第三章 心像の塔にて(十七歳から二十一歳)
No.93
この世界に朝はなく、夜だけが続く。
この世界に植物はなく、荒野だけが続く。
この世界に雨はなく、土地は干乾び、全てが渇いている。
この世界に太陽はなく、暗い空に人工照明だけが輝いている。
白い塔がある。この塔は心に喚起されるための像を造る場所。そしてこの夢と記憶の大地により構成される、数多くの物語を管理する場所でもある。そして多くの「芸術家」が集う施設でもある。
この塔に続く道なりに、大小様々な石碑が並んでいる。それぞれ、この「妄想の世界」以外で死した人物達を称えた石碑である。彼らの業績が石の表面に刻まれている。
その人物達の業績・偉業・徳、等がこの塔で製作されている心像の設計図となる。
塔の周囲は、庭園になっている。この塔の付近だけ、植物は育つことができる。この塔は、夜だけが続く、暗闇に覆われたこの妄想世界にあって、唯一の地上の大型の光源の役割を果たし、そしてこの塔の真上だけに、雨が降るのだ。
この妄想世界に、終わりが近付き、この夢と記憶の大地に「戦争」が起こった。私、もしくは、私達は、この塔を調べるため、もしくは、この妄想世界の真実の姿を取り戻すため、この塔に来た。
この塔に入る前に、巨大な門を通らなければならない。この門から先は、その人自身が「約束」を有していなければ、入ることはできないこととなっている。そして、入ってしまったら最後、この心臓の塔の内部で言われるがままに働き続ける労働者となってしまう。その人物は、自身の心において、自由に思考・思惟することが不可能となる。これは(私)であっても同様である。そのために二人の証人を連れて来たのだ。
門には門番が居る。 彼は鎧武者のような格好をしている。槍を持ち、刀を差している。そして彼の顔は手鏡である。
私は彼に、私の連れて来た証人が入る許可、を貰わなければならない。
門番は言った。
「お前達はここに入りたいのか?」
私は答えた。
「そうだ。私はここに入るために、歩いて来た」
門番は言った。
「お前達、三人全員入るのか?」
門番の顔には私の顔が映っている。まるで私と会話している気分になる。私は私の考えが見透かされているように感じ、当初の予定を変更せざるを得ないと考えた。
私は答えた。
「いや、違う。俺一人だけだ」
門番は言った。
「お前は資格を持っているか?」
私は答えた。
「俺はその資格を有している」
門番は私の顔を映し続ける。鏡の中の私の口が開き、話す。
「よし、いいだろう。ただし、ここに入る前に、これから挙げる条件を承諾して貰わなければならない。分かったか?」
私は頷いた。そして門番に映っていた、私の顔が消えた。門番の顔が銀色の面に変わる。
門番は言った。
「よし。では第一に、この門を通ればお前は、この塔の所有物となる。そして第二に、この塔より生産される心像の当事者兼責任者となる。そして第三に、お前自身の記憶はこの塔の財産となり、お前の思考・行動は、この塔の管理するところとなる。お前には人生という物がなくなる。そして第四には、お前自身とは別の記憶、思考方法、をお前自身に植え付けることとなる。そして第五は、この塔を昇れば昇るほど、お前には、この夢の世界にとって、また現実のお前自身にとって、重要な仕事が与えられ、大きな荷を背負うこととなる。そして第六には、その昇った高さに比例して、お前自身の望みや願いも叶えられることとなる。ただし、塔を昇り切らずに、途中でお前の望みが叶えられた場合は、その場に留まることとなり、寿命が尽きるまで、塔から出ることはできない」
私は言った。
「つまり、何か、自分の望みが叶えられた場合、この塔に幽閉されたまま出られないということなのか?」
門番は答えた。
「そうだ。ただ、ここでの仕事で一生を終えるだけで、牢獄ではない。記憶や行動、それらを治めている精神や魂を所有する権利が塔に完全に移行しただけで、生き方自体は、自由に選択することができる。そして、現実での社会的地位も、配偶者も、富や名声も、どの程度この塔を昇ることができたか、によって保証されることとなる。まあ、なるべく高く高く昇ることだな。まあ、社会における名誉ある役職や、栄誉、名声、財産が、たかが塔に昇るだけで手に入るのだから、この中に居る人間は(門番は塔を指し示した)それだけで、人生の成功が決定付けられたようなものだ。まあ、高く昇れば昇るほど責任が重くはなるが、それに比例した社会的成功も約束されよう」
私は頷き、言った。
「分かった。……ちなみに、この塔に入って出て来た人間はいるのか?」
門番は答える。
「この塔から出て来た人間はいない。この夢の世界に、この塔が建設されてから、一度も」
私は考えた。それでも私はこの塔に入り、そして出て来なければならない。私はこの場所に来た時から決意していることがあった。それは、この妄想の世界、暗闇の世界、人物の在りようが破綻した世界を、終わらせること。そして、基の世界、即ち夢と記憶の大地を取り戻すこと。そのために、この塔を調べに来たのだ。
