-硝子の塔-
突然顔がひんやりと冷たくなったかと思うと、鼻口にまとわり付く何かに呼吸を奪われ、息詰まって溜まらなくなったところを拭うようにして飛び起きた。
余りの息苦しさに、吐くことと吸うことを同時に行おうとしたのか、思わず呼吸機関を震わせた可笑しな豚鼻音が漏れる。
乱れた呼吸を深呼吸で整えて、どうにか落ち着かせた。
前髪から滴る雫に気がついて、水をかけられたことにようやく把握する。
どうやら気を失っていところを誰かに目を覚まさせられたのだ。
そんな折り、どこからか放り投げられたペットボトルが地面にバウンドして、まだ水が中に入ったバスッバスッという鈍い音をたてた。
すぐさまその投げられたら元の方へと目を向けると、もう見慣れた後ろ姿を発見する。
男もこちらに気がついたのか、振り返りもしないままその低い声を震わせた。
「ようやくお目覚めか?」
サイの皮肉めいた言葉は、瑞穂を守ろうと健闘した一樹を苛立たせた。
「まんまと連れて行かれたみたいだな」
続けざまに投げられるトゲある言葉に溜まらなくなって、言うつもりのなかった言葉をつい口走ってしまう。
「何を今更、守ってるんじゃなかったのかよ!」
そんな一樹の言葉に気にも留めようとしないサイは、小さく嘲笑いながらあしらった。
その姿にやはり口外すべきでは無かったことをすぐさま後悔する。
「いつも側に居るお前じゃあるまいし、そんな都合良くもいかんだろ。そもそも、その為のお前だったんだが?」
加え、追い討ちされる言葉に悔しさがこみ上げてくる。
昨日、この力で瑞穂を守れると過信したことを溜まらなく恥じて力一杯拳を握り締めた。
すると、その手の中にある異物感を感じて、何かを握っていることに気づく。
「これは……」
手を開け見てみると、そこにはバッジがあった。
金色のそれは、中に天使と女神が描かれており、女神の手の中には赤ん坊が大事そうに抱えられている。
その形や大きさから、ジャケットの襟などに付けるものであることが分かりハッとなった。
「これ、あいつの!」
そう、それは一樹が気を失う間際、苦し紛れに掴んだ慎の襟よりもぎ取ったバッジである。
サイがそれを上から見下すように覗き見ると、何かを感づいたように呟いた。
「エターナルチルドレン、やはりそうか」
その言葉の意味を理解仕切れずに首を傾げる一樹を見ては、普段口数の少ないサイが珍しくも補足した。
「EC教団と言ったら、お前でも理解するのか」
「い、EC教団!? それってまさか、あの?」
それはそこそこ名の知れた大きな宗教団体であり、そのフルネームこそ知らない者も多いかも知れないが、略名であれば国内で知らない者の方が少ないくらいである。
増してやノアで働く従業員ですら、恐らくその信仰者が居るほどの身近なものなのである。
「でもそれって、たまたまアイツが信者なだけだったのかも知れないだろ?」
それ程までに大きな団体でもあることと、何より未だ悪い噂も耳にしことがない為、俄には信じがたい。
「お前は、このタイミングで瑞穂が襲われたことに違和感を感じないのか」
「タイミング?」
タイミングと言われても例の駐車場での一件以来、いつ襲われたって特におかしなことではなかったはず……と思われたが、サイの意味深な問いにもう一度深く考えてみる。
このタイミング、今まさに特別なことと言えば……。
「こう……、づき?」
「そうだ。あの女も教団の関係者だ」
まさか? と困惑する一樹にサイは続ける。
「俺はあの女の素性を調べて、ECへ辿り着いたのだからな」
確かにサイはバッジを見た際「やはりそうか」と言っていたことを思い出す。恐らくあの瞬間、彼の中にあった疑問点が繋がったのだろう。
しかし、それでは……。
「じゃぁ、これは香月が企んだものだって言いたいのかよ!」
あの香月がそんなことするはずがない! と強くサイを睨み付けるが、サイはまたも馬鹿にするような嘲笑を浮かべる。
