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ある世界では  作者: 周五
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後篇

 ロシュミット様たちが宿泊されて5日が過ぎた。


 いつも大体7〜10日くらい滞在されるので、今回もそうだろう。


 わたしは出勤するのがすごく嫌だった。


  こんなに足取りが重いのは、働きはじめてから初めてのことで、自分でも驚いている。


 その原因は、もちろんテオ。夢のなかの彼と現実の彼との違いにショックを受け、いまでも立ち直れていない。


 自分勝手なのは重々承知している。


 こちらのテオに落ち度はない。常識で考えれば、彼が“本物”のテオであり、あちらのテオはわたしの“理想”であり“偽物”なのだ。


 でも、そんなことでは割り切れない。


 昨夜から今朝にかけて、またテオが出てくる夢を見てしまった。


 その内容が幸せであればあるほど、こちらのテオに会いたくなくなる。


 けれど、わたしが担当になってしまっているから、部屋に行かないわけにはいかない。


 今日も沈んだ気持ちを奮い立たせて、テオが泊まっている部屋のドアをノックする。


 コンコンと2回、ドアを叩くとなかから不機嫌そうな声がした。


「だれだ」


 わかっているくせに。


 わたしは唇を軽く噛んだ。


 毎日同じ時間にこうやって来ている。5日目ともなれば、さすがに察するだろう。


 わざとに違いない。


「き、客室係です」


 わたしが萎縮するのを面白がっているのかも。


 初日に最悪の出会いをして以降、何度か顔を合わせる機会があったけれど、そのたびにテオはわたしに対し冷たい態度で接した。


 わたしは心が折れそうになりながらも、これも仕事と割り切ってなんとかふんばっている。


 それももうそろそろ限界かもしれない。


「失礼します」


 ドアのノブを回し、押して中へ入る。


 テオはソファに足を組んで座っていた。


 ソファの前にあるテーブルの上に数枚の紙をひろげている……なにかの書類だろうか。


「しばらくしますと清掃係がまいります」


 その書類は見てはいけないものではないらしい。わたしが入ってきても隠そうとしなかった。


 テオはちらりとわたしを見、すぐに書類に視線を戻す。


 わたしにはまったく興味がない様子に、胸のあたりがちくんと痛んだけれど、仕方ないと諦め、表情には出さずそのまま下がろうとした。


 この5日間、毎日そうだったから。


 なにか言葉を交わせるかもと期待して、そして失望する。


 テオには笑っていてほしい。そんな無表情、似合わないよ……


「おまえ」


 不意に声をかけられ、出ていこうとドア近くに移動した状態の体がびくんと跳ねた。


 まさか引きとめられるとは思ってもみなかった。


「きこえているのか?」


 テオに背を向けているので、彼がいまどんな顔をしているのかわからない。


 心臓が早鐘を打ち、背中を冷たい汗がつたう。


「おい」


「は……はい」


 喉の奥のおくから声を絞りだし、三度目の問いかけにしてようやく返事をし、振り返った。


 テオの顔に表情はなく、わたしはまたもや失望する。


 こちらの彼にとってわたしは、宿屋の従業員でそれ以上でも以下でもない。


 夢のなかのテオは……



 雪深い森の奥、すべてから隠れるようにして立つ彼の家。


 そこにテオと二人きりで住んでいて、彼はわたしを甘やかすだけ甘やかすのだ。


 愛しているとテオは耳元で囁き、わたしはそれを目を閉じて受け入れる。



 ああ……夢のできごとをこんなところで思い出してはいけなかった。


 反芻は、帰宅してからゆっくりすればよかった。


 後悔先にたたず。みるみる顔が赤くなっていくのが自分でもよくわかる。


「なんなんだ一体……顔が赤いぞ」


 そんな、眉間に皺を寄せながら指摘しなくても、赤面しているのは本人がいちばんよくわかっていますから……っ


「体調管理くらいきちんとしておけ。ここの温泉に毎日つかっているのだろうが」


 え? もしかして、風邪かなにかと勘違いされてる?


