-過去の記憶-
それは数時間前のこと…
-18時20分
「頼む!一生のお願い!!」
目の前で手を合わせて頭を下げる姿勢だけは直向きだが、全身を流行物で着飾り如何にもカルく見える友人の高山 和哉の『一生』が、何度目の転生分に当たるものなのか分かったものではない。
「いいか、今日は棚卸しなんだぞ」
「だ・か・ら、一生のお願いなんじゃない。俺がどれだけこの日を待ち望んでいたのか、一樹なら分かってくれるだろ」
和哉の言い分は、かねてより気になっていた同僚の香月 美波とこの度ようやく食事へ行く事になった為、今夜の棚卸しを1人で頑張って欲しいというもの。
もちろん、緒方 一樹にとっては何のメリットもない訳であり、それどころか明日の仕事中はきっとその話を永遠聞かされ、ウンザリしているのが目に見えている。
しかし、既に一樹は出勤してからこの方、和哉がいかにして美波と食事にこぎつけたかという話から、美波が元より自分に気があるのは知っていたといったある事ない事まで散々聞かされ、そのあまりに話し込む姿が仕事に差し支えていると他の従業員から白い目で見られ出したことから、寧ろ棚卸しを1人で行った方が幾分楽なのでは? と気さえしていた。
極めつけは、これ程高ぶっている彼を例え引き止めたところで、きっとぼやき続けて戦力にならないのは明白なのである。
一樹は溜まらずハァと力なく溜息を吐き漏らした。
「わかったよ」
「ホントに! ィッヨシ!! お前はまさに恩人だよ」
「いいか、 これは貸しだからな」
「分かってるよ、上手くいった暁には美波に女の子を紹介してくれるように頼んでやるって。お互い女日照りがながいからな」
和哉はうんうんと頷きながら、調子よく一樹の肩をポンポンとテンポ良く叩く。
「期待せずに待ってるよ」
その『上手くいった暁』が未だ成就された試しがないことについて、一樹はあえて口には出さないことにした。
程なくして、休憩室へホールより入ってきたヘルプの声に先に休憩していた和哉が応答すると、足早に身支度を整え始める。
そうして控え室から和哉が出て行く間際、和哉は扉の向こう側から首だけをひょっこり出して、休憩室に1人残った一樹へ軽快なウインクを残していった。
一樹は全身へいたたまれない不快感を走らせ、思わず身震いしてしまう。
「こりゃ、今回もないな」
勤務先であるカフェ『L'arche de Noe( ラルシュ ドゥ ノア )』は、地域では名の知れた有名店であり、シックで落ち着きのある開放的な空間をコンセプトに老若男女問わずに人気のあるお店である。
その内装は、コンクリートの打ちっ放しの壁と高い吹き抜けの天井といった癖のない造りで、家具や食器具に至ってもシンプルでいながらそこはかとなくデザイン性のある物が揃えられてある。そこかしこに抜け目のない徹底した配慮が施さられているのだ。
そのせいあって、つい先日もある情報誌の『行きたいカフェ調査』でランキングで上位を取ってからは更なる盛況ぶりで、時に数時間待ちの長蛇の列が出来る程である。
ついては今の時間帯、帰宅途中の学生や会社員が相まってひっきりなしに迎えることになる為、しばらく店内は忙しさを殺気に変えた猛者達の戦場と化していた。凡ミスを犯そうものなら、それこそ本当に殺され兼ねない雰囲気である。
午後から出勤している一樹は、束の間の休憩のなか和哉を見送った後、缶コーヒーを飲み干すと続いて戦場へと赴いた。
既に廊下では従業員達が絶えず行き交いしており、これみよがしに慌ただしさアピールしている光景は、休憩上がりの一樹を早速滅入らせた。
「あっ」
突然、背後より発せられた聞きなれない女の子の声に振り返って見ると、そこには白い調理服に身を包んだ噂の美波が口元を押さえながら立っていた。
その整った容姿に一樹は思わず視線を空へと逸らしてしまうと、誰かと間違ったのかなと思いながらも無言で会釈する。
一方、美波もそんな一樹へ無言で会釈を返した。
普段からロクに会話をする機会もない2人は、挨拶という最大限のコミュニケーションを済ませてしまうとお互い目的の場所へと向き直ってしまう。
美波は一樹達が働くホール側とは違い、正反対側にある厨房の方へと向きを変えると、忙しなく小走で去って行った。
主に厨房でケーキなどのデザート全般を担当している美波にとって、一樹達ホールスタッフとの接点は少なく、よって一樹にとっても彼女の情報といえるものは2つぐらいしかない。
1つは、一流のパティシエールを目指しており、このラルシュドゥノア(通称ノア)で修行しているということ。
