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ある世界では  作者: 周五
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前篇

 幸せな夢をみた。


 おとぎ話のような。


 心地良い、夢。


 …………でも。


 夢は、夢。




 幸せな夢をずっとみていたかったけれど、そうはいかない。


 今日は平日で仕事がある日。


 わたしはのそのそとベッドから降りる。


 長い冬がようやく終わり、あたたかい春が近づいてきていた。


 ベッドでいつまでもゆっくりしていたいと思うのはわたしだけではないはず。


 昨年春にロースクールを卒業したわたしは、進学せずそのまま就職した。


 同居している伯母は、ミドルスクールへの進学をしきりに勧めてくれたけれど、わたしは丁重にお断りをした。


 だって、女手一つでいままでわたしを育ててくれた伯母に、これ以上、迷惑はかけられない。


 5歳のとき、両親を事故で亡くしたわたしは、母の姉である伯母ドードに引き取られた。


 伯母は、ひとりぼっちになってしまったわたしを、16歳になるいままで育ててくれたのだ。


 ロースクールは義務教育だから卒業しておかなければならないけれど、ミドルスクールは任意。学業に興味があるひとがいけばいい。


 学費などで随分迷惑をかけてしまったから、少しでもお返ししていかなくては。


 そう言ったら、伯母は、笑った。


 おぼろげな記憶のなかの母の笑顔と、それが重なる。


「ノアザ。子どもは自分のことだけ考えていたらいいの。わがままが言えるのも子どもの特権。大人の事情に付き合う必要はないわよ」


 伯母はいつでもわたしを一番に考えてくれる。


 わたしは伯母が大好き。


 これからもずっと一緒の家族でいたい。




 わたしが暮らすイーガーの街では、あちこちで温泉が湧いている。


 その温泉目当てで各地から観光客が訪れるようになり、それがそのまま産業になった。


 湯治客のための宿泊施設がいくつもでき、この街に住むひとの多数が働いている。


 かくいうわたしもその例に違わず、客室係として忙しい日々を送っていた。


 イーガーの温泉は効能がよく、遠くからもたくさんのひとが湯治に訪れる。


 なかには、国を越えてくるひとも。


 わたしが勤めている宿屋に、隣国バルタザルからはるばるやってくるご夫婦がいる。


 うちの宿屋を気に入ってくれているようで、かなりの頻度で宿泊されている。


 お二人ともに歳の頃は60歳くらいだろうか。仕立ての良い服を身にまとい、物腰は柔らかく、気品あふれる優雅なご夫婦だ。


 ご夫婦は、いつもわたしのことを気にかけてくださっていて、もったいないことこのうえない。


 隣国バルタザルのことは戦争のイメージがあって好きではないけれど、そこに住むひとのことは、また別の話。


 今日もお二人は相変わらず仲睦まじい様子だった。


「おはよう」


 奥様のにこやかな挨拶に、こちらも自然と顔がほころぶ。


「おはようございます奥様。ロシュミット様、体のお加減はいかがですか」


 わたしも精一杯の笑顔で返す。


 奥様の隣にいらしたロシュミット様がにこりと笑った。


「この宿の温泉のおかげで最近はすこぶる調子がいいようだ。きみのような親切な客室係もいるしな」


 ありがとうございます。とわたしはぺこりと頭を下げた。


 お世辞であっても嬉しい。


 自分が要領が悪いことは、わたし自身がよくわかっている。


 いまでは自分に課せられた仕事をなんとかその日のうちにこなせるようになったけれど、ここで働きはじめたころはひどかった。


 一日の仕事のうち半分も終わることができなくて、上司から注意をうけた。


 ただ幸いなことに、この宿に泊まられるお客様はみな寛大な心の持ち主なのか、そちらからのクレームがほとんどなかったので、いまでも続けていることができるのだと思う。


 頭を上げると、不意に奥様がわたしの髪に触れた。


「せっかくきれいな金色の髪なのに、引っ詰めていなくちゃならないなんて。もったいない」


 わたしの髪は金色をしていて、小さいころから伸ばしているので長さもかなりある。


 客室係の身だしなみとして、この宿屋では女性は髪を頭の後ろでまとめておかなくてはならない。


 清潔感を出すためだとか。


 ロースクールのときも常に三つ編みだったわたしには、髪を結わえているほうが安心できた。おろしておくほうが見慣れていなくてなんだか恥ずかしい。


 ちなみに制服は紺色のワンピース。こちらは見た目をすっきりさせたいためらしい。


「ウルスラ人はいいわね。金髪に青い目がうらやましい」


 奥様がふわりと微笑んだ。


 わたしの住む国、ウルスラは髪質や色味に多少の違いはあれど金髪碧眼のひとがほとんど。


 国境を越えると、外見はがらりと変わる。バルタザルは黒髪黒眼のひとが大多数。背丈や骨格などもウルスラ人よりしっかりしている。


「ありがとうございます」


 きくところによると、ウルスラ人のその金髪や青い目を羨ましく思うバルタザル人がわりといるらしい。


 自分もそうだし、周りもウルスラ人ばかりなので、金髪や青い目を羨ましく思う気持ちがわからない。