「動けないくらいしんどいのなら、さっさと早退して家で休め。あのジジイにはおれから言っておく」


 眉間に寄った皺はなくなっていないけれど。


 それは機嫌が悪いわけではなくて。


 わたしのことを、心配してくれているから?


「あ、あの……」


「呼びとめて悪かったな」


「ち、違っ……」


 心配してくれているのかもと思って、わたしは気が緩んでしまった。


 冷たいだけではなかったこちらのテオに安堵してしまい、油断した。


 堰を切ったようにわたしの目から溢れる涙。


 あんなに無表情だったのに。いまのテオは目を見開いている。


 びっくりしたよね。ごめんなさい。でも止まらないの。


 こちらとあちら、少しだけ重なってしまったから。


「おい……」


 テオがソファから立ち上がり、わたしのほうへ歩いてきた。


 彼の顔を見たくてわたしは目をこらしたけれど、涙でうるんでよくわからない。


 怒っているのか。困っているのか。呆れているのか。


 わたしはこの5日間、かなり我慢していたんだな、と客観的に分析する。


「泣くな」


 ぐいと乱暴に手の甲で涙を拭われた。


「!」


 驚いて、わたしの涙が止まる。


「女が泣くのを見るのは嫌いだ」


「す、すみませっ……」


 わたしが両手で鼻を押さえる。


 わたしの正面に立つテオの闇色の瞳を見つめた。その暗黒に吸い込まれてもいいと思う。


 テオもわたしを見つめてくれている。もう、それだけでよかった。


「くそっ」


 突然、壁が覆いかぶさってきた。


 ……違った。


 テオに体を包み込まれたのだ。


「!?」


 抱きしめられたことにようやく気付き、わたしはひどく混乱した。


 ち、ちょっと待って。


 なにが起こっているの!?


 どうしてテオがわたしを抱きしめているのか見当がつかない。


 混乱しながらも、この状況を嬉しがっている自分がいて、困ってしまう。


 せっかくなのだから黙って抱かれていなさいと、その自分が耳元で囁いた。


 わたしを抱きしめるテオの腕に力がこもる。


 わたしの顔がちょうど彼の胸のあたりで、そろそろと耳をあててみると、どくんどくんと心臓の音がきこえた。


 冷たい表情とは裏腹に、体温は高めの様子。触れ合っているところからじわじわ熱が伝わってくる。


 夢のようで。


「すまん……」


 わたしの頭の上から、小さな声がした。さきほどまでとは違う、感情のこもったもの。


 戸惑い、軽い混乱。わたしを心配する不安の色も感じ取れた。


「おまえに泣かれると、困るんだよ……」


 わたしはおそるおそる頭を上げた。


 そこには、わたしがよく知っている“夢のなかのテオ”の、黒の瞳があった。


 厳しい寒さのあとの、柔らかくあたたかい空気の、春の夜空。


 ……夢?


 わたしは目の周りがちかちかして、何度かまばたきした。


 反動で、ぽろぽろと頬をつたい落ちる涙。


 ……これは、夢? それとも現実?