もう1つは、言わずと知れた美貌の持ち主であり、巷でも美男美女を選出していると噂の名高い店内で、彼女は人目に触れにくい厨房でありながら看板娘の呼び声が高いということ。なので時折、店長が「厨房に入れておくには勿体無い」とホールへ引っ張っり出すくらいである。
もっとも彼女はそれを良しとは思っていない様子なのだが。
そんな美波と目が合ったことで少し得意な気分になった一樹は、少しばかり仕事の憂鬱さが軽減された気さえした。
しかしその反面、本人を見れば見るほどに和哉には不釣り合いな高嶺の花であることを痛感して、期待していた訳では無いが、ますますもって『上手くいった暁』が成し得ないことについて、元よりそんな話は無かったことのように折り合いを付けたのだった。
-22時10分
どうにか一樹は今日も無事に戦場を潜り抜け、22時の閉店を無地に迎えることが出来た。
閉店前から手早く後片付けを済ませていた一部のスタッフ達は、もう既に帰る準備万端といったところ。
「一樹さんお先に失礼しまーす」
「ああ、お疲れ」
そんな中、いち早くホールで働く後輩達が帰って行く。
普段なら一樹も家路につけると心踊る時間帯ながら、今日ばかりは後の棚卸しを考えると足取りは重い。
和哉も居ないことから恐らく終電には間に合わないだろう。
当の本人といえば、既にどこにも見当たらずにいつの間に居なくなったのさえ分からない。
「あいつ、なんか一言あんだろ」
しかし、なぜか憎めないのは、彼の性格に表裏がないことが起因している為だろう。
数珠繋ぎに従業員が帰って行き、程なくして誰も居なった頃、一樹はようやく自身の後片付けを済ませて本題の棚卸しへと移った。
ゆっくり倉庫へ移動すると、部屋の入り口で思わず溜め息を漏らす。
今回の棚卸しの対象は、ナプキンやペーパータオル等の消耗物とコーヒー豆なのだが、日々の個数管理が行き届いている消耗物は問題ないとして、コーヒー豆に至っては、数十種類にも及ぶ店長の気紛れセレクトが誰にも管理がし難く、さながら無法地帯と化しており、何処に何がある事を把握するだけでもかなり時間を要してしまうのである。
ある程度覚悟はしていたものの、いざ目の前にすると頭を抱えずにはいられなかった。
見込み通りに短時間で手間の掛からない消耗物を難なく済ませ、いよいよコーヒー豆を端から確認に入る。
舌を噛みそうな長ったらしい名前がどうにも判別しづらく、当然ながら豆自身を見た目で区別するなんて離れ技が出来るわけもなく、確認済みの物と未確認の物を見分けることに細心の注意を要してしまう。
誤って見間違いでもしたら、たちまち振り出しに戻されてしまうのである。
常に集中を要求される作業は疲労が激しい割に進行が遅く、しばらくしてすぐに業を煮やした一樹は、缶コーヒーを片手に店頭で休憩することにした。
-23時05分
23時を回ると、日中は人でごった返していた店先の通りもすっかり静かになっていた。
一樹はテラス用の柵に腰を掛けると、手に持った缶コーヒーに軽快な開封音をたてる。
ゴクリと一口飲み込んでは、喉へ伝わる冷えたコーヒーが夜の冷たい空気と相まって、オーバーフロー気味だった頭を程良く冷やしてくれる。
そのまま夜風にあたり5分ほど休憩すると、缶コーヒーも全て飲み干し柵から飛び降りて、めいいっぱい背伸びをした。
「頑張らないとな」
誰も通らないメインストリートに踵を返して、店の方へと向き直る。
「やっぱり」
突然、背後から女性の声がした。
振り向くとすれ違いざまにツカツカと女性が店へと入っていく。
「あ、おい、ちょっと」
ちらりと見えた横顔が見知った顔のように思えたが、そんなはずは? と一樹は慌てて店内へと後を追う。
女性は倉庫の入り口で立ち止まっており、こちらを背にして仁王立ちしていた。
「ちょっと、アンタなにして……」
呼び止めようと女性の肩へと伸ばした手が届く直前、一樹の顔前へ棚卸し用の伝票を突き出された。
あまりのことに「うわ」と思わず声を漏らして、バランスを崩して倒れそうになってしまう。
「さぁ、サッサと終わらすわよ」
どうにか持ち堪え体制を立て直した一樹が、ようやく確認した女性の顔は入口で感じた通り、あの美波本人だった。
「香月!? どうしてここに。 和哉と飯に行ってるんじゃ?」
驚く一樹に美波は「ハァ」と小さく溜め息をつくと、腰に手を当てかぶりを振った。
「全く、思ってた通りのお人好しなんだから。普通行かせたりしないわよ。それでなくともここの棚卸しは大変なんだから」
