-異変の片鱗-
翌朝、一樹は居心地の良い布団の中からなんとか這い出ると、寝不足でいまいちハッキリしない頭を抱えた。昨日、床につく前に見た時計の針が2時を指していたことを思い出しては体のダルさに納得する。
言うことを聞こうとしない睡眠不足な体を引き吊りながら、未だ現実へと戻りきらない思考へ活を入れるべく、部屋を出て洗面所へと向かった。
ガチャリと洗面所へ通ずる扉を開けて、程よいソープの香りと熱気に包まれながら正面の洗面台へ向き合おうとしたところ、
「え?」
声を発したのは一樹ではなく、向かい側で今し方シャワーを浴び終えた下着姿の美波だった。
「あ……れ?」
一樹は何が起きているのか理解に苦しむ余り、思わずそのまま暫く硬直してしまう。
一方、向かい側では美波がフルフルと肩を震わせ、怒りが込み上がっていく様子が見て取れるようである。
「いつまでそうしてんのよ!」
そう言うと、一樹の腹部へ真っ直ぐキレのある蹴りを入る。
「ぐぉっ」
クリーンヒットした一樹は、勢いのままに洗面所改め脱衣場から放り出されては、壁に打ちつけられ廊下にペタリと座り込んだ。
すぐさま扉を閉めようとする美波は、閉まりゆく隙間から冷ややかに一樹を見下ろす。
「サイッテー」
扉はバタンッと凄まじい音をたてながら勢いよく閉められた。
お陰でハッキリ目が覚めた一樹は、座り込みながら深いため息をつくと後頭部を掻いた。
「こりゃやっぱ、前途多難だわ」
その後、顔を洗い終わった一樹は朝食にありつこうとリビングへのテーブルに座っていた。
昨晩の話し合いの際、美波自ら「お世話になるんだし、最初は私がするわ」と言っていたことから今朝の美波の料理を楽しみにしていたのだが、自身の前に置かれるのはご飯が盛られた茶碗一膳のみである。
対して美波や瑞穂のテーブルには、美波お手製の色とりどりに飾られた小皿たちが綺麗に並べられてあった。
「あの~、美波さん? 俺の朝飯は……」
「あら、有るじゃない目の前に、白ご飯が」
美波の『白ご飯』の言葉には妙な力が入っている。
もしかしてオカズならさっき提供したとか言うんじゃ……と、一瞬考えを巡らすが勿論口には出さない。
言ったが最後、それは後世に継がれる程の取り返しのつかない過ちを残しかねないだろう。
「でも、ほらアレだね。美波ちゃん、スタイル抜群たがら一樹もちょっと見てみたくなったのかな」
ここに来て、瑞穂の言葉は全くフォローにならない。
一樹にとっては現状で唯一助け舟を出せる存在だったのだが、瑞穂の言い回しではまるで意図して覗いたみたいである。
望みを絶たたれた一樹はガックリと落胆した。
しかも追い討ちを掛けるように、それを鵜呑みにした美波が胸を隠すように腕を組んで見せるとジトッと一樹を睨みつけていた。
「いや、断じてわざととかじゃないからな! そりゃ、寝ぼけてた俺の不注意なんだが……」
一樹が精一杯身振り手振りを交えながらジタバタ言い訳していると、言葉半ばにしてガシャンと豪快な音と共に小皿が盛られるトレイが目の前へと置かれた。
「……て、あれ?」
「分かってるわよ、そんなこと。もしわざとだったら、こんなので済むはず無いじゃない」
美波がそっぽ向きながら、仕方なく譲歩してあげると言わんばかりに一樹の分の料理が与えられた。
ホッと胸をなで下ろす一樹に、再び美波が向き直っては睨みつけながら人差し指を立てる。
「でも、今回だけは特別たがら。もし、次があったらその時は……」
美波のキラリと鋭く光る眼光に、一樹は思わずゴクリと生唾を呑み込んだ。
恐らく次は意図的だろうが偶発的だろうが、そんなことはお構いなしに手痛い罰が待ってるに違いない。
加えてこの形相、恐らく今度は空の彼方まで蹴り飛ばされるんじゃ……という迫力である。
「これは!」