「泣かせるつもりなんてなかったのに」


 テオにしてみれば、驚いただろう。


 たまたま声をかけたら、客室係が突然泣き出したのだ。意味がわからず困惑するのも無理はない。


「ごめ、んなさ、い……」


 自分でもどうしていいかわからない。テオのなかにある感情のかけらを覗いてしまっただけで、こんなことになってしまうなんて。


「目が……」


「え?」


「目が、優しくて」


 わたしはうつむいた。


 感情のこもったテオの瞳は心臓に悪い。すさまじい破壊力だ。


「優しいと泣くのか?」


 今日のわたしも変。顔を見なくてもテオの声だけできちんと感情が読み取れる。


 いま、テオはますます困っている。


「だって……嫌われてると思ってたから……」


「嫌ってなんか……」


 テオが言葉につまった。言うか言わざるか逡巡している様子。


 少しの沈黙。そして。


「……初めておまえを見たときから気になっていた。だが、どうして接していいかわからなかったんだ。見たとおりおれはこんな年齢(とし)で、おまえと離れすぎている」


 ぽつりぽつりとテオの口から言葉が紡がれる。口調は淡々としているけれど、そこに冷たさはない。


「ここにいる間、できる限り言葉は交わさないつもりでいたのに……つい気になって声をかけてしまった。本当は親しくなるつもりもなく、二度と来ないつもりだったんだ」


「いやっ!」


 最後の言葉がわたしにとって残酷すぎて、思わずテオにしがみついてしまう。


 最初は、夢の登場人物が目の前に現れたことに驚いただけだった。


 でも、何日も客室係としてお世話をさせていただいているうちに、その姿を目で追うようになっていた。


 現実のテオを。


 ふとした仕草が夢の彼と重なり、また違っては一喜一憂。喜んだりへこんだり。


 きっかけはどうあれ、現実のテオと親しくなりたいという気持ちがどんどん膨れあがってきていた。


 ゆっくり話をしたい。笑いかけてほしい。触れたい。触れてほしい。


 無理だと諦めかけていたその願いが、いま、叶いそうでわたしは必死だった。


「そんなこと言わないで……わたしは、あなたが、好きです……」


 生まれて初めてした恋の告白。


 わたしだってするつもりはなかったけれど、ここが正念場な気がしたし、黙ったままではいられなかった。


「だから、二度と来ない、なんて言わないで……」


 会えなくなるのは嫌だ。


 感情が高ぶったせいで、目から新しい涙がほろほろと溢れだした。


「まさかこんなに熱烈な告白をされるとは……」


 ……わたしも泣きながら告白なんてするつもりはなかったです。


「そういえば、名前をきいていなかったな……」


 名前を呼びたいと言われ、わたしは素直にノアザとこたえた。


「ノアザ!?」


 わたしの体を抱きしめていたはずのテオの両手が、一瞬のうちにわたしの両肩にかかり、がしりと掴まれる。


「!?」


 痛くはなかったけれどびっくりしたわたしは、大きく目を見開いてテオの顔を見た。


 彼もまた目を見開き、わたしの顔を凝視している。


「ノアザ……ノアザ・カリオンか!?」


 あれ? どうしてわたしの姓を知っているの?


「は、はい」


 わたしはこくこくと頷いた。


 テオがわたしの顔から視線を外し、じろりと虚空を睨んだ。


 いままでこの場にあった甘い空気はあっという間に霧散。その展開の速さにわたしはなかなかついていけない。


「……あの、タヌキジジイめ……」


 口元を引き締めたまま、喉の奥から絞り出すような声。どうやら、静かに怒っているみたいだ。


「タヌキジジイ?」


 テオの思考から閉め出されたわたしは、彼の怒りの矛先は一体だれなのだろうかと思った。


「……だから、嫌がるおれを無理矢理……気分転換だとか言って……まんまと乗せられた……」


 なにもない空間をじっと見据えたまま、ぶつぶつ呟くテオ。


「あ、の……」


 忘れられたままだと悲しいので、存在を思い出してもらうため、おそるおそる声をかけてみる。


 掴まれた両肩もちょっと痛いし。


「最近やけに絡んでくると思ってたんだ……長いこと没交渉だったくせに……」


 怒りはなかなかおさまらないらしい。わたしを無視し、呟きは続く。


「……ちくしょう!」


 テオがわしゃわしゃと自分の頭をかいた。


「ノアザ!」


 てっきり忘れられていると思っていたわたしは、急に名前を呼ばれて驚き、心臓がひっくり返るかと思った。


 テオの視線はわたしに戻り、それは、冷たくはないが触れると切れそうな鋭い刃物のようだ。


「は、はい!」


 その迫力に声もひっくり返る。


「おまえには悪いが、これは運命だ。おまえが心がわりしても、おれはもうおまえを手離す気はないからな」


 そして再び抱きしめられ。


「やっと見つけた……おれのノアザ」


 一体どういうことなのかまったくわからないまま、わたしはテオに抱きしめられ、愛の告白とプロポーズのような言葉を受けた。

 

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