-神の名を持つ獣-
男は、瞬く速さで迫り来る一樹に動じることもなく、ただ力なくダラりと右腕をかかげた。
そのノエルを放つわけでもない異様な仕草に、一樹はハッとなって慌てて足を止めると、男へ飛びかかることを本能的に躊躇した。
男のその仕草は、あの『駐車場』で見た光景をダブらせてたのだ。
それは、見えない力で腹部へ切り傷を負わされた不可解な現象。その後、ノエルだとばかり思い込んでいたが、今考えてみてもどうにも仕草がおかしい。
そう、目の前の男のように……。
その矢先、立ち止まった一樹の目の前を異様な違和感が通り過ぎた。
鼻の先寸前のところのあらゆる物質、いや空気を含めた何もかもをかすめ取られたような喪失感にみまわれる。
背筋へゾクッと悪寒が走り、寸前のところでそれを運良く交わせたことに肝が冷やされ、額へ冷たい汗を伝わせた。
何が起こったのか半場混乱気味ながら、一樹は男へ視線を合わせる。
男はつり上がった口元をニタッと開いて、楽しんでいるような表情を見せていた。
「なんだ、随分勘がいいじゃん。あともうちょっとだったのにさ」
「な、何をした」
警戒しながら構える一樹へ、背後から駆け寄ってきた美波が腕を差し出して何かを指差した。
指先は小刻み震えており、その先は男本人でなく、男の位置より少し外れている。
「一樹、あれ……」
示す先を確認した一樹は、驚愕する余りしばらく言葉を失った。
それは呼吸することすら忘れ、尚も体が酸素を要求しだしても、我が目を疑うことを優先してしまうほどに目に映った光景は突飛であり、現実味を帯びないものだった。
なんと、男の背後には全長が3メートルを優に超える程の大きな野獣が、全身に生える白銀の毛をなびかせながらこちらをジッと見据えていたのだ。
「なんだ、あれ?」
ようやく出た声も、未だ目の前のものを把握しきれないものだった。
そんな立ちすくむ一樹達を前に、男は甲高い笑いを漏らす。
「やっぱり知らないんだ。ま、そうだよね。ちまちまノエルでやり合ってるあたり、知らなくて当然だよね」
「なんなの、その……バケモノは?」
美波が言ったバケモノと言う現実味を帯びない言葉に、思わず全身の血の気が引いていく。
「あぁ、これ? コイツは俺の忠実なる下部。ていうか、ペットみたいなもんかな」
「ペットって、こんなの……」
「一応、神の化身ってことみたいなんだけど、カオスって言ってもわかんないかな」
「神の化身? カオスって、いったいなに?」
「面倒くさいなぁ。もうアンタらは知らなくていいもじゃない、どうせここで消えるんだから」
飽きた素振りを見せる男は、髪をかきあげながら右手の手首をクルリと返した。
ゾクッと悪寒を感じた一樹が後ろを振り返ると、そこにはいつの間にか移動していた獣が今にも腕を振り下ろさんとしている。
「香月!」
咄嗟に美波へ飛びつき地面へ伏せさせると、間一髪のところで獣の腕をかわす。
野獣は続けて口を大きく開くと、一樹達目掛けてかぶりついて来た。
「マズい」
一樹は右手で美波を押し飛ばすと、つかさず両手の平を前へと突き出してノエルの膜を張った。
野獣のむき出した鋭い歯が一樹のノエルの膜につっかえると甲高い衝突音が辺りへ響かせる。
一樹はそのままノエルの盾を通して、野獣と力比べをする格好となった。
「まさか、耐えてんの?どういうノエル量してんのよ、アイツ」
野獣の猛攻に何とか耐えた一樹へ驚いていたのは意外にも男の方だった。
しかし、あのスーツ男がどれだけノエルを連発しようが微動だにしなかった凝縮ノエルの盾は、野獣の桁外れの力にジリジリと押され気味となってくる。
「ヤバいか」
更にはギシキシと音をたてながらきしみ始め出した。
両手を使って防ぐことだけに力を注いでいる分、スーツ男や大男の時と比べても比較にならないぐらい強固されている筈なのだが、それでもこれ以上は保ちそうない。
「それなら!」
全身へ力を込めて、自身に内包される全身全霊の力を持ち寄って盾へと集中させた。
膜の内側の一樹の周りには、溢れるノエルで強い光が充満する。
「さ、更にノエルを増やせんのかよ」