しかし、目の前に置かれた料理は、そんな思考を払拭する程の鮮やかで見事なものだった。
朝を考慮してか、献立は胃に負担を掛けないものがチョイスされており、それら、ほうれん草のお浸しの深い緑色や、卵焼きの明るい黄色、筑前煮に使われる目を引く赤らが透明な小皿へそれぞれ盛られて色鮮やかに配置されている。
加え、真ん中へ添えられる大皿には、これまた鮮やかな鮭が置かれ、隣には紫蘇にしかれた少量の明太子と、蓮華の上へ乗せられたら豆腐が添えられてある。
食器の選出も実にオシャレで、家にこんな食器があったんだと驚かされた。
「じゃ、いただきます」
まずは、筑前煮へと箸を掛ける。
蓮根を口へ運ぶとその柔らかさ、味の染みぐあいに驚かされる。
甘辛く程よい味わいでちゃんと蓮根本来の味も損なわない、実に絶妙な味付けである。
思わず目を見開いた一樹へ、瑞穂が嬉しそうに反応した。
「でしょ?凄く美味しくって、言葉も出ないよね」
言われる通りである。
そんな賞賛する2人へ、美波が照れ隠しなのか、呆れるような仕草とる。
「言い過ぎよ。まぁでも、一応ノアで厨房を預かるってる身だからね」
ノアはそのコンセプトから献立は洋食全般であり、その中でもパティシエを目指す美波は主にデザートを担当している訳なのだが、美波の作った和食はその応用品という訳でなく、まさにセンスが成せる技であった。
一樹は、瑞穂の洋食と美波の和食のジャンル選ばない逸品達に自身の当番のことを考えると思わず溜め息が漏れた。
「な、なによ、何か不満でもあるの?」
それに過敏に反応する美波が強がりながらも恐る恐るに伺ってくる。
勿論、一樹に不満などはさらさらなく、返す言葉は一つである。
「お前の料理が旨すぎるんだよ」
「なによ、それ」
一樹の言葉にぷいっと顔を背けた美波は、そのまま表情を隠すようにして、自身の作った料理を頬張っていた。
その後朝食を終え、3人揃ってノアへと通勤途中、道中の列車の中では瑞穂と美波がキャッキャッと女の子会話を繰り広げている。
2人とも気が合うのか会話は止むことを知らず、勿論一樹が入れる余地などはない。
ただ2人の側についているだけの一樹だったのだが、周りはそんな一樹へ疎ましい視線を向けていた。
なにせ瑞穂も美波も目を引くほどの美貌の持ち主であり、その2人が一緒にいるのだから、辺りへ漂う華やかな空気はまさに常軌を逸しているのである。
男性のみならず女性にすらその目を奪い、通り過ぎた後に振り返るほどであった。
そんななか、2人について回る一樹は他者にとって邪魔の何者でもない。通り過ぎる間際に聞こえるよう舌打ちされることなど、いい加減、慣れてきている程である。
勿論、それを差し引いても一樹にとっては得意なことなのだが、それは想定以上な疲弊を強いられるものでもある。
最寄り駅に着くと、美波が一緒に出勤する事について提案があった。
「さすがに、いきなり3人揃って出勤するのは違和感があるかもね」
とのことである。
それを承諾した一樹が、1人でしばらく待機した後にノアへと向かっている。
すると先程、同じくして通勤途中であった和哉に声を掛けられた。美波の意見に賛成していたことに内心胸を撫で下ろす。
「俺さっき朝から良いもの見ちゃったんだ」
得意げになっている和哉だったが、一樹には和哉が上機嫌になるだいたいの予想がついていた。
おざなりに相槌を打つ一樹をお構いなしに、和哉はいつもの調子で話を続ける。
「なんと、あの香月美波と瑞穂ちゃんが一緒に歩いてたんだぜ。あの2人が揃って一緒に居ると、なんて言うか、もう周りの空気が変わるっていうか。あぁ、一度でいいからあの間に入って両手に花、いや寧ろ両手に宝石状態を味わってみたいよ」
予想通りの言葉に思わず苦笑いする。
和哉の言う両手に宝石が、それではただの金の亡者になってしまうことは言わないでおいた。
