列車が動き出すまで
朝四時半の駅ホームは、夏が差し掛かった六月だというのに少し肌寒い。
もちろん人の姿は全くなく、カラスの泣き声がこだまする。
駅の改札口から、カメラを携えた男が出てくる。そして迷うことなくそのままホームの端へと歩き出した。
朝もやの中から、曇った光が差し始めた。
貨物列車がその無骨な顔を覗かせる。
男はレンズを覗き込む。
カシャッ、カシャッ
貨物列車は、速度を落とすことなく駅を通過していく。
男は余韻に浸るようにカメラを覗き続けていたが、パタパタと聞こえてきた足音に思わず振り返った。
「あ~逃したか……」
身長140センチほどの少年がそこにはいた。
少年の手には小さなデジタルカメラが握られている。
「君……電車に乗るため……じゃなさそうだね」
「俺もおじさんと同じ目的でここに来たんだよ。目当ては逃しちゃったけど」
少年は、走り去る貨物列車を見送る。
「撮り鉄のブログを漁ってたら、この駅で撮影してる人のブログを見つけたんだ。俺の住んでるところから自転車で来れる所だったから、早速来てみたんだ」
「へぇ、何て名前のブログを見たんだい?」
「んとね……」
トーストとコーヒーの香りが食卓を包む。
「今日も朝早くから撮影に?」
男の妻がベーコンエッグが乗った皿を男の前に出す。
「あぁ、今日もいつもの駅にな」
「たまには電車以外を撮ったりしないんですか」
「……気が向いたらな」
男は生半可な返しをした。
「ああ、そういえば今日、小学生ぐらいの子供と会ったんだ」
「あらそうなの。珍しいわね」
「その子も撮り鉄らしいんだ。それで聞いてくれよ」
「なんですか?」
「その子、僕のブログを見て、今日来たらしいんだよ」
「そんなことがあるんだねぇ。世間は狭いわね」
「いやぁ、嬉しくなって結構話しちゃったよ」
「もう。おじさんなのに」
「違いない」
男は苦笑しながら、ふと、テーブルの上に飾られた一枚の写真を見つめた。
その写真には、まだ若々しい男性と女性、そして、屈託のない笑顔を向ける幼児の姿が写っている。
「またあの子に会えるといいんだが」
そう呟く男の顔は、一言では言い出せない、複雑な表情をしていた。
翌週も、二つの人影が朝方のホームにはあった。
「おじさんは、毎週ここに来てるの?」
「基本的には毎週来てるよ」
「ふーん」
「……」
「……」
「俺、貨物列車好きなんだよね」
「貨物のどこが好きなんだい?」
「うーん、なんとなく全体的に」
「……そうかい」
「……」
「……」
男と少年は、取り留めのない、歯切れの悪い会話をカメラを構えながら続けていた。
朝霧をかき分けて、貨物列車が姿を現す。
「あ、きたっ」
カシャッ、カシャッ
「うーん、ちょっとブレた……やっぱりこのカメラじゃなぁ……」
少年は羨ましそうに男の一眼レフを見つめる。
「おじさんのカメラ、いくらするの?」
「子供にはまだ早い金額だよ」
「いくらぐらい? 5万円ぐらい?」
「その三倍」
「三倍……くぅ、これで我慢するしかないよなぁ」
少年は自分の手にある小さなデジタルカメラを見つめる。
「お父さんとかにお願いしたらどうだい?」
「……それは無理かなぁ」
「安い奴なら、そこまでじゃないし」
「安くてもきっと無理だよ」
少年はどこか悲しげな表情でそう呟いた。
「あっ、なんかごめんね……」
「おじさんの子供なら、カメラとか買ってくれそうで羨ましいよ」
「そう、だね。買ってあげるかもね」
「おじさんの子供がうらやましいなぁ……あ、もしかして、おじさんって子供いない?」
「いや、子供はいるよ」
「だよね。だっておじさん結婚指輪してるし」
少年はカメラを覗き込みながら
「おじさん優しそうだし、羨ましいよ」
そう呟いた。
「あら、何かお探しですか」
押し入れの中でガザゴソしていた男に妻が問いかけた。
「あぁ、昔使ってたカメラを探しているんだ」
「今のカメラ、壊れてしまったんですか?」
「いや、もう使わないだろうからプレゼントしてあげようと思ってね」
「へぇ、どなたに?」
「この前話した小学生……今日もまた会ったんだ」
「その子にプレゼントを?」
「ああ」
「そうですか。ずいぶんと親しくしているんですね」
「否定はしない」
「……」
妻は何か言いたげな表情をしていたが、そのまま何も言わずに、部屋の奥へと進んでいった。
「おじさん、本当にこれくれるの? しかもレンズまで……」
「押し入れで埃をかぶっているよりは、こうして使ってもらった方が、こいつも嬉しいだろうさ」
「おじさん、本当にありがとう! 大切にするよ!」