 それに、わたしの髪が他のひとと比べて、特段、優れているとは思えないのだけれど。


「受付にてお手続きをお済ませください」


 いつまでも玄関ホールで立ち話をしていてはいけない。


 遠方からお越しいただいているのだ。疲れもあるだろう。


 わたしは、お二人をいつものように受付カウンターへ案内しようとした。


「ああ、ちょっと待ってくれ」


 ロシュミット様が、先に進もうとするわたしを制した。


「?」


 わたしは立ち止まり、振り返る。


 奥様が玄関出入口のドアのほうを見た。わたしもつられてそちらを見る。


 そこには、いつの間にか男のひとが立っていた。


 ドアがいつ開いたのか、男のひとがいつ入ってきたのか、いつからそこにいたのか、まったくわからなかった。


 1年余りとはいえ、お客様を案内する仕事に就いている身だから、それとなくひとの出入りに気づくようになってきている。


 なのに。


 気配を、感じなかった。


 そして、わたしはその男のひとを見て、息をのんだ。


 顔がこわばり、体が動かなくなる。


 このひとは……


 バルタザル人であることは、黒髪でわかる。目は伏せられているので瞳の色はよくわからないけれど、多分黒。


 体格もがっしりしていて、ウルスラ人のそれではない。


 白っぽい長袖シャツに黒のズボンの裾を黒革の膝丈のブーツの中に入れている。


 簡素な物だけに、着こなしが難しそうな組み合わせをごく自然に見せているのは、長身と姿勢の良さか。


 男のひとが顔を上げた。


 かたまったままのわたしと目が合う。


 年齢は30代後半から40歳くらい。顔に刻まれた皺が、男のひとの人生の歴史を物語っている。


 きれいに剃刀をあてた顔は男らしく整っていた。


 そして、思ったとおり、瞳の色は黒。


 すべてを吸い込むような意志を持った、漆黒。


 瞳に宿る光は、鋭くて冷たい。


 睨んでいるわけではなさそうだけれど、それに近い氷の刃のような視線でわたしは射抜かれてしまった。


 そんな目で、見ないで……


 そんな顔、しないで……


 射抜かれ、傷ついたわたしの心が悲鳴を上げる。


 けれど、彼の氷の一瞥は、そんなわたしの悲鳴すら瞬時に凍りつかせてしまった。


「テオ。そんなところに突っ立ってないでこちらへ来たらどうだ」


 ロシュミット様が男のひとを呼ぶ。


 男のひとがわたしから視線を逸らし、こちらへ歩いてきた。


 気を抜けばその場に崩れ落ちてしまいそうになる体を、わたしは必死でこらえることしかできないでいる。


 テオ……


 ゆったりと近づいてくるその姿は優雅で、ひとつも無駄がない。


 ……わたしは、知っている。


 わたしから外された視線は、いまはロシュミット様をとらえている。


 冷たい視線を向けられても、ロシュミット様の柔和な態度は変わることはなかった。


「もう少し楽しそうな顔をしたらどうだ。せっかくお気に入りの場所へ連れてきてやったのに」


「だれも頼んでなどいない」


 視線と同じ、氷のように冷たい声。それは自分にかけられた言葉ではなかったけれど、耳にした途端、気持ちがどんどんとしぼんでいく気がした。


 男のひとは、体に冬の衣をまとっているかのようだ。


 ウルスラの、厳しい冬。


 辺り一面を真っ白にし、みんなを閉じ込めてしまう吹雪の冬。


 ……こんなひとじゃ、ない……


 わたしは無性に哀しくなった。


 ……わたしは知ってるのに。


 男のひとのあたたかい微笑みを。


 春の陽射しのような、ぽかぽかとしたまなざしを。


「まあいい。おぬしのそれはいつものことだ。感謝の言葉など、はなから期待もしておらんよ」


 ふうっ、とロシュミット様は一息吐くと、諦めたような顔をして、今度はわたしのほうを見た。


「すまんが、もう一部屋頼む。急なことだったのでな、この男にはどんな部屋でもいい」


「か、かしこまり、ました」


 急に話しかけられ、わたしは慌てて返事をしたため、いつも以上に変な声でこたえてしまった。しかも、男のひとから目を離せないまま。


「おれになにか用か?」


 感情のこもらない、ただただ冷たい印象だけの声。わたしをひととして見ていないことがありありとわかる。


 テオの顔から慌てて目をそらしたものの、わたしはなにもこたえることができなかった。


 口を開いたが最後、出てくるのは、多分、嗚咽。言葉にならない声。


「こわがらせてどうするの」


 呆れたといった表情で、奥様が男のひとの横に並んだ。


「この子はテオ。無愛想だけど根は優しいから、こわがらなくても大丈夫よ」


「は……はい……」


 テオ。


 わたしのテオ。


 大好きなわたしのテオ。


 幸せな夢の登場人物だったはずのあなたが、現実に存在していて、しかもめぐり逢うことができた。


 こんな喜ばしいことはほかにはないのに。


 夢と現実とのあなたが違いすぎて、まるで別人のよう。


 わたしのことを好きだと言ってくれたテオじゃないことくらいわかっている。


 夢のなかのテオは、わたしにこんなに冷たくしない。


 こんなことなら、出会いたくなんかなかった。


 テオは優しいままで、わたしの夢のなかだけにいてくれればよかった。

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