勿論、少し前まで自分が両手に花を持っていたことも。
ただ、両手に身の丈に合わない花を持つあまり、何も出来ずに右往左往だけして正にその手に余らしていたのだが……。
和哉と共に店へと入り、早々に身支度を整えホールへと出る。
既に瑞穂が昨日の見様見真似で開店の準備へ取り掛かっており、数十キロはある奇抜なチェアをテラスへ運ぼうと四苦八苦していた。
それを見つけては、急いで瑞穂の元へと駆け寄っていく。
「大丈夫か? 悪いな、いろいろ先にやって貰って」
「ううん、昨日の見ただけだから、後からチェック宜しくね」
「ああ。それより……」
一樹が椅子に手をかけてグッと力を入れて持ち上げる。
普段一人ではなかなか動こうとしない頑固な椅子をストレッチしたあとに勢い任せで運ぶのだが、今日は2人掛かりで運んでいる為か驚くほど軽く感じられた。
それは余りに軽過ぎて違和感を覚える程だったのだが、今は開店の準備も忙しく一樹はとりあえず気にしないでいた。
「重かったろ。店長がどこだかの民族から譲って貰ったらしいんだが」
「う、うん……、さすがレイコさんだね」
一樹の知る限りあまりネガティブな感情を表に出さない瑞穂なのだが、さすがにこの理解不能なアイテムには表情を一瞬曇らせていた。
その後、瑞穂と共に残る開店準備を分担して済ませてはノアはいつものようにオープンを迎える。
しかしその日はいつもと違い、普段であれば瞬く間に慌ただしくなるはずなのだが、珍しくも客入が少なく、いつも戦場を切り盛りする従業員達は余裕があるどころか各々暇を持て余していた。
一樹も缶コーヒー片手に店の外へと出ると、晴天に晴れ渡る真っ青な空を見上げながら一息つくことにする。
「たまにはこんな日もないとな」
こっちの身がもたないよと考えながらゆったりと流れる時間を缶コーヒーと共に味わっていると、店の前でウロウロしている女の子を発見した。
小学生の高学年ほどか中学生ぐらいではないだろうか、長い髪の毛を左右にくくっており、歩く度にその髪がピコピコと上下するのが可愛らしくて目に付いた。
女の子は物欲しそうに店を見上げると、扉の前まで行ってノブへ手を伸ばすが、開けないままにまた同じ位置へと帰ってしまう。
そんな動作を一樹が確認しただけでも既に3度も繰り返していた。
有名店だけあり、小学生くらいの子がちょっとした背伸び気分で訪れるケースは少なくはない。
その多くは多人数で来たりするのだが、単身の場合はどうにも敷居が高いのか、同じように迷っている光景を時々目にしたりするものである。
「店、入る?」
普段であれば声を掛けたりしないのだが、その日は余裕もあってか、ちょっとした親切心のつもりで声を掛けてみた。
「…………」
女の子は何も答えずに一樹を鋭く睨み付けると、そっぽを向いて走り去ってしまった。
素っ気無い反応に、やはり要らぬお節介だったなと慣れない親切心を恥じて、まだ残っている缶コーヒーをゆっくりと飲み直すことにした。
缶コーヒーを全て飲み干した頃、気がづくと女の子が再び戻って来ており、また同じように店に入ろうと躊躇していた。
それを見ては、先程は素っ気無く避けらた一樹だったのだが、逆にどうしても店へと招き入れたくなってくる。
しかし、同じ様に声を掛けては先程の二の舞である。一樹は良い案が思いつき、女の子と店との間に割って入った。
女の子はそんな一樹の行動に気がつきながらも、やはり気にかけようとうはしてこない。
しかし一樹も女の子が自分に気がついたことを知って、なんとその前で自分の財布を落として見せる。
そうしてそのまま店の扉の前へと移動しては、困ったフリを装い、これ見よがしに財布を探して見せた。
「ちょっと、落としたわよ」
狙い通り、女の子は財布を拾い上げて一樹の前へと差し出してくれる。