「さぁな、それは本人にでも聞いてみたらどうだ」
そう言うと、踵を返して通りの方へと歩いて行った。
「待て、まだ……」とサイを引き止めようする一樹だったが、腹部の痛みで旨く体を起こせない。
その痛む腹部へと移った視線を元へと戻した頃には、サイの姿はどこにも無かった。
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自宅へと戻った一樹は、誰もいなく薄暗い部屋中に淋しさを感じ、すぐに気分を滅入らせた。
勿論その部屋はつい最近まで1人で過ごしていた訳なのだが、その少しの期間でも感じた温もりは一樹に充分過ぎる程の孤独感を感じさせた。
更にそれは、一樹にあることを思い出させる。
その感情は5年前に体感した両親を失った時とどこか酷似しているのだ。
それまで賑やかだった空間が突如として虚無と化し、待っても待ってもそれは二度と戻ってくることはなく、絶望という名の影を落とす。
既に克服した筈の思いが意図も簡単にぶり返したことに、寂しさを通り越して悔しさが湧き上がってくる。溢れる感情に力一杯拳を握りしめていた。
しかし、今回とそれとでは決定的な違いが存在する。そう、両親の時と違い、瑞穂や美波は何も死別した訳ではない。
未だ所在がハッキリしない美波はともかく、少なくとも瑞穂をあのままにするわけにはいかない。打ち拉がれるにはまだまだ早いのである。
気力を戻した一樹は、すぐさま自分の部屋へと入ると、机の上に設置してあるノートPCを開いては電源を投入した。
起動してくるや、すぐさまブラウザで検索サイトを開き、キーワードを入力する。もちろん検索ワードは『EC』である。
ずらりと並んだ検索結果のトップにあるリンクを開くと、神秘的な音楽と共に華やかではないながらもメッセージ性の強いサイトの画面を見て、間違い無くEC教団のサイトであることを確認する。
続けて、右側にあるリンクの中から拠点一覧をクリックする。表示してきた数ある拠点一覧の表示から、今度は現在の住所に一番近い拠点を探した。
すると、目的のものはいがいにもすぐに見つけることが出来た。探すも何も、一番上段にデカデカと標記されていたのだ。
『総本部』と書かれたその拠点の名に、一樹は口に手を当て考える。
瑞穂はきっと、まずは近場の拠点へ運び込まれているのでは? と予測しての検索だったのだが、それが総本部となると、いよいよもって瑞穂がそこに居る可能性は高い。
一樹は、重ねて地図サイトを開くとその住所の地図を自身の携帯電話へと転送した。
翌朝、一樹は早速ECの本部へと向かった。
その住所の先にあったガラス張りの高層ビルは、それが有数な団体であることを象徴するかのごとく大きさで、早くも一樹を怯まさせた。
朝だったこともあってか、訪れる人は多く、皆が入口でガードマン相手に何かを提示している。
それに気がついた一樹は、それが何かを確認すべく近づいて行くが、ガードマンと目が合うと思わずあらぬ方向へと向きを変えてしまった。
我ながら怪しさ満載の行動であったことに反省していると、不意に向いた先にあったビルの階層案内が目に入った。
かなりの数の部署が存在するらしく、ごちゃごちゃして分かりづらいながらも、気になった箇所へチェックを入れる。同時にガードマンへ提示しているものが、教団員の証明となる写真付きのカードであることも分かった。
当然そんなものはなく、どうしたものかと考えていると、突然謝罪する男の声が耳に入ってきた。
「すみません。これからは忘れないようにします」
どうやら男はカードを忘れたらしく、代わりの物を提示することでガードマンの許可を得たようだった。
それならば、と一樹はポケットからある物を取り出す。
そう、それは、慎が身に付けていたバッジである。何かの役に、と持って来ていたのだ。
それをシャツの襟元へ取り付けると、今度は堂々と入口へと向かう。