少年は顔を輝かしながらそう言った。
「……」
「おじさん?」
「あぁ、いや、なんでもないよ」
「そう? ならいいけど」
少年は新しいおもちゃを手にした少年のように、はしゃいでいた。
「うお~、やっぱりデジカメとは違うなぁ~」
「昔は、デジカメもなかったんだから、大変だったんだよ」
「そうなの?」
「そうさ。自宅で現像も出来ないからお店にわざわざ行ったりしてね。子供のころのお小遣いは全部、写真関係に消えていったよ」
「おじさんは、ずっと前から写真が好きだったの?」
「そうだね。僕が君ぐらいの年のころから、ずっと好きだよ」
男はそう言ってはにかんだ。
「うちのお父さんも写真が好きだったら良いんだけど」
「今度、お父さんを誘ってみたら良いんじゃないかな」
「それはない」
少年はきっぱりと切り捨てた。
「絶対に……」
少年は手に持つカメラを強く握る。
「俺、本当に羨ましいんだ。おじさんの子供が」
「……」
朝靄の駅に立つ、その二つの人影は、まるで親子のように見えた。
「あら、なんだか沈んだ顔ね」
妻が、コーヒーカップを男の前に出しながらそう言った。
「そう、見えるかい」
「ええ。もう長い付き合いですから」
「それもそうか」
男はコーヒーを一口。
「いつも会う小学生、あんまり家族関係が上手くいってなさそうなんだ」
「あら、そんな話をするまで仲良くなったのね」
「同じ趣味を持つって言うのは、それだけで近しくなるもんだ」
「一体何歳差だと思って……まぁ、それで? なんかしてあげようかなって思っているの?」
「……今度、一緒に鉄道の旅にでも誘ってみようかと思ってる」
「良いんじゃない」
妻も自分のコーヒーカップに口をつける。
「……その子が僕に言うんだ。僕の息子が羨ましいよって」
「……そう」
「まだ三回しか会ってないのに、そんなことを言うんだ」
「……」
「……なぁ」
「あなたは、私たちが受けた悲しみを、他人にも受けてもらいたいの?」
男の言葉を遮るように、妻はそう言った。
「……」
「その子には、父親も母親もいるのでしょう? あなたはその人たちから奪おうというの?」
男は俯いたまま
「そうだな……あんな思いは僕たちだけで十分だ」
男はテーブルに飾られた写真を見つめた。
二人の旅
いつもの撮影地である馴染みの駅前で、男は立っていた。
「おーいおじさーん」
リュックサックを背に、少年が手を振っている。
「おはよう。忘れ物はないかな?」
「バッチリ」
「ちゃんと親に今日の事を伝えたかい?」
「う、うん。もしかしたら夜遅くなるかもって言ってある」
「それなら大丈夫。それじゃあまずは、キチキチのスケジュールの確認をしよう」
男は、大学ノートを鞄から出した。
そこには今日のタイムスケジュールが書き込まれている。
何度も書き直した跡が残るそのページは、男がこの旅にどれだけの熱量を注いでいるかを証明していた。
「おじさん、すごいやる気だね!」
「そりゃそうさ、だってこの旅は、昔出来なかったことをやるための旅だからね」
「昔出来なかったこと? それってなんなの?」
「旅の終わりに教えてあげるよ」
男はノートを閉じて鞄にしまった。
「さぁ、行こうか」
「うん!」
二人は改札へと向かう。
二人は列車に乗って旅をした。
たまにはホームに降りて写真を撮ったり、駅から出て、線路沿いで撮影をしたり、お昼には、並んで立ち食い蕎麦を食べたり、車窓から景色を眺めたり、車内で好きな車両の事、カメラのことを話したり……。
男はまるで童心に帰ったかのように、少年は同い年の友人と遊ぶかのように。
列車は進む。男と少年を乗せて。
楽しい旅は、終わりへと近づいていく。
車窓からの景色が夜と光の二色だけになってきた。
はしゃぎ疲れた少年は、少しウトウトしていた。
「今日は朝も早かったから、もう疲れただろう?」
「まぁ、ちょっとはね。でも、楽しかったから」
「そうか」
「そういえばおじさん、今日朝言ってた、昔出来なかったことってなんあなの?」
「ん? あぁ、それはね……」
男は一瞬、声が詰まった。
「僕は、自分の子供と、こうやって電車の旅に行きたかったんだ」
「自分の子供……、おじさんの子供は電車とか嫌いだったの?」
「分からない。どうだったんだろう」
「分からないってどういうこと?」
「僕の息子は、三歳で死んだんだ。事故でね」
「事故……」
「もう、15年以上前のことだよ。とても悲しいけど、涙はもう出ない」
「……」
「親子でするキャッチボールを見たって何とも思わない。はずだった」