「おお、これはありがとう。ぜひ、おれいになにかたべていかないかい?」
絶妙なタイミングで決定的なセリフを言うつもりだったのだが、なにぶん慣れない演技では、そう都合よくセリフ回しをカバーすることは出来ず、居た堪れない不自然感を醸し出してしまう。
「なんなの? ナンパ?」
「ナン……!」
もしかすると、十ほど歳が離れているかもしれない相手にナンパなんか……と思ったのだが、今の状況ではどう見てもソレと大差ないことに気がついて、思わず言葉に詰まってしまう。
動揺を深呼吸でなんとか鎮めると、気を取り直す為にコホンと咳払いをする。
「良かったら、なんか食べてくか?」
一息おいて、今度は自然に言葉が出てくれる。
すると女の子は、少し照れくさそうに頷いた。
「そ、そこまで言うなら、仕方ないわね」
女の子と一緒に店内へと入ると、席へと案内してメニューを差し出す。
「なんでも頼んで……」
どれでも構わないつもりでメニューを手渡そうとしたのだが、良いタイミングで目の前を美波が通りかかった。どうやら、厨房の方も手透きらしい。
「香月」
慌てて美波を呼び止める。
「良かったな、イイものが食べれるかもよ」
渡しかけたメニューを引っ込めて、女の子へちょっと待つように合図すると、美波の方へと駆け寄っていく。
「どうしたのよ、いきなり」
「時間あるだろ?」
「まぁ、この状況だからね」
お手上げと言わんばかりに美波は両手のひらを見せた。
「一つお願いしたいことがあるんだ」
そう言うと、一樹は美波へある頼み事をした。
美波への依頼を終えテーブルへと戻ると、女の子はソワソワと物珍しそうに辺りを見渡していた。
「どうだ? 中もそこそこのもんだろ?」
「ま、まぁまぁね」
「悪いけど、メニューはこっちで決めさせて貰ったわ」
「別に構わないわ」
「損はさせないから、期待して待っててくれ」
あまりサボってばかり居られないと、一樹は女の子のテーブルを一旦離れて、一時業務へ戻ることにした。
それからしばらくが経ち、一樹はメニューが出来上がるタイミングを見計らっては、瑞穂が品を運ぶ一足先に女の子の居るテーブルへ戻ってきた。
「待たせたな」
「別に」
未だツンツンしている女の子を尻目に、注文の品を運んできた瑞穂を向かい入れる。
瑞穂は親しげに話す二人を見て目を丸くしていた。
「知り合いなの?」
「いや、ちょっとそこでね」
「ナンパされたの」
「え? ナン……!」
瑞穂が女の子の言葉に驚き、言葉を詰まらせながら見開いた目で一樹と女の子を交互に見る。
瑞穂が言いたいことは、一樹にも痛いほど分かったが、生憎この件について理由を述べる術はなく、額へ手を当てこめかみを揉むことぐらいしか出来ない。無論、弁解の余地などない。
「どうぞ、ご注文の品です」
瑞穂は仕切り直して持って来た品をテーブルへそっと置くと、まるで海中の海老のごとく音も立てずにササッと後退ってはそのまま姿を眩ました。
昨日の店長のことといい、瑞穂に自分がどう映っているいのか疑問に思うところだが、とても聞く気にはなれない……。
気を取り直して女の子の方を見ると、今まで無愛想だった表情を破顔させて、目をキラキラと輝かせている。
それ程までに瑞穂が運んできた美波の力作は、女の子の心を鷲掴みにしたようだ。
「さぁ食べてみてくれ。うちのパティシエール自慢の品だ」
女の子が形を崩さぬようスプーンでそっとすくって、そのまま口の中へと運ぶ。
一瞬目を見開くと、出会ってこの方堅く強ばっていたその顔に遂に笑顔が灯った。
それを作ったのはまさしく美波の力なのだが一樹まで嬉しくなる瞬間である。
そんな一樹の視線に気付いてか、女の子はコホンッと咳払いをすると、慌てて何事も無かったかのように元の澄ました表情へと戻した。
「ま、まぁまぁね」