「いや、それでもなんで香月が……」
「ほら早く、ちゃっちゃと終わらせて終電には帰るんだから」
一樹の言葉に聞く耳もたないといった態度の美波は、急かす様に倉庫へと入っていく。そんな美波とは対象的に、一樹は壁に掛けられた時計の針が指す数字を見ては不安げに呟いた。
「ありがたいんだけど、終電はもう今からじゃ……」
「何言ってるのよ。 棚卸しはね、現品をチェックする側と記帳する側に分かれれば何倍も早くなるものなの。ほら、くだらないこと言ってないで、こっちで品名読み上げるから個数を確認して。いい? 混ざるとイケないから右奥からよ」
まくし立てる様な美波の気迫に押され、一樹は「お、おう」と思わず情けない返事をしてしまう。
いろいろ聞きたいことはあるものの、今は聞けそうにない雰囲気に言葉を飲み込むことにする。とりあえず目の前のことに集中しなければ、何を言われるか分かったものじゃない。
それに、一樹にとっても終電に乗って帰るということは実に魅力的だった。
美波の指示は手早く、一樹が要求する間もなく間髪入れずに次を指示が飛んでくる。当初、無限にも見えた品数はみるみるうちにその数を減らしていった。
それでも余りの数の多さにお互い声を荒げて半分ムキになったりする場面もあったが、2人から正確さが失われることはなかった。
どうにか最後の品目を無事に美波が記帳し終えると、二人して慌てて時計を確認する。
何とか終電に間に合う時間であったことを確かめると、疲労と安堵感とで思わずその場へ座り込んだ。
「「疲れたー」」
時計を見て座り込むまでの仕草がピッタリ同じタイミングであったのに加え、その言動までもが同じであったことに、二人は顔を合わせてハハハと笑い合った。
「ありがとな。まさかホントに間に合うと思わなかったよ」
「まったくよ。こんなのを1人でどうにかしようなんて、どうかしてるわ」
美波の真っ当な指摘に一樹は思わず苦笑する。
しかし、それについては事の発端でもある和哉との食事のことを、ひと段落もついたこともあり、兼ねてから気になっていた質問を投げ掛ける。
「そういや、和哉との飯はどうしたんだ?」
「 ああ、アレなら途中で切り上げてきたわ。まさか棚卸しの日だなんて思ってもみなかったし」
切り上げた……。
それが一方的なものならば実に辛い事態である。
増してやこのアッサリ感、それが残念なケースであることは敢えて本人に聞くまでもないだろう。
1人ポツリと取り残される一哉を思い浮かべると、一樹は思わず眉間を摘みかぶりを振った。
だが、そこは恋多き一哉のこと、自称『恋の伝道師』の名に背くことなく、明日明後日にはケロッと新しい恋へ勤しんであろう事も想像づくと、すぐさま思い悩むことを辞めにした。
「ゴメンね」
そんな折り、突然美波が謝罪の言葉が口にする。
棚卸しの件で美波へ感謝こそしなければならないものの、向こうから謝られる覚えなど一樹には全くない。
「棚卸しのこと気がつけなくて。こんなに遅くにならずに済んだのに」
それは彼女なりに責任感を感じてのことだった。
勿論、一樹にとって本当に謝って欲しいのは美波では断じてなく、他ならない彼の方なのだが。
「何言ってんだ、充分助かったんだから感謝すらしてるよ。おかげで終電にだって乗れるんだし」
「終電に間に合わなかったら、どうするつもりだったの?」
「そりゃ、ここで寝ることになったかな」
不意に出た『ここで寝る』の言葉に、美波は敏感に反応する。鬱いていた表情を一変させて、困ったような笑顔を浮かべると樹の肩を軽く弾いた。
「やめてよね、匂いとか移ったらどするのよ」
「もう」とイイながらもコロコロと笑う美波は、どうにも立ち直りが早い。
ここは男の器量で優しく励してやろうと思っていた一樹だっただけに、逆にそういった隙がない彼女の毅然さを実感させられた。
「匂いって……。そこはフツー、体調の心配とかだろ? 大丈夫? とか、寒くない? とか」
一樹が顔前で手を組み合わせると大袈裟に大丈夫ポーズを取って見せる。
「なんでアンタなんかの」
対して美波が一樹の態度にくってかかった。
その後も「そもそもこうなったのは……」と続く美波の言葉責めに、一樹は押し負ける一方だった。
程良い疲労感と遅い時間帯とが気持ちをハイにさせ、普段はほとんど会話の無かった2人がまるで気の知れあった友人のように会話を弾ませる。
それはどちらかが「行こう」と切り出さなけれは途切れることはないのでは? と思われるほどだった。