私はこの塔に入ることのできない、年少の二人に約束をする。
「俺は何年かかっても、きっとこの場所に戻って来る。それまでここで待っていて欲しい。どうしても証人が必要なのだ。俺は絶対に帰って来るから」
私は二人と約束をした。そして私は、この時から上を見上げることを止めたのだ。塔が高すぎるが故に。上へと昇る意志が、帰ることを困難にしているが故に。自分の足だけが、私の道を示すが故に。そして、この時の私は、まだ十七歳であった。
私は条件を承諾し、門番が差し出した書類に署名をした。
私はこの巨大な「心像の塔」の一階に入る。そして、入り口で待っていたロボットのような人物に、私は私の心臓を抜かれた。
それは脱走しないため、そしてこの塔から要求される命令に従わせるためのルールであった。
そして、この塔の当事者と成った私は、もはや生きている人間とは呼べず、生の象徴である心の臓器を取られ、影のような存在と成った。私には目的があり、私はこの妄想の世界を壊し、本当の夢と記憶の大地、そしてこの世界の太陽を取り戻さなくては、ならない。そして、今現在の妄想の世界の核を成している場所こそが、この心像の塔なのである。
仕方なかったとはいえ、私には不安もあった。門番によれば、この塔が建設されてから、ただの一度も、この塔から出て来た者はいないと言う。つまり、この塔に入った者は、心臓を抜き取られたまま、人生を影のように暮らし、この場所で死んでいったのだ。彼らは何故、この塔から出て来なかったのか? また、出て来られなかったのか? 私はそれを調べなくてはならない。
この頃の私は、自分の人生を悲観的に見ており、この先の道のりに希望のようなものは一切無いのだろうと考えていた。ただ、一つ決意していた事があり、それは人と競わないこと。つまり、人と競わねばならない時、私は進んで降りると決めていた。
塔の状況を早く調べ、すぐにでも出て行きたかったが、容易にはいかないことが分かり、半ば諦めた末の覚悟だった。
他の労働者はどうなのだろう? この塔から出る気はないのだろうか? この塔の存在を知り、意図的にこの施設で働いている人物は、皆、社会的な成功だけが目的なのだろうか? この夢と記憶の大地の荒廃に関して、何とも思ってはいないのだろうか? この妄想の世界に太陽が無いことを、どのように考えているのか? 彼らとて、或る程度の覚悟と約束を携えてこの塔に来たはずだ。この世界が将来どのような場所になるかは、予測できるはずなのに。
しかし、社会的成功だけが目的ではない人物も中にはいたはずなのだ。彼らは逸速く、この塔を出るつもりでいたはずではないのだろうか? この時の私は、おそらくこの塔が高すぎるためか、もしくは仕事量が格段に多いのか、または仕事が難し過ぎるため、何時まで経っても出られないのではないかと考えていた。
しかし、それは違ったのだ。仕事はさほど私には難しいとは思われなかった。多くの仕事は、極度の忍耐と、自己の抑制を要求されるが、それにしても思った程ではない。私の先の決意が必要だったのは、他人との競争においてであった。皆少しでも、高い場所へ、より高い役職へ向かおうと、互いに競い合っていた。ただそれは、今までで百人中百人がして来たことのように、私には思われたのだ。私は彼らに、「何でお前のような奴が、この場所へ来ているのか」等と言われながら、最低限の仕事だけこなした。それも、塔の要求する成果ギリギリの内容で提出し、何とか許可が下りるといった具合だった。
私はできるだけ、この塔で用いることができる思考方法を身に付けようと努力した。ここは、現実の世界ではなく、妄想の世界であるため、通常の(言語的)思考方法では駄目なのだ。多くの場合、抽象的思考、象徴的思考、場面記憶による思考、そして主観による意識構造の組み立て(意識のブロック的思考)、精神の立方体的思考、そして同時並列的思考、円環的時間思考、業的意志思考等が、(私にとって)役に立つ考え方であった。ただ結果としては、私が塔での労働の役に立つと思って鍛えてきたこれらの考え方は、私の思い込みに過ぎなかったと思い知らされることとなったのだ。
何故なら、これらの思考方法は、塔の推奨する思考方法とは、全くの逆の思考方法であったのだ。私は自らこの塔に入っておきながら、全く、この塔の遣り方に反した思考・行動をしており、結果として、この塔に居る誰よりも仕事ができなかった。そして一度も、この塔に居る他の労働者との競争に私は「勝った」ことがなかった。私は一番下の隅に追いやられた。そして全ての塔の労働者兼当事者達は、私を置いてどんどん上の階へと昇って行った。
私は落第者として、一番「どうでもいい」仕事を回されるようになった。ただ、それは塔の判断する「どうでもいい」事案であった。
この塔の中で一番栄えある仕事は、塔の名称の由来である、心像の製作である。そして次には、その心像が活躍する物語の製作である。しかし、塔の優先順位に納得のいっていなかった私にとっては、その「どうでもいい」事案の方が、とても私自身を楽しませてくれる仕事であったのだ。これは、とても苦痛を伴う問題の多い仕事であったが、今となっては感謝しなければならない。何故なら、私だけが、結果としてこの「どうでもいい」事案によって、この塔から抜け出す準備ができたのだから。
