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(あ、)
聞き覚えのある声が見上げた教室の先から聞こえてくる。
軽やかで哀しげな旋律を辿るのは、氷を叩いたように通るユリの声。
「シュンー」
立ち止まっていた俺に投げかけられる声に急かされて一度歩き出したが、
名残惜しくてもう一度教室の方に振り返って見上げた。
曲は、アヴェ・マリア。
ずっと聞いていたいと思った。
追い詰めて楽しんでいるようにしか見えない表情だった。
俺の記憶していた乾という男はこれほどまでに性悪な男であっただろうか。
嗚呼。
夕暮れの赤を地平線に含んだ青はどうしてあんなに鮮やかなのだろう。
泣きたくなるようなその青で俺の心臓を綺麗に塗り上げていく。
教室は暗くなり始め、青空をバックにした乾を黒く切り取った。
ユリは流行りの曲に敏感という類の女子ではなかった。
その時々に女の子から薦められるものや、
テレビで流れているものは申し訳程度に聞くくらいだ。
時々俺の部屋からCDを勝手に持ち出しては、酷評をつけて返してくる。
そんなユリの趣味は今時の女の子にしては珍しいもので、
小さい頃から習っていたということもあるのかクラシックのピアノをよく聴いている。
あれはモーツァルトだとかこれはショパンだとか。
始めは区別が付かなかったが、いやいや聴かせされているうちに
何が何であるかは分かるようになった。
たまにジャズを聴いているようで、そちらに関してはもはやさっぱりだった。
ユリは歌も上手かった。
元来持ち合わせた声質やピアノで身につけた音感。
音楽教師に合唱部への入部を熱心に誘われる程なのに、
本人は自分の歌唱力に興味がなかったらしく
あっさり「練習は面倒」と言って煙に巻いていた。
しかし歌うことは好きらしく、中学生が嫌うような垢抜けない合唱曲のメロディーラインを
何気なく口ずさんでいるのを耳にすることがあった。
「ださ」
「良いじゃない別に」
ユリが軽く歌っていったのは、小学校の定番「翼を下さい」。
音楽の教科書にのった歌謡曲の1つだった気がする。
比較的、簡単なメロディーの割に合唱をすると意外と不思議な響きのある曲だと思うが、
高校生が今更歌うような曲でもない。
「帰る途中で小学生が歌ってたの」
「いたな、そういう奴」
「シュンなんてリコーダー吹いてたじゃない」
「覚えてない」
本当はしっかり覚えていた。
特に何も考えず、習いたてのリコーダーがもの珍しくて
音階なんて考えもせずにただピーピー吹いていた。
ユリはそんな俺をくすりと笑って、「下手くそ」と言ってのけたのだ。
俺は言われなくても分かっているといったように、
吹き込む力を強くして、大きな不協和音をそこら中に轟かせた。
小学校の頃の思い出は特にない。
その時々にハマったポケモンだったり、ミニ四駆だったり。
一緒にサッカーとか野球をした仲間のことだったり、
思い出そうと思えば幾らでも思い出せるというのに、
それ以上の感覚はあまり浮かんでこない。
当然と言えば当然なのかもしれない、小学生なんて野生の動物並みの生き物だ。
深く考えたり悩んで生きていたりしていないのだから、
記憶に残るような鮮烈な感情自体を抱かなかったのだろう。
ユリだけが今でも俺の中で存在感を持つ唯一のものだった。
朧げにピアノの音色が聞こえてきた。
何小節かの前奏らしいメロディが奏でられ、促されるままに歌声が続いた。
耳にしてすぐにはっとしたのは、ユリの声だったからだ。
同じ階に少し距離の離れた音楽室から零れてきているらしく、
ノイズの入るラジオのように途切れ途切れであった。
「片瀬さん、合唱コンクールに出るって聞いたけど」
乾は頬杖をついて、心地良さそうに目を閉じた。
「・・・ユリは昔から上手かったよ」
中学の頃見上げた音楽室の窓の情景が過ぎった。
ある意味単調ともいえるアヴェ・マリアの旋律をまるで楽器のように歌う。
すでに教師が手をつけられないジャンルに部類されていた俺は
授業以外音楽室に立ち入ることを許されるわけもなく(ダチが楽器を壊す前科持ち)、
少しだけ埃を被りつつも光沢を帯びたピアノの横にたって、
人々を惚れ惚れさせるユリの姿を想像するのでいっぱいだった。
コンクールが近くなるとユリはいつも音楽室の囚人だった。
俺はコンクールが終わるまでの期間、ユリの歌声が聞こえる窓をずっと見上げ続けた。
しかし、窓に映るのは青空をのっそりと移動する白雲か夕焼けだけだった。
「人を振り回すことなんてなんともないみたいに笑って」
偶々通りかかったときに休憩を告げる女教師の声が耳に入った。
いつものように姿の見えるはずもないユリを探して、音楽室を見上げた。
背景だけが描かれた絵画に突如現れた女性のように、ユリは急に窓枠の中に姿を現した。
ユリはこちらを見るとうっそりと笑ってすぐに奥へとひっこんでしまった。
「この野郎とか思ったけど」
全部知っていたのだ。
蜜に吸い寄せられる虫のように、ユリの声に足を止めていたことを。
同じ中学生のくせに余裕かましやがってと耳まで赤くなるのを感じた。
「色々と焼きついて離れないとか」
心の中で吐かれる悪態の1つでも口上に乗せて、さっさとその場から立ち去りたいのに、
微笑むユリの、深い瞳孔の黒さに酷く心を乱された。
「本当に厄介だよ」
好きだ、なんてそんな気持ち当の昔から自分の中で育っていたのだ。
生ぬるく湿った心臓を苗床にして、血液を水代わりに、
ユリが何気なく放り投げた種が日ごと育っていく。
俺はそれがどんな花をさかせるのかが怖くて、蕾のままなかったフリをした。
しかし、俺の意志に反して花は花弁を開こうともぞりもぞりと動く。
最後は抵抗むなしく、真っ赤な大輪の花を咲かせた。
毒々しくも見えた、その花は、その感情は気付いてしまえば
蕾のように見ないことはできない。
目を閉じても強烈な匂いで存在をこちらに訴えかけてくる。
何をしても無駄だと言うように、甘受してしまえば全てが楽になれるのだというように。
確かにその花はぞっとするほど美しく、酷く抗いがたかった。