-0時10分
「マズいわね」
店を出てすぐに美波が腕時計を見ながら不安げに呟いた。
少し喋り過ぎてしまった為か、ここから15分ほどかかる最寄り駅から0時20分に発車される最終電車には間に合わない時間となっている。
「だったら、いい方法がある」
悩む美波の前へ一樹が得意気に一歩前へと出た。
「ちょっと、どこにいくつもり?」
駅までの15分は建築中の大型マンションによって遠回りさせられる道であって、直線上のそれではない。
そして、その大型マンションが最近、一部のバリケードを取っ払って簡易な鎖の柵にしていることを、一樹は事前に調査済みであった。
「いいから、ついて来てくれ」
一樹が美波の前を歩いて先導する。
棚卸しの時はさんざん指図されていた為、美波を先導するのはどこか心地が良かった。
大型マンションの地下駐車場へとつながるスロープまでたどり着くと、最近まで囲っていたバリケードがなくなっていることを確認する。
一樹の調べ通り、地下へと通ずる入口は大口を開け、鎖をまたぐ程度で出入り可能な状態となっていた。
一樹自身もまだ実際に使用したことはなかったが、この中を通り抜ければ駅前の出入り口へ一直線に通ずるはず。そうなると、5分とかからず駅へと到着することが可能なのである。
「え、ちょっといいの?」
「問題ない。恐らくあとは内装の工事ぐらいなんだろ。それに通らないと間に合わないぞ」
最初は戸惑っていた美波も終電と聞いてはやむを得ず、共に鎖の柵を越えることにした。
中は常備灯が点灯しており十分過ぎるほど明るかった。
地下へ下ると螺旋状に階層分けされており、当然地下1階の駐車スペースへと出る。
階層分けされているといっても1フロアはかなり広く、そこだけでも随分な量の車が収納可能となっていた。他階層の分と含めて頭上にそびえ立つ高層マンションの全ての車が収納出来るのではないのか?と思われるほど広大なものである。
駅の方向を考えながら一番近いと思われる出口の方へと歩み始める。所々に工事用具が積み重ねてあったが、幸い進行方向の邪魔にはならず、問題なく進むことが出来そうだった。
「凄いわね! ここ、かなり短縮になるじゃない」
ここまで来ると強ばっていた美波にも迷いが無くなったのか、「今度使おうかな」なんてことも口にしていた。
少し歩いたところで目的の出口を認識した美波が、そのスロープを指差した。
「出口あそこでしょ?」
だだっ広い駐車場のちょうど中間当たりまで着ており、出口まではもうあと半分くらいである。
「ああ、その辺がちょうど駅の……」
と、一樹が説明している最中、美波が差す指の先を黒い大きな塊が横切った。
「え? 今のって……」
気がついた美波が問いかけてくるよりも早く、雷が落ちてきたような轟音が地なりと共に鳴り響く。
「うゎ!」
鼓膜が破れんばかりの騒音に身をすくめさせられ、意志とは関係なく声が漏れる。
その後も轟音は絶えず、その音質を豪快な金切り音に変えてしばらく続いた。
「なんなんだ、今の?」
ようやく音が止んだことを確認すると、一樹はゆっくりと身を起こして真っ先に横切った影の先を確認する。
途端、頭が一瞬真っ白になった。
意外にもその正体は馴染みのある物だったのだが、少なくとも知る限り中を舞うような物ではない。
「く、車ぁ?」
普段は見ることのない車体の裏部分をあらわにして自動車が横たわっていた。
床には4、5メートル程も引きずられた跡も残こしている。
「なんだ……、これ?」
地に着かない方のタイヤがカラカラと回っている光景はまさに異様であり、言い知れぬ不安感を駆り立てる。
それが早くも的中したのか、どこかで覚えのある嫌な匂いが鼻を突いた。
匂いの元を辿ってみると、車体後部からチロチロとオレンジに色づいた液体が流れ漏れている。
ガソリンと見て間違いない。
勿論、引火すると大変なことになってしまう。
「早く出よう!」
一樹はすぐさま美波を腕を引いて駆け出そうとしたが、逆に美波から留まれとばかりに引っ張られた。
「待って、誰かいる」
見ると、車とは反対の4、5メートル先に男が立っていた。
一樹は、すぐにその男へもここが危険であることを伝えようと前へ出るが、その異様な様子に思わず足を止める。
男の小首を傾げたような姿勢や、そこから見る人を見下したような冷ややかな視線は、まるでこちらをあざ笑っているようにも見えるのだ。
男はそのまま、表情も曲がった首元も微動だにさせずにゆらりと不気味に右腕を振り上げた。
「なんだ?」
