刺激
「華枝、どうしたんだ。遅かったから心配したよ」
泥だらけのセーラー服に、破れた袖を見ながら務が心配そうに出迎えた。
「腋毛から蔓を出す怪人に襲われて戦ってたの」
携帯電話が通じなかった兄を許せない華枝は目を合わさずにぶっきらぼうに答える。
「いや、冗談じゃなくて本当にどうしたんだ」
本当なんだけど。と心の中で毒づきながら、用意していたもう一つの答えを口にする。
「柵の上でおびえていた猫を助けようとして、柵から落ちたの」
「お前、そんなに愛護精神に富んだキャラだったか?」
「うるさいわね、私だって仏心を出すこともあるのよ、ほっといてっ」
先ほどの異常な体験がもたらす心の高ぶりを抑えきれずに、華枝はいきなりぽろぽろと泣き出した。
「わ、悪かった。華枝。大丈夫か」
おろおろする兄、を見て華枝は急に頭の芯が醒めていくのを感じた。
天然ボケで、お人よしな兄。
私が華化姫とか言っても、方向違いな心配をするだけだわ。
これは私の問題。大好きなお兄ちゃんを巻き込むわけにはいかない……。
華枝は話の方向を変えた。
「ごめんなさい、お兄ちゃんが女の人とデートしてるんじゃないかと思ってイライラしてたの」
「ああ、ゼミの集まりは途中から抜けてきた」
なんだ、フラれたのね。少しばかり溜飲を下げる華枝。
「やっぱりお兄ちゃんが一番」
華枝が務に抱きつく。急にしがみつかれ、兄はさらに狼狽した。
「ど、どうしたんだよ、一体。それで猫は助かったのか」
汚れたカバンやセーラー服の異常な皺、変な破れ方をしている両袖など、よく考えれば柵から落ちただけでは説明がつかない物が沢山あるにも関わらず、鈍感な兄は、見当違いな質問をしただけで、それ以上詮索しようとはしなかった。
部屋に入ると華枝は、インターネットで下垂体を検索した。
凛の言葉が頭に蘇る。
「我々の特殊なDNAは体毛に何らかの伝達物質を産生させているのか、その毛が生えている器官の周囲にも強い刺激を与えます。例えば、ジョーは聴覚に優れ、僕は視力がずば抜けています。姫は鼻腔の毛なので、嗅覚が鋭敏になることが考えられますが、それともう一つ、僕の祖父はある可能性に思い当りました」
凛は別れ際、華枝の破れた半袖を見つめて言った。
「下垂体への刺激です。下垂体は、鼻腔後部のすぐ上にある、多くのホルモンを分泌するホルモンの中枢です。鼻腔との近さは、最近は内視鏡下に鼻腔の裏側の副鼻腔から薄い骨と膜を切開し、下垂体腫瘍の手術をするくらいです。」
ネットで出てきた解剖図には、確かに鼻腔の奥の方付近、脳の真ん中あたりに垂れ下がった半球状の小さい突起が描かれており、下垂体と記載されていた。
「祖父は言っていました。鼻毛を変化させる者は、下垂体ホルモン、いやそのすぐ上にある視床下部をも自在に操れる可能性がある、と」
華枝には、あの吸盤を引きちぎったときの尋常ではない体感が今も残っている。急に、筋肉が破裂するかのように盛り上がり、もて余すくらいのパワーが全身にみなぎった。
「下垂体、下垂体……」
うんざりするような専門用語が羅列するページに頬杖を付きながら華枝はため息をついた。読み飛ばしたいところだが、ひとつひとつわからない言葉をクリックしながら意味を調べていく。
「ええっと、下垂体は大きく分けて前葉と後葉があり。前葉から分泌される重要なホルモンは、骨や筋肉を成長させる成長ホルモン、乳汁分泌させるプロラクチン、甲状腺ホルモンを分泌させる甲状腺刺激ホルモン、副腎皮質ホルモンを分泌させる副腎皮質刺激ホルモン、女性では卵巣を刺激する性腺刺激ホルモン。後葉は低下すると多尿になるバソプレッシン、子宮収縮作用のあるオキシトシン……」
あの、全身がかーっと高揚する感じ、動悸は、甲状腺ホルモンの上昇の可能性が高い。筋肉の変化は、成長ホルモンなどが、関与しているのだろうか。
「成長ホルモンはドーピングにも使われることがあるのね」
急激な変化は、説明のつかないことも多いが、あの少年の言うとおり、危機に反応した華枝の鼻毛が下垂体を刺激した可能性が否定できない。鼻毛は鼻腔の出口に生えており、鼻腔の奥からはやや距離があるが、伸びた鼻毛が鼻腔後部に届いて刺激をしたのかもしれない。
明日、下垂体についてもっと良くお兄ちゃんに教えてもらおう。
窓から怪人が飛び込んでくる想像をした華枝は、布団の下にクッションを詰め、さも潜り込んで寝ているかのように見せかけると、布団が入っていた押入れに横たわった。
今日、華枝は警察に届けると言い張ったが、二人のどうせ信じてもらえませんからという必死の制止で、思いとどまった。信じてもらえたとしても、このことが公になれば「華化族」が好奇の目にさらされて、日常が破たんすることは想像に難くない。じゃあ、どうすればいいのか、このまま襲撃に怯え、戦い続けなくてはいけないのか。勝てるのか、負けたらどうなるのか。華枝の頭の中で様々な思いが渦巻く。
凛が覚醒した華枝の嗅覚なら、もし違う匂いを持つ人間が忍び寄ってくればわかりますと言ってくれたが、華枝はほとんど寝ることができず、まんじりともしないで夜を明かした。
翌朝、華枝は早朝から鳴る携帯の音でびくりと身体を起こした。
昨日の不思議な出来事が、まとめて幻であるようにと祈りながら携帯を取った華枝は送信者のところに「松下 凛」とあるのを見てがっくりと肩を落とした。
《おはようございます、姫。今日は打ち合わせ通り姫をお迎えに参上し、我々が一日ボディガードを行う予定です。7時30分にご自宅の前で待機しております。華化族は日中の方が戦闘能力が増します、攻撃を受ける可能性もありますので、くれぐれもご注意を。凛》
昨日脳裏に響いた言葉は、3~4キロメートル以内だと届くみたいだが、凛やジョーの家とはかなり離れているので、通信手段はやはりメールで行うしかない。
「冗談じゃないわ」
華枝は飛び起きた。
男子のお迎えなど見られようものなら、兄に異性との交際OKの免罪符を与えるようなものではないか。
彼らより先に出て、どこか家から遠いところで落ち合わなければ。
兄はまだ寝ている。華枝は凛に学校の裏門で会いましょうとメールを打つと、牛乳を一杯だけ飲んで慌てて家を飛び出した。