どうやら女の子が使う『まぁまぁ』とは、一樹が思っている以上に上等な表現であったらしい。
「なによ」
未だにこやかな表情の一樹が気にくわないのか、女の子が突っかかってきた。
「なんでもないよ。まぁ、ゆっくり堪能してくれ」
一樹は徐々に混み合ってきた店内の様子を見て、もう少し女の子の破顔する様子を見ていたかったのだが、後ろ髪を引かれる思いで席を立った。
「………とう」
「え?」
「あ、ありがとうって言ったのよ」
女の子のこれまでの様子から、まさか『ありがとう』の言葉が聞けるとは思いもよらなかった為、思わず目を丸くしてしまう。
そんな一樹の反応を見て女の子は、照れくさそうにそっぽを向くと口を尖らせた。
「外の人に優しくされたの、初めてだから」
女の子の言い回しには少し違和感を感じたが、それ以上に素直に感謝されたことが嬉しかった。
「今度は一人でちゃんと入れよ」
一樹は、去り際にポンと軽く女の子の頭を撫でる。
「うるさい!」
女の子は撫でる手を振り払おうとしたが既にそこに手はなく、少し離れたところに居た一樹はバックヤードへと向かう後ろ姿のまま女の子へ向かって二度手を振ると、忙しなくなってきた従業員達の中にその姿を消した。
その後、今までの客入りが少なったことの帳尻を合わすかごとく、ドッと客が押し寄せて店内は一気に大盛況となった。
すぐにまた女の子のテーブルへ戻るつもりの一樹だったが、その後の忙しさは途切れることはなく、一段落ついた頃にはテーブルから女の子の姿は無くなっていた。
「あそこのテーブルの女の子、いつ頃帰ってった?」
「あの子なら、もう結構前に帰ったよ」
「そっか……、あ! そういや、代金は?」
瑞穂の答えに、女の子の代金を自分が肩代わりするつもりだったのことを伝え忘れて思わず慌てた。女の子へカッコつけたことを言っておきながら、代金を支払わすなんて。
「あ、それなら……」
「あんなのでお金なんか取れるわけないじゃない」
瑞穂が答えようとしたところに、背後から美波が割って入った。
「メニューにも載っていない、ただの私のオリジナルなんだから」
「香月、ありがとな。あの子、すごく喜んでたよ」
「そ、そう、良かったわ」
試作品というだけあってか、素直な感想に美波も安堵しているようだった。
「でも、あんたには一つ貸しだからね」
「ああ、分かってる。ちゃんと返すさ」
「それと、自分の名前くらいちゃんと伝えときなさいよ。礼儀でしょ」
「え?」
美波に叱られたことが何のことかと検討つかずにいると、今度は瑞穂がそれについての補足をした。
「あの子、帰る時に一樹の名前を聞いて行ったんだよ。あと、また来るって伝えて欲しいって」
「そっか」
一樹は、瑞穂の前でそれを伝えようと、恥ずかしがりながら四苦八苦していたであろう女の子の姿を想像すると、思わずニヤリと表情を緩めてしまう。
ちゃんと、1人で入れよ…と、心の中で呟いた。
「良かったわね、ロリコン君」
そこへ美波が、ここぞとばかりにトゲのある言葉に、いつか見せた最高の笑みを一樹へ向ける。
普段滅多に拝めない贅沢な笑顔だけに、この場では逆に刺すように痛い。
加え、既に事態が自分の好みがロリコンであるとまで飛来している現状に、何とか反論しようと言葉を探すが、やはりこれまた、このことに関しては弁解の余地はなかった。
一樹が諦めて項垂れると、突然その頭上に大きな影が落ちてきた。何事だ?と見上げたそこには、ハンカチの角を悔しそうに噛みしめるレイコの姿があった。
「キー、何なのよそのクソガキ! 私のイックンにっ」
レイコのただならぬ様子を察知して、一樹は美波と瑞穂へ救援のアイコンタクトを送るが、美波は体の向きを変えると厨房へと立ち去って行き、瑞穂もにこやかに一樹へ手を振っては立ち去って行く。
「アイツら……」