男の不可解で不気味な行動に一樹は少し後ずさる。
が、突然またも思わぬ方向へと引っ張られて、今度は思わず尻餅をついてしまった。
後方へいた美波が、先程と同様に腕を引っ張ったのだ。
「お前、いい加減に……」
「大丈夫!?」
美波は一樹の顔ではなく、焦り様子に胸元を覗き込むようにして問いかけた。
一樹がそれに気づいて自身の胸元を確認してみると、服が一筋に引き裂かれて露出した胸部には長い切り傷がついている。
「っつ、なんだこれ?」
痛みが走り、傷口からは血が滲み出てくる。幸い、傷自身はあまり深くは無さそうだ。
とりあえずその場を立ち上がると、それを見てか、男が不機嫌そうに唾を吐き捨てた。
男の振り上げていた右腕がいつの間にか下ろされている。
もしかして、あの男がやったのか。
その異様な仕草から男の仕業のように思えたが、距離を考えるとどうにも難しい。
かといって何かを投げたという感じもなかった。
「何が……」
自身を傷つけたのか? 辺りを見渡すが、それらしいものは見当たらない。
状況は把握しきれぬまま、男は尚も不可解な仕草を続け始める。
今度は振り下ろした右腕を上げると、そのまま右手を顔の横の位置へと運び、同時にゆっくりと腰を落としながら左手を前へと突き出した。
まるでこちらへ照準でも合わすかのように。
何かがくる!
男の仕業とは考え難いはずなのに、一樹は妙な胸騒ぎに襲われる。
しかも男の異様な仕草が、先程のような軽傷では済まされないことを物語って見える。
かといって、どういったものかさえ分わからないものに対処のしようもない。
迷った一樹はただ本能のまま、両腕をを顔前でクロスさせて身を丸くさせるだけだった。
同じくして、後ろに居る美波が掴んでいた腕にグッと力が入れた。
なすすべなく、何かを我慢するかのように地面を踏ん張り全身に力を入れると、眉間にシワが入るくらいに強く目を閉じた。
途端、前方でドンッと低い衝突音が鳴った。
一樹は目をつむったまま何かされたのかと全身を探るが、何の異常も見当たらない。
もしかして、と慌てて後ろに居る美波を確認するが、見たところ美波にも異常はなく、一先ず一樹は胸をなで下ろした。
しかし、先程から美波が不思議そうに何かを指差している。
「あれ……」
一樹は、その指差す先を見て我が目を疑った。
なんと、膝まついているのは男の方だったのだ。
男は元いた場所から少し離れて、更に右奥の方へと移動している。しかも、その視線は既に一樹達ではなく、左手奥を鋭く睨みつけていた。自分たちに向けていた余裕な表情も消えている。
状況から察するに、あの衝突音は男自身が何かに当たったものだと思われた。
いずれにせよ、今は男がこちらを気にしている様子はない。
「何があったんだ?」
「分からない。私が気づいていた時にはもうあそこに」
後ろの美波へ問い掛けた後、再び前へと向き直ると、今度は男の姿そのものがその場より居なくなっていた。
「え? 消えた」
辺りを見渡すが男が居る様子は無い。
「今よ! 早く」
呆けた一樹を一喝すかのように美波は声を掛けると、出口の方へと駆け出した。
それにハッとなって一樹もすぐに後を追う。
そうだ、早く出なければ。
今、一樹達の居る場所は広大な駐車場のちょうど中間点に当たり、後ろを振り返って戻るよりは見晴らしが良く遮るものは見当たらない出口の方が良い。
増してや、あの男がどこに潜んでいるのか分からないのでは尚更である。
追われるようにして、一樹達は一心不乱に出口を目指して駆け抜けた。
全速力の甲斐あって、出口があと数歩先の所まで近づいた。
一樹の前を走る美波は、既にその先のスロープの上り坂に入っている。
いろいろと不可解なことが起きて頭は未だ混乱気味だが、とりあえずこの異常な空間を、この閉鎖された駐車場を、脱することで日常へと戻れると心で唱えては一樹は出口へと更に足を早めた。
そんな折り、一樹の視界の端へ人影が映った。
気になって振り向くと、なんと少し先の方で女の子が先程とは違う大柄な男に詰め寄られている。
大男が一歩進む度に女の子が一歩下がるといった状態。
そう、それはまるで先刻までの自分達と酷似している状況だった。
それに気がついて一樹の足は止めると、思わずその場に立ち止まってしまう。
少し前のスロープ入口で待っていた美波がどうしたの? と視線で一樹を伺った。
そうだ早く行かないと、と一樹も焦る気持ちでいっぱいなのだが、このまま行っていいのか? あのままだと彼女は……と思い悩んで止まってしまう。
……どうする?
