった女子を男子がからかうところを何度も見た。俺はからかったりしなかったけど、それでも男の自分には理解できない現象だった。
「そっか。おめでとう、カーチャ」
「えっ?」
予想もしなかったセリョージャの反応に、思わず顔を上げる。
「大人になるのは、なにも恥ずかしいことじゃないよ。天国にいるお母さんたちも、きっとカーチャが健康に育ってくれて安心していると思う」
その言葉で、心がすうっと軽くなった気がした。健康の証。そう思えば不安も薄れる。素敵な考え方だし、そういうふうに考えられるセリョージャも他の男子とは違って見えた。
セリョージャは薬局に連れて行ってくれた。白い蛍光灯で照らされた店内には背丈ほどの高さの棚が横にずらりと並び、それが奥に五列ほどある。おそらく薬局としては大型の店舗と言って差し支えないだろう。一番表にある棚は香玉がずらりと並んでいたが、奥の方の棚には洗剤や化粧品、ティッシュペーパーなど様々な商品が陳列されていた。
「お腹は痛くない? 生理痛を和らげる香玉ならここで買わなくても作ってあげられるけど」
言われてみて初めて、体が怠いような、鈍い痛みを意識する。これ、生理痛だったのか。
「ちょっとだけね。我慢できるよ、このくらい」
「分かった。無理はしないで」
ナプキンは棚の下の方にあった。思っていたよりたくさんの種類やサイズがある。悩んだ結果、いろんなものを買い物かごにつっこんだ。これからも続くのだから、多めに買っておいて損はない。
会計に並ぼうとして、ぴたりと足が止まる。ひとつ奥の列の棚から出てきた女性が赤茶色の髪をなびかせて颯爽と歩く姿が見えた。そして、彼女も俺たちのいる棚の列にやってくる。
「あれって……」
ちらりとセリョージャの顔を仰ぐと、彼は唇の端をわずかに上げて苦笑した。
「アスマーかな」
「やっぱり」
まずいよ、なんて俺がわざわざ口に出すまでもなくセリョージャは買い物かごに洗顔料やらハンドクリームを入れてナプキンを見えないようにしてくれた。
彼女が接近してくると、俺はそんなつもりはなかったのに、ついセリョージャの陰に隠れてしまった。
「おはよう、アスマー」
「あら、オハヨウ。こんなところで会うなんてね」
アスマーはいつもどおり優美なほほ笑みを浮かべたが、私服を着ている分もっと大人びて見える。
「兄弟でお出かけなんて本当に仲良しねえ。おちびさん、怖がらなくてもいいのよ」
「別に! 怖がってなんかないです」
セリョージャの背後から顔を出して抗議すると、二人はどっと笑った。
「笑わないでよ、お兄ちゃんまで! もう~、早く行こ!」
服の裾を引っ張ってセリョージャを促す。なんだか無性にイライラしてしまう。
「それじゃあまた学校でね、アスマー」
「ええ、さようなら。セリョージャもおちびさんに気をつけてあげてね」
買い物を終えて店を出る。しばらく無言で商店街を歩いていたが、セリョージャは優しい声音で話しかけてきた。
「カーチャから手を繋いでくるなんて何年ぶりだろうね」
「えっ!」
言われて初めてセリョージャの手を握りしめていたことに気付いた。お店を出たときだろうか。無意識のうちにそうしていたみたいだ。
「私、子どもっぽいかな……急に拗ねたり、手繋いだり」
そろりと手を引っ込めようとすると、強めの力で握りかえされた。
「そのままでいいよ」
よく分からないけど、ドキッとする。
「アスマーもカーチャに気をつけてあげてって言ってたからね」
にこやかにそう言われて、なんだかガックリしてしまう。
「もう、結局子ども扱いじゃーん!」
「でも本当にこの辺りは最近物騒なんだ。うちの学院の生徒じゃないけど、カーチャと同じ年ごろの子が何人か行方不明になってるらしいからね」
そんな事件が起きているなんて知らなかった。だからセリョージャはお出かけについてこようとしたんだ。それならそうと早く言ってくれればよかったのに、という文句は喉の奥に引っ込める。
「ありがとう、お兄ちゃん」
セリョージャの大きな手を握りなおす。温かい気持ちが胸いっぱいに広がった。