10
咽返りそうな位に甘く馨しい金木犀の香りと、消毒薬臭い医務室の匂い。
「失礼します」
全くお世話にならずに卒業していくだろうと思っていた大学の医務室のドアをノックした。
残念ながら俺は二日酔いだったことを抜かして、いたって健康だ。
なのに、わざわざ傷病人の出向くような場所にいるのは、
他でもないユリのせいだった。
知らない電話番号から電話がかかって来た。
その番号は携帯からではなく、思い当たる節もなくて無視を決め込んだが、
予想外にずっとなり続けているので仕方なく受話ボタンを押した。
「もしもし」
電話先の相手は大学の医務室だった。
何もしていないはずだ、と内心動揺しながら受け答えを繰り返すと、
あちらとこちらで話にズレが生じていることに気付いた。
相手も同様だったらしく戸惑いが受話器越しにうかがえ、
躊躇いながら発された言葉は、
『失礼ですが、片瀬ユリさんの保護者の方で、いらっしゃいますか?』
その一言で全てを悟った。
大学入学時に緊急連絡先をかく用紙を渡された。
ごく普通の感性と常識を持ち合わせている人ならば、
連絡先に自宅番号か親の携帯番号などを書く。
ユリはこともあろうにその緊急連絡先に俺の電話番号を書いたに違いない。
本人にそのことで文句を言えば、
「緊急連絡先よ?遠くにいる人間の番号書いてどうするのよ」
とか、屁理屈をつきそうだ。
ともかく、ユリの知り合い(兼保護者代理)であることは確かだったので、
引き取りに行く旨を伝えた。
「すいません」
医務担当の人から、移動中に貧血で倒れたことを聞かされた。
簡単な説明を受けながら、俺はユリの寝ているベッドの方へ促される。
白いカーテンをさっと手で払うと、
ユリのただでさえ白い顔から血の気が引いているのを見つけた。
「まだ顔色も良くないからもう少しだけ様子を見て連れて帰ってもらっても良いかしら?」
「はい」
「じゃあ、目が覚めたらまた呼んで下さい」
そう一言言い残すと、カーテンの外側へと出て行った。
俺は軽く後ろ姿に会釈してから、目の覚めないユリの顔を見る。
何度そうしてきただろうか、呆れて思わず溜め息をついた。
布団からはみだした指先に触れると凍っているかのように冷たい。
意識のないユリの体には力が入っておらず、
死人のような硬直がないために、どちらかというと人形のような印象の方が強かった。
寛げられた首元に触ると、少し熱っぽく、
「良かった、生きている」と当たり前な認識を得た。
(生理か)
俺は傍にあった椅子を引き寄せて腰かけて改めてユリの顔に見入る。
病的なのにも関わらず、ユリは相変わらず小奇麗な顔をしていた。
「眠れる森の美女、ってこんな感じかな」と我ながらキザなことを思った。
小学校に入りたての頃、ませていたとは言え、ユリもそれなりに子供らしかった。
ユリは絵本の好きな女の子で、外から遊びに帰ってきた俺を捕まえては読んでとせがんだ。
まだ生意気で遊びざかりな俺は嫌がったが、結局逆らえなかった。
しょうがないなと言って手渡された絵本の表紙を捲ると、ユリは嬉しそうに笑った。
俺は面倒だなんだと良いながら、そんなユリの姿を見ているのが嫌いじゃなかった。
特にユリは「眠れる森の美女」を好んで読んだ。
王子様からの目覚めのキス、とかに憧れていたのだろうか。
それならば白雪姫でも良かったのだろうに。
何が好きだったのかは分からない。
今更ながらに理由が気になった。
「しゅん」
回想に耽っている俺をユリの声が引き戻した。
「起きた?」
「私、倒れたのね」
いつもよりもずっと覇気がなく、舌足らずだ。
目もどこか曇っており、澱んだ光が時折黒く光った。
「帰れるか?」
「ええ」
ユリは頷いたが起きる素振りを見せず、じっと焦点の定まらない瞳で天井を見つめ、
何を思ったのか再び瞼を下ろした。
全体的に疲れて見えるユリの色彩であったが、
閉じられた瞳を縁取る睫毛は熱っぽい水滴を乗せ、
カーテンによって明るい保健室と遮られたこの空間に時折舞い込む光を受けて、
白く煌めいた。
「・・・保健の先生呼んでくる」
俺が立ち上がってカーテンを捲くろうとした瞬間、
くいっと服の裾がひっぱられる感覚がして振り向くと、ユリが服の端を掴んでいた。
ユリは痛みに苛まれているのか、眉間に少しだけ皺を寄せている。
「何?」
呆れながらもう一度席に着く。
ユリは満足そうに笑って『キスして』、と唇を動かした。
言葉として音にはならなかったが、
見慣れた唇が見慣れた単語を模るのを読み取るのに大した苦労も努力も要らなかった。
最近の俺は、ユリの意地悪げな笑みを浮かべながら言われる我が侭に
奇妙な安堵を覚えてならない。
溌剌とした活発さはユリには不似合いに思われて仕方がないし必要としていないが、
弱った様子を見せられるとどうして良いか分からなくなる。
傲慢だと思いながらも、強かなユリで有り続けることを俺は望んでいた。
布団に入ってから随分と時間が経つというのに、ユリの足は冷え切っていた。
体が冷えると痛みも酷くなると聞いたことがあったので、
せめてもと、脚を絡めると心地良さそうに表情を緩めた。
体温が少し上がったために眠気が訪れたのか、
薄っすらと開かれていた瞳が完全に閉じられた。
俺はその様子を見届け、眠いった子供を慈しむ親のように俺は何度も何度も頭を撫でた。
「ずっとね」
すっかり眠っていたと思っていたユリが口を開いた。
俺は頭を撫でる手を止め、肘枕を作ってユリの顔をのぞいた。
「金木犀の香りがしていたの」
寝言のような酷くぼんやりと輪郭のない発音だった。
ユリは瞳を薄っすらと明けており、どこを見るという風でもなく
夢想するようにただ空をぼんやりと眺めている。
さながら金木犀の橙色を思い浮かべているのだろうか。
「遠くで人が私に心配そうに呼びかけている時に“嗚呼、良い香り”ってずっと思ってた」
言葉はそこで途切れ、すやすやと気持ちのよさそうな寝息が聞こえてきた。
「ユリ?」
呼びかけに返事はなく、寝たことを確認すると共に、
折角得られた安堵が再び不安の波に飲まれて行きそうな感覚に陥った。
嗚呼まただ。
反射的にその言葉が浮かんだ。
ユリを好きだと自覚してしまった時の感情に良く似ていた。
変わっていくように思われるユリに恐怖心を感じ、
着実に変わっている自分から目を背きたくて仕方が無い。
強いユリがユリだと思っていた。
品行方正、才色兼備、同年代のやっかみなんてもろともしない。
一般的な悩みに囚われない、自分がしたいように生きる、
そんな人間がユリだと思っていた。
弱いユリは知らない、ずっと傍にいたけれど見たことがない。
見ないように蓋をしたからだ。
俺は眠りに落ちたユリ額に自分のものをこつりと乗せた。
するはずもないのに首元から微かに金木犀の馨りがしたような気がした。