しかし、一樹はここへ来て、自身が抱える抑えきれない恐怖心に初めて気がついた。
助けるどころか自分自身、背筋に冷や水を流された時のような激しい悪寒が走り、足元はガクガクと笑って止まらないでいる。
混乱していて自覚がなかったが、男に負わされた不可解な傷や異様なまでの威圧感は、精神的にもかなりのダメージを負わされていたのである。
そのうえであの女の子にいったい何がしてやれる? あの大男が先の男と同じようならどうする? と自問する。
助けるどころか自身を、いや美波だって危険に……と。
一樹は汗ばむ手をぎゅっと握りしめるとどうすらば良いのか考える。
そうして辺りへ視線を走らせる一樹の目線の先へ、工事用の廃材と思われるスプレー式塗料の缶が目に入った。
「やってみるか」
頬へ冷たい汗を伝わせながら、一樹はある策を思いつく。
「ちょ、なにして」
思わず声を張り上げる美波を後目に、一樹はスプレー缶を思いっきり蹴り上げた。
缶は大きく弧を描いて、大男に目掛けて勢いよく飛んで行く。
しかし、缶は男に当たらずして、その背後でカコンッと音をたてるだけだった。
狙い通り。
一樹は始めから男に当てるつもりはない。
案の定、空き缶の軌道に気づいていない大男は、後方で鳴った音に気を取られて一樹達が居る方までは気が回らないでいる。
「行こう」
それを確認すると、何とか女の子がそのスキに逃げていることを願っては出口へと再び駆け出した。
手助けにしてはなんとも非力だが、それが今の一樹の精神状態でも行える精一杯の手助けだった。
一樹はようやく美波が待つスロープの入り口にたどり着くと、一呼吸おいて振り返り、女の子の行方を確認する。
大男は未だキョロキョロと慌ただしく辺りを探っており、そばに居た女の子の姿が居なくなっていた。
「良かった」
まだ助かったとは言い難い状況だが、とりあえずあの場は逃げ延びれていることが分かると、見捨てようとした事が少しでも救われたような気がした。
後は目の前のスロープを登ればとりあえず地上へ戻れる。この非現実的な閉鎖空間から脱出し、いつもの日常へ帰れるのだ。
一樹が再び出口の方へと向き直ると、突然目の前を大きな影が覆った。
美波のものかと思って右手に逸れるが、思ったより大きくて避けきれない。
不思議に感じて影を目で追ってみると、先程数十m先で女の子を襲おうとしていた大男が自身を見下ろしていた。
「え?」
全身の生気が地面へ吸い出されるよう感覚に襲われる。悪寒が体中を巡り、心臓が鷲掴みされている様である。
しかし頭の中では、『そんなはずがない』と強く否定しており、視覚と思考の矛盾に耐え切れず、思わず振り返っては大男の元いた場所を確認してみる。
つい先程までそこに居たはずのキョロキョロと女の子を探していた大男の姿はそこになかった。
まさか……と思った瞬間、一樹の視界が大きく歪んだ。
-0時18分
それは人体とは思えないほど、空中に綺麗な弧を描きながら目の前を舞った。
美波はあまりに咄嗟のことで状況を把握仕切れないでいたが、積み重ねてあった廃材が倒れるけたたましい金属音でハッとなった。
尚も飛ばされたのが一樹だと気づくまでにしばらく要してから、慌てて側へ駆け寄ろうとしたとき、突然大男が叫び出した。
「どうすんだよ! 俺が殺されんだろうが、アァ!」
男はかなり苛立ってる様子で、その場で地面を何度も蹴る。
その力が余程強いのか、合わせて駐車場全体に地響きが響いていた。
「あの力」
美波は、一旦一樹へ駆け寄るのを控えると、体を大男へ向けながらじりじりと慎重に歩み寄ることにする。
我を失っているのか、大男はブツブツと呟いており、美波に気づく余地はない様子だった。
とりあえず、今のうちに一樹を起こしてこの場を離れなければ……。
慎重に、慎重に、慎重に……、ゆっくりと物音をたてず確実に美波は一樹へと歩みよる。