ガードマンの前へと着くと、軽い会釈でガードを忘れた風に装っては、いち早くその場を去ろうと歩調を早めた。
しかし、2、3歩進んだところでガードマンが声をあげる。
「おい、ちょっと」
突然の呼びかけに、思わずギクリと体が縦に揺れる。
かなりの数の人がここを通っているはずだが、まさか一人一人の顔を覚えていたりするのか?と、嫌な予感が脳裏をよぎり、冷たい汗がこめかみ辺りを通り抜けた。
ガードマンは顔を一樹の方へと近づけては、鋭い目つきで睨みつける。その疑いの眼差しにゴクリと喉が鳴らす。
するとガードマンは、そのまま視線を落とし、襟に付いているバッジを見ては、強ばらせていた表情をハッとさせた。
「これは失礼いたしました! 引き止めてしまってすみません」
ペコリと頭を下げると丁寧に謝罪される。
先程まで一樹が見ていた限り、ガードマンの態度は良いと言えたものではなく、通る者がそのガードマンの機嫌を損なわないようにしているようにさえ感じていた。それだけにこの意外な反応に違和感さえ感じ、なんだか居心地が悪い。
そんな一樹の表情を読み取ってか、ガードマンが手を口元に添えてヒソヒソ声で語りかけてくる。
「でもダメですよ、執行部の方が忘れ物なんて。示しがつきませんよ」
そう言うと、今のうちに早くといった感じのジェスチャーを送ってくる。
一樹は軽く会釈して、まさに今のうちだと足早に構内へと急いだ。
入口の扉を潜ると、そこにはだだっ広いエントランスが広がっており、天井高いその優雅な作りは、どこか神秘的なものさえ感じられた。
そのエントランスを真っ直ぐ突っ切ったところにエレベーターホールがあり、6機あるエレベーターの前で一樹はあることを思い出していた。
当初、瑞穂の誘拐をネタに代表者を相手取り、揺すりさえする気持ちで乗り込んだが、こうもセキュリティーが強固ならば、揺する相手のところにすらたどり着きそうにない。
となると、残る手段は瑞穂を見つけ出すことなのだが、幸いこれに関して手掛かりを掴んでいた。
ガードマンが慎のバッジを見て言った『執行部』である。
流石に連れ去った張本人である慎が、瑞穂の居場所を知らない筈がない。
まず一樹は、慎に会うべく執行部の場所へと急ごうとするが、つい先程まで見ていた館内案内板に記載される執行部は確か23階のはず。しかし、エレベーターはそれぞれ3機づつに1階から10階までと11階から20階までに分類されているだけで、21階以上へ行く手段が見当たらない。
疑問に思った一樹は、エレベーターホール周辺をぐるぐると回って見るが、やはり他に20階以上へ行けるエレベーターは見当たらなかった。
「とりあえず上に行ってみるか」
もしかすると、20階には上層階へ行ける連絡用のエレベーターがあるかも知れない、と淡い期待を抱きながらも上層階用エレベーターにある20のボタンを押した。
高層ビルを行き来するエレベーターだけあって、あっという間に着いた20階に降り、側にあったフロア案内図を見ても連絡用のエレベーターなどは見当たらなかった。
勿論、21階以上に上がる方法の案内や執行部の文字もない。
そもそもガードマンのあの様子から見るに、館内は見知った者しか居らず、わざわざ丁寧に案内する必要はないのだろう。
それでも、フロア内の円形型に作られた廊下をグルリと一周して、更に手がかりが無いことを実感すると溜まらず溜め息が漏れた。
そこへ突然、背後から甲高い男の声が一樹を呼び止めた。
「どうしたんですか?」
性別の判断をし辛いその声に振り返ると、小柄で前髪を目元まで伸ばした男が立っている。
「え? いや……」
もともと、誰かに声を掛けることは一樹も考えていたのだが、ガードマンの反応を見るに執行部というものが安易に聞いて回るものではないと感じた為、それを控えるようにしていた。
