第一話 うわ、俺の美少女レベル高すぎない?
高く昇った太陽がグラウンドを照りつける。うだるような暑さをものともせず、俺はすばしっこくコートの中を駆け回っていた。
「くそー、慎のやつ、全然当たんねえ」
「慎狙いでいくぞ!」
敵チームが悔しそうに叫び、思わずニヤリとしたくなる。昼休みにするドッジボールは最高だ。自チームは内野に俺含め3人と劣勢だが、窮地にいる方がかえって燃える。
「かかってこいや!」
挑発すると相手は素早く足を踏み込み、俺めがけ豪速球を投げてくる。それを両手でキャッチし、返す刀で相手を一人外野へと葬った。
「強ぇー」
敵チームはますます躍起になって俺へと猛攻を仕掛けてくるが、お構いなしに投げ返す。そうしているうちに内野の人数に差はなくなっていた。だが、そこで気が緩んでしまったのかもしれない。次に来た球は俺の手を滑り、地面に落ちた。
「やっちまった!」
「何やってんだマコトー!」
チームメイトの驚きと悔しさの混じる声を背中に浴びながら、外野へと走る。そこに、内野のラインを超えて足元を勢いよく転がっていくボール。チャンス到来だ。これを取って当てたらすぐ内野に戻れる。ボールを追いかけ全速力で駆ける。
ボールが校門を抜けたのにも気づかず、車道にとび出して。
がん、と体を揺さぶる鈍い衝撃と遅れてやってくる激痛。クラクラして、視界はぼやけて色を失っていく。頭の中にこだまする「何やってんだマコトー!」の叫び。死ぬのかな、俺。まだ中学に入ったばかりだったのに。死んだら父ちゃんも母ちゃんも妹も泣くだろうな。あと教室の机に入ってるギャルゲも先生にバレるのかな。まあ死んだら恥も校則違反もないんだけど。
次に目覚めた時、視界は真っ白だった。病院だろうか。寒気がしてブルリと震える。地面にうつ伏せになっていた身体が恐ろしく冷えていた。明らかに病院ではない。痛む体を起こして辺りを見回す。まばらに生えた黒い木々に、降り積もる雪。真夏の日本じゃありえない景色。おまけに嗅ぎ慣れない匂いまで立ち込めている。鼻がすうっとする、眠気が覚めそうな不思議な香り。車にぶつかってここまでぶっ飛ばされたとは、とても考えられない。どうしよう。この寒さだ。夜が来たら死んじゃうのかな。でも右も左もわからないのに、どうしろって言うの?
「う、ううう……、うわあーーーーん!」
怖くて、不安で、訳がわからなくて、大声で泣き出してしまった。泣き声で余計に周りの静けさが身に迫って、一段と心細くなる。
「カーチャ、カーチャ! そこにいるのかい!?」
静寂を破る声。若い男の人だろうか。人がいると分かってすぐに泣き止む。俺はカーチャじゃないけど、とにかく人に会いたくて返事をする。
「ここ! ここにいます!」
「カーチャ! 今行くからじっとしてるんだよ」
男性の声は期待に満ちていた。少し胸が痛む。黒い木々に阻まれて、こちらまで辿り着けないのだろうか。足音はなかなか近づいてこない。じっとしてとは言われたが、誰が来るのかと待ちわびて、大木の周囲をくるくる歩いてみる。森に漂う奇妙な香りは、この一際大きな木の幹からしていた。
「あっ」
視線がぶつかり、ピタリと足を止める。若葉のような青緑の瞳。肌は雪景色に馴染むほど白く、艶のある波打つ髪はコーヒーのように深みのある茶色だ。眉や目鼻立ちがくっきりとしていて、知的で凛々しい感じのする顔はまだ若い。俺よりも少し年上くらいだろうか。青年は言葉を失って立ち尽くしていたかと思えば、ふらふらとこちらに歩み寄ってくる。俺、カーチャじゃなくてすみません……と謝ろうとした矢先だった。
「ああ、カーチャ! 生きていたんだね!」
青年が力強く抱きしめてくる。
「うおっ!?」
細身に似合わぬパワーに、胸が潰れる。……ん? 胸が潰れる? 俺は違和感を覚え、自分の体を少し青年から離して胸元を見る。ギョッとして目を見開いた。だって、男のはずの俺の胸元に、柔らかそうな脂肪の塊が付いていたのだから。
「あっ、ごめん……。妹に対して、その、年頃の女性という認識が欠けていたみたいだ」
体をもぞもぞさせて自分の胸を凝視していたのを、青年は俺が不快だとか恥ずかしく思っていると捉えたらしい。背中に回していた手をパッと離して距離をとった。妹、という言葉に頭がズキズキと痛み出す。脳内に津波のごとく押し寄せてくる情報と記憶。――“私”は目の前にいる彼を知っている。
「……お兄ちゃん?」
そう呼びかけると、兄――セリョージャはふっと顔を綻ばせた。
「よかった。意識ははっきりしているみたいだね」
セリョージャは羽織っていたコートを俺の肩にふわりとかける。コートからは甘く優しい、懐かしい匂いがした。
「寒かったろう。さあ、早くお家に帰ろうか」
早く暖かい場所で落ち着きたかったから、こくこくと頷く。セリョージャに連れられて黒白の森を抜けた。
森の入り口にはリードに繋がれた白くずんぐりした獣がおとなしく待っていた。
「スニェク?」
記憶を手繰り寄せ、獣の名を確かめるように口にする。スニェクは馬のように人や荷物を載せて走る四足動物だ。だが馬より背が低くて胴は長く、白く長い体毛に覆われており、外からは脚が見えない。その走る姿を地を這う巨大な白蛇に例える人もいる。セリョージャはスニェクのリードを木から外しながら答えた。
「そうだよ。もしかして、まだ混乱してるのかな」
その通りだった。森の中で倒れて意識を取り戻した時には二人分の記憶があったのだ。信じたくはないのだけれど、たぶん、俺――雪田慎は死んだ。死んで、生まれ変わったのだ。私――カーチャという女の子に。
セリョージャは俺が背中に腕を回したのを確認し、スニェクを走らせる。
「お兄ちゃん、俺……じゃなくて私、どうしてあんなところに?」
それを聞くと、セリョージャの声色は少し暗くなった。
「覚えていないんだね、病気にかかっていたときのことは」
病気?