男は涙をこらえるように苦笑いをしながら、
「でも、本当はしたかったんだ。息子と一緒にこうやって僕の好きな電車の話をしたり、一緒に写真を撮ったり、したかったんだ」
「お、おじさん……」
「とても、楽しかった……今日の旅は……忘れはしないだろう」
少年は、男の手をしっかりと握った。
「俺、俺、なるよ! おじさんの息子に!」
少年の眼差しは真剣だった。
「気持ちは嬉しいけど、君には両親がいるだろう」
「あんな奴ら、もういらない! おじさんの方が、優しいし、カメラもくれるし、俺のためを思ってくれる……あんな喧嘩ばっかりして、俺の事を見てくれない人たちなんかもう知らない!」
男と少年の気持ちはこの時確かに通じていた。
男は死んだ息子の代わりを求めて。
少年は優しい親を求めて。
二人の目的は確かに一致していた。
「たとえ、どんなに君が両親の事を嫌いだったしても、両親はきっと君の事を大切に思っているよ」
「そんなことない! 俺の事なんてどうでもいいと思ってるよ!」
「そんな親はいない」
「おじさんは優しいから、そう思うだけなんだ。それなら、いっそ僕からおじさんにお願いするよ。僕をおじさんの息子にして。おじさんも死んじゃった息子の代わりが欲しいんでしょ? 僕はきっとおじさんの望む息子になって見せるから」
少年は必死だった。本心からの言葉だった。
「たとえどんなに君がそう思うと、僕は自分の味わったあの悲しみを誰かに味あわせたくない」
「……おじさんは、本当に優しいね。うちの親もおじさんぐらい優しければいいんだけど」
少年はそれっきり、電車内でしゃべらなくなった。
いつもの駅に二人が降り立ったのは、11時半を過ぎた時間だった。
「もうこんな夜更けだ。家まで送っていくよ」
男の提案に少年は黙って頷いた。
街灯が照らす住宅街を、二人は並んで歩く。
互いに口を開くことはなかったが、不意に少年の口からぽつっと
「今日、帰るのがこんなに遅くなるって実は言ってないんだ。親に」
「えっ!?」
「そんなことをしなくても、あいつらはきっと僕に無関心だから、関係ないと思ったんだ」
「なんてことだ……」
「……ねぇおじさん、俺が黙って遅くまで帰らなかったら、うちの両親は心配するかな」
「当り前さ」
「それなら、嬉しいけど……」
その瞬間、走り寄る足音とともに、一人の男性が走り寄ってきた。
「はぁ、やっと、やっと見つけた!」
男は息も絶え絶えの状態で、絞り出すように叫んだ。
「お、お父さん……」
「こんな時間までどこほっつき歩いて……おい、お前、うちの息子をこんな時間までどこに連れまわしていたんだよ」
「お父さん、このおじさんは良い人なんだ! 僕をここまで送ってくれて……」
「……そうか、なら悪かった。うちのガキが迷惑をかけた」
「いえ……いいんです。とっても良い子でしたから」
「……そうか。おい帰るぞ」
少年は、男の方を一瞥したが、連れられるように男の前から夜の闇に紛れていった。
男は、家に帰るなり、リビングの電気がついていることに驚いた。
「まさか、まだ起きてたのか」
「あぁ、お帰りなさい。遅かったわね。楽しかった?」
「あぁ。楽しかったよ」
「何か食べる?」
「頼む」
妻は、瞼をこすりながら台所に向かった。
「……きっと、あの子とはもう会えない気がする」
「そうですか」
「でもこれで良いんだと思う」
「……」
「だって僕には、僕らには既に息子がいるんだからさ」
「……そうですか」
妻は優しく微笑んだ。
トーストとコーヒーの朝。
妻は7時半を示す時計をみて、そろそろかと思い、ベーコンを炒め始めた。
ちょうどそのタイミングで、玄関の方から音がする。
「ただいま!」
男はいつもより上機嫌だった。
「お帰り」
「なぁ、お前に見せたい写真が撮れたんだ。見てくれよ」
「今料理してるんだけど」
「なぁ、とりあえず見てくれって」
男は、カメラの画面を妻に見せる。
「えぇ? でもまた電車なんでしょ?」
「今日は違うんだな。ほら、上手く撮れているだろう?」
「……あぁ、本当に。良い写真じゃない」
「そうだろう? 我ながらそう思うよ」
二人は優しく微笑みあう。
画面にはカメラを携えた一人の少年と、それを見守る一人の男性の姿が映し出されていた。
テレビで電車の旅番組がやってるとつい見てしまいます。
車窓からの眺め、とても綺麗ですよね。
ですが実際に僕が見たいものは、車窓からの眺めではなく、綺麗な背景を背に走る列車であって、車窓からの眺めではないのです。
だからまた、僕は電車の旅番組を見ます。