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ユリがベーグルを食べたいと突然言い出した。

「しかも出来立てが食べたいの」

俺は締め切り間近のレポートがあり、パソコンに齧りついてそれどころじゃないというのに、

ユリは猫撫で声でねぇねぇと俺の作業の邪魔をする。

忙しい、とちょっと眉間に皺を寄せると手伝ってあげるからと腕を引っ張った。

いつもそんな風に振舞って我が侭押し通してるのかと少し呆れて一つ溜息をつく。

「キリが良いところまで待って」

返答が気に入ったらしく、ユリは滅多に人に見せないような満面の笑みを浮かべて

俺の背中にもたれかかって本を読み始めた。

思いだの、作業の邪魔だのいろんな思いは巡ったが、

一応ご機嫌取りに成功したのだから敢えてそれを崩すようなことは得策ではないと考えて

キーボードに乗せた指を動かし始める。




背中に預けられたユリの体は酷く軽いが、

冷たいと感じることの多い彼女の体温を珍しく感じていた。

心音は酷く静かで、一生荒れることのない凪のようだ。

キーボードを打つ音に混じる本を捲る音と髪をかきあげるさらりとした音が耳に心地良い。

ユリとの沈黙を苦痛に感じることはなかった。

思い返せば、会話している時間の方が長いのなんて遠い昔のことだった。

会えば二言三言世間話をして、いつも通りなユリに苛立って

ユリはそんな俺に満足したように笑って挑発する。

後はいつも通りすることをして、抱き合って寝るだけだ。





「ユリ、終わったよ」

猫が主人の呼びかけに応えるように、ユリはよりかかっていた俺の背中から離れ、

膝の上に跨り、首筋に唇を当ててきた。

見た目は薄いのにそれが自分の肌の触角を通じて弾力や潤いみたいなものを感じるたびに

オスとして何かを煽られるような気持ちもする。

しかしながら、その行動が性的なものを意味するよりも、

むしろ無作為な動物的じゃれ付きであることを知っていたので、

猫の首元を擽るように犬の腹を擦るように背中を撫でる。

「ベーグル作るから、どいて」

いや、と猫のようなアーモンド形の瞳を細めながら首を左右に振る。

首を振る動作でユリの柔らかい髪の毛が頬を擽る。

自分と同じシャンプーの匂いの中に女性独特の甘い匂いが鼻を掠めた。

たしなめるように俺はユリの頭を軽くぽんと撫でてからキッチンに立った。




時折子供のような我が侭を言う。

そんなユリを見ていると、今まで付き合ってきた女の子達と何ら変わらないように見えた。

だからと言ってスイーツの話をしたり、恋愛の話をしてもとてもつまらなそうにするだけだろう。

可愛いね、好きだよなんて言ったらそれこそ、氷のような視線を投げかけられそうだ。

昔は自分に余裕がなかったけれど、最近はなんとなく分かってきたことが1つある。

ユリは自分の女性的な部分を忌まわしく思っているということだ。

ある時俺が一度だけユリのことを褒めたことがある。

ポラロイド写真に収められたユリの顔は人形みたいで、

純粋に綺麗で、その本音のままに発した言葉を受けたユリの表情は強張った。

眉間には小さな皺がより、大きな瞳に入る光が一瞬に消え、

温度のないその瞳は、ユリの整った顔立ちにより一層深い陰影をつける。




小麦粉・ベーキングパウダーを手早く混ぜてから少量ずつお湯を加えて、数分間捏ねる。

以外と力の要る作業だが、丁寧にやらないと綺麗に膨らまず美味しくない。

待つのに飽きたのか、ユリは俺の隣に来て軽量カップだのなんだのを差し出してくる。

ユリの甘い匂いに混じる、微かに青臭い自分の体液が鼻腔を掠めて少しだけ眉をしかめる。

粉のダマや過剰な水気がなくなり、均等に生地が纏まったのを確認してから成形する。

丸めて中央部に穴を開けてドーナツ型になるように綺麗に広げていくのだが、

意外と均等に行かずに難しい。

人にやらせるが、何事にも器用なユリの手の平にのったベーグルは、

型を使ったみたいに整っていた。

生計した生地を沸騰させたお湯に潜らせ、キッチンペーパーで軽く水をふき取りオーブンへ。

後は待つだけと一息つくと、

さっきまでは粘土遊びをする子供のように無邪気な動きをしていた指先が

明確な別の意図を持ってするすると背中から胸へ回される。

肉体の動きは時として言葉よりも雄弁だ。

絡みついた腕を緩く外して振り返り、ユリにキスをした。




レンジの唸るような電子音と、時々掠れる高いユリの声が頭の中で反響する。

脳みそが少しずつ溶けて、思考回路がくたくたになっていく。

「好きだよ」

くたくたになった俺の脳みそは理性による制御が不能となり、

言うつもりのない言葉を発するように命令した。

(やば)

言ってはならないことを言ってしまったと背中に冷や汗が流れる。

恐る恐る覗き込んだユリの表情が想像していたものとあまりにもかけ離れた反応で、

俺は思わず目を見開いた。

壊れた防波堤みたいに溢れ出した涙。

見られまいとしてすぐに肩口に顔を押し当てられてしまったけれど、

汗とは質感の異なった人の温度を持った水滴が首元を濡らすのを感じた。

「・・・ユリ?泣いてんの?」

愚図る子供のように何度も首を左右に振る。

傷付いたのだろうか、何を考えているのかさっぱり分からない。

それでも、繋がったまま強く俺の腕掴んで離さない細い指。

「腹減ったな」

こくり、と小さく頷いた。

とりあえずコーヒーを入れようと思ってベッドから立ち上がる。

焼き立てのベーグルの匂いをどこかで感じていたが、とうに消えてしまっている。

背後では小さく鼻を啜る音がするけれど、

ユリは何事もなかったかのようにそのベーグルを食べるのだろう。

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