「カーチャはね、竃病に罹っていたんだ。知っているかな」
聞いたことがあるような、ないような。答えられないでいると、セリョージャが教えてくれた。
「竃病は、一度罹れば高熱が死ぬまで続く不治の病だよ。末期には徘徊の症状も出るらしいから、カーチャもそれで森まで来てしまったんじゃないかな」
「知らなかった」
「そうだろうね。街で流行ったのも最近だし、市長が緊急事態宣言を出したのも、カーチャが罹った後の話だから」
セリョージャはそこまで言ってしばし黙り込むと、切なげに小さな呟きを漏らした。
「カーチャ……生きててよかった」
三〇分は走っただろうか、ようやく家が見えてくる。寒冷な地域らしい高床で、温かみのある赤茶色のレンガが可愛らしいお家だった。
中へ入るとセリョージャはてきぱきと暖炉に薪をくべる。自分も何かしようと、やかんに湯を沸かし紅茶を作る。
「そういえばお兄ちゃん、お父さんとお母さんは?」
セリョージャはピタリと手を止める。強張った表情を見ただけで、悟ってしまった。
「ごめん、隠すつもりじゃなかったんだ。二人ともカーチャが竃病になったすぐ後に罹ってね……一週間ほど前、亡くなったよ」
「……そうだったんだね」
遠くの学校に通うセリョージャはそのとき寄宿舎にいたが、訃報が届いて帰省したらしい。だが葬式を終えると、ずっと寝床で伏せっていたはずのカーチャが忽然と姿を消してしまったから、慌てて探し回って今に至るということだ。両親が亡くなっていたショックもあるけれど、何よりセリョージャの沈痛な面持ちに胸が締め付けられる。俺が亡くなった後の家族の気持ちを想像せずにはいられなかった。
「お兄ちゃん、ちょっと部屋で休んでくるね」
「うん、そうするといいよ。カーチャも疲れてるだろうから」
カーチャを労わる兄の顔からは、寂しそうな本音が透けてみえた。
自分の部屋にこもり、一旦頭の中を整理する。カーチャを名残惜しそうに見つめていたセリョージャには申し訳ないけれど、少しの間一人になって、身に有り余る出来事の数々を受け止める作業が必要だった。
まずは俺の身に起こったこと。十二歳だった俺は、ドッジボールをプレイしていた時に道路に飛び出して車に轢かれて死んだ。だけど、異世界にカーチャという女の子として転生した。そして十四歳で竃病に罹ったタイミングで前世の記憶を取り戻したんだ。竃病に罹った前後のカーチャの記憶はぼんやりしているから、“俺”の意思の影響も強い。ふと、生まれ変わった自分の顔を見ていないことに気づき、鏡の前に立ってみる。兄によく似た新雪の肌色に、くりくりとした愛らしい青緑の瞳。淡い栗色の髪は森にいたせいで乱れてはいるが、梳かせばきっと美しいのだろう。背丈は元の俺とそれほど変わらないか、少し小さいか。手足は華奢だが、ワンピースを押し上げる胸はそれなりの大きさだ。
「うわ、俺の美少女レベル高すぎない?」
もはやギャルゲのヒロイン級だ。いや、ギャルゲのヒロインなのかもしれない。……違う、これはギャルゲのヒロインだ!
「……カーチャ」
カーチャ・アプチェーカ。間違いない。俺が生前プレイしていて教室の机に入れっぱなしのギャルゲ、『根雪のあした』のヒロインだ。見た目も、名前も、兄がいるところも完全に一致する。
「これは凄いことになってきた……」
ということは、俺、主人公に攻略されるの?
「そんなのやだー!!」
部屋で一人泣きわめく。心配して駆けつけてきたセリョージャに、ごまかすのが大変だった。