第十章 心臓舞台における(私)と私
No.100
物語は終わった。
この劇場はまもなく閉鎖されることだろう。(私)の語り部としての役割も終わる。
通常の目から通した、この舞台上の様子を記すことにする。
(彼女)が閉じ籠もっていた立方体は、床に落ちて粉々に砕けた。立方体を支えていた長い軸は、座り込んだ(彼女)の隣で転がっている。
そして、(彼女)の後頭部に在った方錘形は、元の色を失くし、透明なピラミッドのように成っていた。透き通っており、(彼女)の存在の内部が見えている。
(彼女)は知恵を失ったように見え、ぼんやりと前を見ている。長い間閉じ籠もっていたからなのか、立ち上がる気力もなく、一言も言葉を発することもない。
(私)は、通常の目を取り外すことにする。
(彼女)が、使用して来た、小さな舞台と人形は、床に落ちて、散乱している。
そして、(彼女)の存在が崩壊していく。
そして、(彼)の存在も崩壊していく。
そして、(私)の存在も崩壊していく。
白く何もない(彼女)の身体が透明になっていく。
吐しゃ物のような(彼)の身体が透明になっていく。
青色の服を着た(私)の身体が透明になっていく。
(彼女)には、何も認識できないようで、(彼女)に目は無いが、何処か遠くを見ているようにぼんやりとしている。
(彼)は苦しんでいるように、人間の腕を模した触手が、虚空を掴んでいる。
(私)も思考がぼんやりしてくるのを感じる。身体が消えていくのが見える。
(彼女)は、(彼女)なりに感じ入る所があったのだろう。肩を震わせている(彼女)は、泣いているように見えた。
幅三メートル程の(彼)の身体から、幅五十センチ程の口が現れた。その巨大な口から、唸り声、咆哮の様な、断末魔の叫びの様な声が、劇場に響いた。
取り外した(私)の二つの目からは、涙が溢れ、(私)の感情を示しているように見えた。
どことなく、(彼女)の動きが鈍くなる。
どことなく、(彼)の動きが鈍くなる。
どことなく、(私)の動きが鈍くなる。
客席に居る私は、どうなるのだろうかと見ていると、その後、数十分をかけ、ゆっくりとその存在が消滅していった。
そして、客席に居る私とこの二人は、約束のための証人となった。
私は、この結末を知らなかった。
十八年前に私は、別の結末を思い描いていた。
『高校生であった私は、怒りと憎しみで、この空間、及び彼女を殺すつもりでいる。
この空間を殺すことは、私において、自殺をすることだ。
何故私が、彼女を憎んでいるのか?
繰り返される、無意味な会話。
欲望に根ざした、無意味な物語。
この空間に溢れている、嘲笑と、罵倒と、悪意。罵詈雑言や、野次を飛ばす、客席の人々。
私は、意を決して、立ち上がり、透明な立方体を力任せに壊し、彼女の頭部(方錘形)を潰す』
ただ、本当にこのようになっていたなら、私だけの物語として、決して文字に記されることはなかったであろう。私は、私自身の身体を傷つけ、自殺することで、二度とこのような、空間に係わることのない状態になるからだ。
そのような意味においては、この物語の現在の結末は、私自身、そして、私達観客のための物語と言えよう。
世界が在り、約束された事柄が在る。
心が在り、決められた筋が在る。
道が在り、定められた人が歩く。
言葉が在り、決められた時に語られる。
(私)も(客)も(舞台)も(物語)もそこにはなく、ただ法だけがあった。
現れた法は、私の知っていた世界を塗り替え、この世界にとっての新しい真実と成った。
この新しい真実は、きっとあの白い女の世界をも、超えることができたのだと思った。私の目には、それが新しい発見と映ったのだ(古くから在る法であるのに)。
もう、特殊な脳内映像は要らなくなったのだ。
もう、特殊な状況も状態も、消滅してしまったのだ。