男は一樹の輝きに一層焦りを覚え、顔色を変え始める。
「これでどうだ!」
一樹が全力の盾を前に野獣を押し返そうと、一歩前へと出た時だった。
……ピキッ
卵の殻が割れたような小さな音が、膜の内側の一樹の耳へと入る。
「なっ」
途端に頭上に出来た小さなひびから、膜の内側に溢れたノエルが漏れ始めた。
そこからどんどんひびが広がり始め、終いにはノエルの盾はガラスの砕ける音と共に辺りへ飛散していく。
同時に内包されたノエルが一気に解放されて、ノエルの膜は内側から破裂すると、その勢いに飛ばされた一樹は壁へと叩きつけられた。
「お、脅かしやがって。そいつは、お前が抗える代物じないんだよ」
男は額へ流れ出た汗を拭うと、その手を前へと差し出し、壁際で倒れ込む一樹へ向かって合図を送る。
野獣はそれに従い、一樹を見据えて前足をかがめて今にも飛びかかろうとする姿勢をとった。
身の危険を感じ取った一樹は、すぐに起き上がり体勢を整えようとするが、その途端、事もあろうに再び胸部へ刺すような痛みが走る。
文字通り鉄の棒が胸を貫通したようなは激痛は、声にならない呻きを吐かせ、立ち上がろうとしていた動作をたちまちキャンセルして再び地面へ吸い寄せられてしまう。
「ヤバいな。やっぱ少し休んだぐらいじゃ、ここらが限界なのか」
それでもスーツ男達の時と比べると痛みは幾分かマシだった為、なんとか立ち上がろうとする一樹だったが、野獣は待った無しに容赦なく飛びかかってきた。
「一樹!!」
対処どころか立つこともままならない一樹の絶望的な状況に、悲鳴にも似た美波の叫びが辺りへ木霊する。
飛び上がってきた野獣の爪は、一樹のもうすぐそこまでまで迫っていたが、体制もままならずにかわしようがないうえ、胸部の痛みでノエルの盾を張ることすら出来ない。
「クッソ」
舌打ちするすることぐらいしか出来ずに、ただ獣の爪が自身へ振り下ろされるのを待つだけである。
しかし、そんな諦めかかっていた一樹の目の前へ突然人影が覆った。
「掴まって」
影の主の言われるがまま、差し出された手を掴み取る。すると、一樹をそのまま全身ごと引っ張り上げ、瞬く早さでその場を跡にした。
ドスンと獣が着地する低い地響きに振り返った一樹は、間一髪で離脱出来たことに安堵する。
突如、目の前へ現れた謎の影に辛くも一命を救われたのだが、今も自身を引っ張るその意外な影の主へ異を唱えられずにはいられなかった。
「お前、どうして?」
その言葉に振り返る人物は、つい先程まで隣の部屋で瑞穂を巡って争っていたあの慎だったのだ。
慎は一樹を連れながら瑞穂と美波の元まで移動すると、その場にいた2人をも驚かせた。
「悪いけど、状況はしばらくそこで見させて貰っていたよ。沙奈の為にも、ここは僕も手を貸そう」
その言葉に一樹が「ならもうちょっと早く出て来いよ」と小声に口を尖らせるが、慎は気にせず話を続ける。
「差し当たっては、アイツをなんとかしないといけないか」
「ええ、それも急を要するわ」
美波の視線の先に居る苦しむ沙奈の姿を見た慎がコクりと頷き、口元に手を当てながら考える。
「そうだな、それには君の力が必要そうだ」
慎へ視線を向けられた一樹が、ゆっくりと立ち上がった。慎が言った『君の力』が、野獣の動きを止めたノエルの盾であることは察しがついた。
「イイぜ、お前にはまた借りが出来たしな」
そんな一樹を瑞穂が心配そうに見上げたことに「大丈夫、あの時ほどじゃないさ」と笑顔で返す。しかし、体が悲鳴をあげていることに変わりはない。
「ただ、俺の体もどうやら限界らしいんだ。せいぜい良いとこ30秒ってとこだぞ」
「それだけあれば十分だよ」
慎の力強い返答に一樹がフンと鼻で笑うと、2人して皆より一歩前へと出て、姿勢を低くしてジッとこちらをうかがっていた野獣の前に、背中を向け合って並んで対峙する。
「結構無理してるみたいだけど、ここはしっかり頼んだよ」
「お前の方こそ、俺の後にちゃんと着いて来いよ」
そう言うと、一樹が先行するかたちで2人して野獣に向かって地面を蹴った。