恐らく楽しんでいる。
もしかすると、女の子の話の下りから計算されていたのかもしれない……と、頭を過ぎった。
「分かったわ! だからイックンは、私がこんなにアプローチしているのに素っ気なかったのね」
いや、それ以前に……と、口に出そうになったのを慌てて飲み込む。恐らくその言葉は逆効果である。
「こうなれば、私自身が言葉の如く一肌脱いで、大人の女性の魅力を伝えるしかないわね!」
厳密には女性ではないのだが……。
というか、当人の好みを塗り替えるほどの何かとは、想像してみただけで悪寒が走る。
レイコは左右の両腕を大きく広げると、一気に一樹へ掴みかかった。
体勢を低くし、間一髪のところをなんとか回避した一樹は、今とばかりにそのまま廊下の奥の方へと走り去る。
「店長、今また忙しくなってきたみたいなんで、俺も行ってきます」
「んもぅ」
レイコは、そそくさをホールへ戻る一樹の後ろ姿を見ながら、悔しそうに二の足を踏んでいた。
−−−−−−−−−−−−−−−−
一方、ところは変わり。
女の子は、整った優しい顔立ちの男に手を引かれながら、無機質な白い壁に包まれた廊下を抜けて、その先にある大きな鉄の扉の前で立ち止まった。
男が扉の右側のセキュリティーボックスを開けると、中にあったセンサーに右手首を載せる。
ピッピッと短く電子音が鳴ると、続けて横にあるテンキーでパスコードを入力して、今度は断続的な電子を響かせた。
少しして、大きな鉄の扉が豪快な駆動音と共に左右へと開いていく。
「沙奈、もう勝手に外に出たりしたらダメだよ」
「だって、ここつまんないもん」
沙奈と男は、開いた扉の奥へと進んで行く。
そこには、だだっ広い真っ白の部屋の中に2つの机と大きな薄型テレビが設置されている。
ただ、それ以外に物はなく、廊下と同様に白を貴重にした無機質感なレイアウトは、酷く冷たさ感じさせた。
「あ! お姉ちゃん。もう、どこ行ってたの?あんまり、慎を困らせないでよ」
部屋の隅にある2つの机の片方に向かって座っていた女の子が、沙奈と共に入って来た慎へ寄り添い腕へしがみついた。
「ただいま、梨奈」
慎が部屋の中から出てきた梨奈の頭を撫でる。
「とってもオシャレなとこに行って来たんだから」
そんな寄ってきた梨奈に対して、沙奈が自慢気に胸を張って見せた。
「もしかして、お姉ちゃんが前に言ってたあのカフェのこと?」
「そうよ」
「いいな、いいなー。ねぇ慎、今度2人で行こうよ。次は、お姉ちゃんが留守番なんだからね」
「いいわよ、勝手に2人で行ってきたら。私には慎よりイイ人が居るんだもん」
沙奈の予想外なシレッとした反応に、梨奈はムゥッと頬を膨らませた。
「なにそれー、誰?誰のこと?もしかして、外で出会ったの?」
「まぁね。……ち、ちょっと馴れ馴れしいヤツなんだけど」
沙奈は、恥ずかしそう顔を赤くして口を尖らせた。
「えー! どういうこと。慎、絶対行こうよ、約束だよ。その人、見に行くんだから」
駄々っ子のように騒ぐ梨奈に慎は思わず苦笑する。
しかし慎は、沙奈の方へと顔の向きを変えると、その表情を強ばらせた。
「沙奈、君の力はまだ安定していないんだ。もし、その力が暴発でもすると、他の人、その人にだって危害を負わせてしまうかもしれない。約束してくれ、その人が気になるかもしれないが、もう勝手に外に出るようなことはしないって」
慎の叱咤の言葉に、沙奈はシュンと小さくなって元気なく頷くと、小さな声で呟いた。
「分かってるよ、それくらい……」
それを見て、慎が沙奈の頭を撫でる。そんな慎の行為に気を良くしたのか、沙奈はパァっと表情を明るくさせると、元気良く顔を上げた。
「でもね、みんなの役に立つ事もしてきたんだよ」
慎は沙奈の言葉に不思議そうに耳を傾ける。
「私ね、ノエル能力者を見つけたんだ!」