この塔の地下には、秘密があるのだ。私は、知った。この塔の地下には、深い、深い井戸のような穴が開いているのだ。地下の世界の入り口がある。誰もが、見なくなり、蓋をしてしまった意識・感情・記憶・言葉が在る。それらは、おびただしい程の量であったが、この塔では、すぐに利用できる解かり易い意識だけが、心像の材料の一部として使用されていた。つまり、心像の性格や思想を形成する基礎的な部品を、この地下から取り出しているのだ。
多くの報われない人生を歩んでいる人々の苦しみから生じる、わずかな希望を、この塔は奪い取り、大衆に売り捌くための商品の材料として利用している。私はその中でも、塔により「利用価値が無い」と判断された感情・思考・思想・哲学・概念等を調査、分析することをまかされていたのだ。これは当然、塔で使用する部品に成ることはなく、いわゆる一般向けではない意識(病的な意識)であった。
少し、具体的に仕事内容を記述する。
私がこの塔に来て、最初に課せられた仕事は、「記憶の一部を塔に預けること」と、「罪と定められている欲望を塔と共有すること」であった。
私にとっての重要な記憶である、「読書」が記憶された領域を、私はこの塔に預けた。この時以来、私は二年間程「本」を読まなかった。また、「学問」に関する情報も同様に預けた。これは「読書」の記憶を少しでも、自分の内に留めるためであった。他の労働者は「学問」の記憶はきっと避けただろうと思われる。また、この時以後、それらに該当する「情報」を記憶することは極力避けた(極力避けたというのは、私が現実には高校生であったため、「学問情報」が入って来ることを止めることが、私にとって不可能だったためである)。
そして、これまでの自分にはなかった、もしくはあまり意味が無いと判断されていた欲望を、塔と共有することについては、私は「小児性愛」と「性的倒錯」の概念を選んだ。
これは、比較的容易に情報が集められるうえ、罪の意識も比較的重い、と私は判断したからだ。罪の意識は(それが実行されていなくても)重く自らを捕らえること、のできるものでなければならない。何故ならば、罪の重さとは塔による労働者の品番、及び枷の役割をしているからだ。また、それが重い方が良いのは、精神に深く刺し込まれた欲や罪の意識は、塔の命令に対して、絶対的な意味を持たせることができるうえ、心像を製作する際の、罪の意識の材料としての、価値が高く成るためである。
そして、次に私に課せられた仕事は、第一に概念に対すること、或る種の解決不可能な象徴を、精神・身体の内に閉じ込めて置くこと。そして第二に(他人が閉じ込めていた)比較的理解し易い、共感を得易い概念や象徴、及び夢や記憶を整理したうえで、塔の管理下に置くことであった。
第一の仕事の具体的な、概念・言語・記憶や夢の内容は、詳しくは書かない。その多くは「負」の感情を伴うが故に、通常の塔の労働者達は、決してその意識を引き受けない、そんな内容であった、とだけ記しておく。
私は十八歳になり、そして十九歳になった。私は仕事に随分と慣れ、それなりの成果を挙げることができた。塔としてはこれで十分過ぎる働きだったのだろう。私は「報酬」を貰わなければならない、と圧力を掛けられていた。だが、私の居た場所は、依然として下位の場所であった。私は全ての報酬を断った。その頃には自分で、塔にとっての無価値な記憶・思想・哲学等を調べることを、勝手に遣り始めていたからだ。私はこの地下の世界に通じる、この場所を気に入っていたのだ。そして、この私の行動は、結果として塔の根幹に関わる事柄までも、私が理解してしまうこととなった。
そして、そのことは時間が経つにつれて、周囲に気付かれることとなり、私は塔からの「罰」を受けることとなった。
私には、常に数名の監視役が付くこととなり、私の感覚や神経が、今までのものとは異なるように、通常の思考ができないように、書き換えられたのだ。これは私の思考を大幅に遅らせるためであり、私がこれ以上、塔の根幹を調べられないようにするための処置でもあった。しかしこの時には、私はこの塔の大きな秘密を既に垣間見ていたのだ。私は時機が来るまで「罰」に耐えることにした。
二十歳になり、私の状況は悪化するばかりであった。仕事ははかどらず、そして、監視役は常に私の思考を検査し、妨害し続けた。
二十一歳になっても、何も変わらなかった。私には殆ど思考する機会も与えられず、同じ記憶、意味のない哲学、まだ奪われていない、また、奪う意味もない(使えない)意識構造の中で、同じことを繰り返す、それ以外に何もできない人間になっていた。
私は毎日、自殺することを考えた。他に生きていく希望がなかった。自殺だけが、この状況に捕らわれた、自分自身を救えるのだと、支離滅裂に成った脳で考えていた。