もう、私の心臓舞台に、(私)と(彼)と(彼女)は居なくなった。この劇場で、特殊な舞台が上演されることは、もうあるまい。
私は、素直に、この空間を壊さないで良かったと思っている。
そのような意味においては、この物語は、あなた方の物語であるのだろう。
あなた方、客席に座って観ている人々は、特殊な目を持たないが故に、私の言葉以外から、この舞台上で起こった出来事を知ることはできない。
あなた方の目には、ただ、舞台上の人物達が消えただけ、に映るであろう。
ただ、この結果によって、私は、私の心臓の管理人と成ることができ、私の身体を従えることができた。
私は、私の身体の一部を不法に操られて来た。その人々を追い出し、そして、彼らにとって相応しい結末へ導くことができた。
人は、誰かの身体・精神に寄生すべきではないし、また、その人の如何なる記憶情報をも、奪うことをしてはならない。また、記憶を操ってはならない。
これらの世界は、身体にて起こることである。よって幻想ではなく、またそのような意味において、小説でも、文学でもない。これらは、創られた脚本ではなく、芸術などと呼ぶべきではない。
人は、自己と法だけを頼りに、生きるべきなのだろう。
他人に、自身の道を支配させてはならない。他人に、自身の荷を背負わせてはならない。あくまで、自分自身の道を歩き、他人の記憶を奪ってはならない。他人の知恵を盗んではならず、使用してはならない。
自身の名において記した物は、自身の内に責任の所在を置け。
自分や他人の意志を信用してはならず、如何なる言説も、いずれは壊れるべきものに過ぎないと知るべきである。
私は、私の居るべき位置に戻ることにする。
私は、男であり、父である。
私はこの作品の作者であり、作品は、私の精神で育ち、私の血によって書かれている。その意味においては、私はこの作品の父であり、よって性別は男である。
私は作家であり、この道は私の正道である。
作品を書くことは、私の作家としての仕事であり、作品は、私の知恵より生じ、私の記憶により構成されている。そのような私と作品の関係においては、私自身が、己の目的のためにこの仕事を選び、自己の認識によって文学表現として記している。自己を正しく認識することにおいて、私は私の正道を歩いている。
この作品に描かれた、幻覚や夢は、本当は、私が特殊な意識だから、このように見えるのではなく、この物語自体は真実なのである。そして、この物語は、私の身体・精神における真実である、と私の意識に認識されていることが、私がこの心臓舞台で、作品を創ることが許されている理由でもあり、また、一冊も自著が出版されていないのにも関わらず、自らを作家と名乗っている理由でもある。
この、私の意識から、飛び出した作品は、四つの形をとっている。
一つは、心臓舞台での出来事(第一章、第十章)
一つは、夢と記憶の大地での出来事(第二章、第三章、第四章、第九章)
一つは、彼女の有する舞台での出来事(第五章、第六章)
一つは、作家の病と夢の出来事(第七章、第八章)
この作品の主人公が、果たして私かどうかは、定かではないが、あえて言うなら、彼は、私の作家としての良心である。
私は、私が正しいと認識したものを、言葉にして、この場所に記しておきたかっただけだ。
『心臓舞台』終わり
参考・引用
『阿含経典(一~三巻)』
増谷文雄編訳 ちくま学芸文庫
『ツァラトゥストラはこう言った(上・下)』
ニーチェ著 氷上英廣訳 岩波文庫
『ツァラトゥストラはこう言った(上・下)』
ニーチェ著 丘沢静也訳 光文社文庫
『新約聖書 福音書』
塚本虎二訳 岩波文庫
『悪霊(上・下)』
ドストエフスキー著 江川卓訳 新潮文庫
『カラマーゾフの兄弟(上・中・下)』
ドストエフスキー著 原卓也訳 新潮文庫
『ブッダのことば―スッタニパータ―』
中村元訳 岩波文庫