あと3m。
見つかっては恐らく命は……。
激しく脈打つ鼓動に耐えながら、ここで焦ってはいけないと自ら言い聞かす。
男は尚も取り乱しており、未だこちらの動きに気づく様子はない。
大丈夫、このままいけば問題ない。
あと2m。
手を伸ばせばもう届きそうな位置まで近づく。
幸い、一樹の側には別の出入り口があるため、とりあえずその通路へと入り込めさえすれば相手の目も避けながら地上へ上がることが出来る。
極力物音をたてず、気付かれないように忍び寄る。
あともう少し……。
もうすぐそこに一樹が居る。
美波は一樹へ手を伸ばした。
……カラン。
それは物音をたてないように意識していた為か、やけに大きく金属音が響いた。
音がした方を確認すると、意識を戻した一樹が動かぬ体を引きずって側に転がる鉄の棒を拾おうとしている。
しかし、思うように動かないのか、上手く握れずまたも金属音をたてた。
カラン、カランと不定期に金属音が重ねて響くなか、恐る恐るに大男の方へ振り返ると、それまで取り乱していたのが嘘のようにピタリと黙り込んで一樹の方へとジッと睨み付けていた。
「気づかれた!」
とりあえず焦る気持ちは抑えて、その場に立ち止まって大男の動向を探る。
大男は一樹を見下す目を一気に見開いてうわずった声で叫びだした。
「なんだぁ? まだ生きてんのかよ」
その様子は何かに気でもふれたのか、おおよそ正気と思えない形相である。
そのまま首を大げさに左右に振ると、ポキッポキッとリズミカルに骨を鳴らす。
今にも一樹に飛びつかんといった状況だった。
「ねぇ、ちょっと」
見つかっているのであればと声をかけるが美波だったが、一樹がこちらへ気づく様子はない。
「女ぁ、そいつの次はおまえだからな」
こちらは眼中にないといった様子だった為、警戒を緩めてしまっていたのか、突然狂気を向けられて、美波は思わず2、3歩後ずさってしまう。
それを見計らったかのように大男は奇声をあげながら一樹へ飛びかかった。
「しまった! まだ……」
美波は必死に手を伸ばすが、大男の凄まじい突進によって巻き起こった突風により飛ばされてしまう。
一樹の姿は、大男と共に崩れ落ちた廃材の影と砂埃によって隠れてしまった。
-0時20分(遡ること5分前)
一樹は頬を伝わる冷たい感触で気がついた。
なぜか地面にうつ伏せの格好でいる。
起き上がろうとするが体が動かない。全身が痺れていて動かせないといった感覚。
そういえば、確か大男に吹き飛ばされて……。
そうだ! 大男は? 美波は? とハッと力が入るが、やはり体は思うように動かなかった。
しかもなんだか嫌な汗が止まらないでいる。
嫌な予想を抑えながらも恐る恐るに首を曲げ、なんとか見えた左腕は通常では考えられない向きへと曲がっていた。
完全に骨が折れていると思われるのだが、なぜか痛みは感じない。
未だ見えずにいる下半身に至っては、感覚がはっきりしない分つながっているのかさえ分からない。
一樹は痛みがないことが途端に怖くなってきた。
そんな折、突然一樹の耳へ聞き難い奇声が入った。
恐らく、あの大男の声だろう。
それまで動かない体に絶望していた一樹だが、声が聞こえるや、このままではいけない……と生への執着心が湧いてくる。
何か、何かないのか……と目を配らせ、地面に這いながら辺りを見渡すと、すぐ側に工事の廃材と思われる鉄パイプを見つけた。
かろうじてまだ動く右手を伸ばして鉄パイプを握るが、痺れて思うように持ち上げれずに金属音を響かせながら滑り落ちてしまう。
それでも4、5回繰り返してどうにか持つと、鉄パイプを支えになんとか上半身を起こして壁へもたれかかる。
一樹はようやく五体がつながってることを確認してとりあえず安堵した。
正面を向くと、大男はいつの間にか奇声を張るのを止め、こちらをじっと見据えていた。