そこを突然問い掛けられては咄嗟の判断が追い付かず、思わず口どもってしまう。
男はそんな一樹を怪しく思ったのか、一歩づつ近づいて来た。
男の目元までかかった前髪は、その表情を隠しており、相手の意図が読み取れないでいる一樹の鼓動を速くさせた。
「あ、やっぱり執行部の人だよね。おおかた、部屋が何処にあるのか分からないんでしょ」
しかし、男は一樹の首元に取り付けてあるバッジを見るとニヤリと口元を吊り上げて、意外な言葉を返してきた。
「21階以上は簡単には行けないようになってるからね。多いんだよ、ここいらで迷ってる人」
どうやら男は、一樹を怪しむどころか友好的に語りかけてくる。一樹が「ま、まぁそんなとこ」とぎこちない返答をすると男は続けた。
「だったら案内してあげよっか」
願ってもない男の提案に、一樹は「ありがとう、助かるよ」と言葉を返した。
男と共に再びエレベーターへと乗り込み、エレベーターは上ではなく下の階へと下って行く。
どうやら思っていた通り、上層階用のエレベーターが別に存在するらしい。
どんどん減数していく階数表示のデジタルを見上げていると、男が上層階について語り出した。
「21階以上は幹部区画と言われていて、セキュリティーが一層強固なんだ。一般の者は一切立ち入れない造りになってるんだよ」
「アンタは?」
「まさか。君を連絡用のエレベーターまで案内するだけだよ」
そう言うと男は小さく咳き込んだ。体調が悪いのか、先程から時々背を丸くしては肩を震わせている。
エレベーターの階数表示は『1』を更に越え、表記はただ『B』とだけ表記されている。どうやら、それ以下の階表記はされないらしく、ただ『B』の文字が点滅しているだけだった。
一樹の視線が階表記に釘付けだったことに気づいてか、男がそれについても補足し始めた。
「そうそう、上層階用のエレベーターは地下にあるんだよね」
「結構深いようだけど?」
「言ったろ、セキュリティーが強固なんだって。この地下へ行くのだって、そう皆が行ける訳じゃないからね」
そう言うと、男はまたもこちらに背を向け肩を震わせていた。
そうこうしているうちに、長らく動作していたエレベーターがようやく停止して扉が左右にゆっくり開かれた。
その向こう側には長い廊下が奥へと続いており、壁や床などが一面が真っ白で統一された無機質感を漂わせる造りになっている。
エレベーターから降りて、すぐにあったガラス戸の自動扉をくぐると、長く伸びる廊下を男と共に直進する。
幾つかあった脇へと延びる通路には目もくれず、男は真っ直ぐ突き進んで行く。
しばらくして通路の突き当たりに到着すると、そこには大きくて頑丈そうな鉄の扉があった。
男は扉の左側にあるセンサーへ向かい合い、まずはテンキーでパスであろう幾つかのキーを押し込んでいく。
ピピッと高い電子音を響かせると、次にその右側に設置してある静脈センサーで認証を……せずに、独特の形をしたキーを取り出しては更に右手にある鍵穴へと差し込んだ。
せっかくある静脈センサー使用しなかったことに少し違和感を感じた一樹だったが、豪快な動作音と共に開きだした扉の方にすぐさま気を取られていた。
「さぁ、中へ」
男に言われて先に扉の奥へと踏み込むと、そこはだだっ広い広場となっていた。
壁も床も天井すら白で統一された空間は、異様な雰囲気を醸し出しており、天地の認識が麻痺しそうな程である。
だが、どこにもエレベーターらしきものが見当たらない。
広い正方形に区切られた空間の中、特に目についたのは、一樹の居る場所から対向に当たる先の方に小さな黒い四角が見えるだけである。
一面白い部屋の中に映える黒い箇所が気になって、睨みつけるように一点へ集中する。
するとノエルが作用し、著しく向上した視覚がその四角の中に居た人物の人相までハッキリ捉えた。
一樹はその人物を確認すると、驚きのあまり考えるよりも早く駆け出していた。
「瑞穂!!」