それは狙いを定めて今にも飛びかからんといった状態に見える。
一樹はフゥッと息を吐き出すと、力を振り絞って鉄パイプを脇の下へ挟み込み、少しでも前へと倒す。
当初、なんとか応戦するためにと手に入れた物だったが、今の状態ではこれが精いっぱいだった。
それどころか、未だに痙攣と汗が止まらないでいる。
痛みがないのでなんとか動かせているが、体はとうに限界を越えているのだろう。
なんとか鉄パイプを身体で支えて固定させると、とうとう前方で大男がこちらへと飛びかかる地面を蹴る低い音が唸った。
人並み外れた力は、地面を蹴る動作一つでも空気を震わせ、辺りに低音を響かせた。
一樹から男までは、飛ばされた分の十数mほど離れているのだが、男が突然前へ現れたことを考えると、恐らくなんらかの方法で瞬時にたどり着く恐れがある。
だが、ただでさえ体が動かない今の状態では何の対処のしようもなく、唯一囁かな希望として手に持った鉄パイプを強く握りしめているしかなかった。
一樹は祈るように堅く目を瞑り視界を閉じかとしか出来なかった。
その直後、暗闇であるはずの目蓋の裏側がパッと明るくなる。
同時に爆音が唸り、地面が震え、熱風が全身を吹き抜けた。
近くで何かが爆発がした!
慌てて目を開けようとした時、突然手に持っていた鉄パイプに重みがのしかかった。
一樹は必死に鉄パイプを落とさまいと握りしめ、パニックになりながらも目を開ける。
大男はまさに眼前にまで迫っており、振り上げていた右腕を一樹目掛けて振り下ろす瞬間だった。
一樹は、咄嗟のことで突然の危機的状態になすがまま、ただ大男が振り下ろす腕を目で追うことしか出来ずにいた。
しかし、大男の右腕は一樹の目の寸前の所でピタリと止んだ。
しばらくすると、大男の腕は自分の横をすり抜けて、その先へ体ごと倒れ込む。
同時に握っていた鉄パイプが引っ張られて、手から離れとると地面へ落ちてコンッと音をたてた。
一樹はすぐさま鉄パイプを拾おうと視線を向けたが、なんとその先が男の腹部へと突き刺さっていることに気がついた。
大男は声にならない声を絞り出して苦しんでいる。
とりあえず、右腕に鞭打ってほふく前進でその場を少し離れると、そのままゴロンと仰向けとなり、上半身を起こして今し方起こった不可解な事態を把握しようと辺りを見渡す。
……助かったのか。
一樹の目に最初に飛び込んだのは奥の方で燃え盛る火柱だった。
あそこは確か、そう、最初に見た車が横転していた場所。ガソリンが引火したのか、今も勢いは止まりそうにない。
目をつぶった瞬間に感じた爆発はきっとアレのせいだろう。
もしかすると、爆発に気を取られて注意を失った大男が、手に余る身体能力を制御しきれずに、その先で一樹が伸ばしていた鉄パイプへと刺さったのかも知れない。
再び男に視点を戻すが、うずくまったままさすがに動ける気配はなかった。
それを見て力が抜けたのか、体を支えていた右手がヌルッと滑べると、そのまま仰向けの姿勢で倒れ込んだ。
なんだ?と思い右手を見てみると、おびただしいほどの血で真っ赤になっている。
もしや……と、元より違和感のあった後頭部に触れることで血の出どころはすぐに分かった。
恐らく、飛ばされて壁へ強打した時だろう。
多量の血が流れ、自身の周りにはちょっとした水溜まり、もとい血溜まりが出来ている。
危機を回避したことによる緊張の途切れと多量に出血している事実が相まって、一樹の視界はスゥーッと白んできた。
意識が朦朧としてくる……。
地面に身を預け、目を閉じかかった時、タンタンタンとコンクリート越しに慌ただしく足音が響いてきた。
それに遅れて自分の名を呼ぶ美波の声が聞こえる。
そうか、香月は無事なんだな……。
一樹は、美波が無事であることを確認すると、白んだ視界の中で必死に紡いでいた意識の糸がとうとうプツリと途切れた。