覚醒
夢なの。幻なの? あの化けもんは何っ。
いや、そんなことより誰でもいいから助けてっ。
理解不能の事態に頭全体が悲鳴を上げている。しかし、抵抗むなしく首が締め上げられ、徐々に華枝の意識は暗闇に沈み始めた。
薄笑いを浮かべて怪人が近づいてくる。
誰か……。
意識を失う寸前、突如頭の中に声が響いた。
――目覚めるのです、ハナゲヒメ
ハっ、ハ、ナ、ゲ???
自分が常日頃気にしている恥部をはっきりと口にされ、華枝は失いかけた意識を怒りで繋ぎ止めた。
――人一倍……、長くて……
電波状況の悪いラジオを聴くように、その声はとぎれとぎれに頭の中に届く。
――伸びる……、ハナゲ……、ハナゲ、そのハナゲを!!!
「あんた、乙女にケンカ売ってんのっ」
この非常時に、よりにもよって鼻毛ですって?!
一番癇に障る一言に、華枝の頭の中で何かが炸裂した。
いきなり、顔全体がかーっと熱くなり、それが中心に集まる……。
「なめんじゃないわよっ」
ブオッ。
その途端、左右の鼻の穴から、勢いよく何かが飛び出して、一瞬視界が暗くなった。
ガサガサガサっ。
鼻から噴出する何かこすれるような音。
ふっ、と怪人が視界から消える。
――右斜め後ろっ
頭に響く声に従い、倒れたまま無意識のうちに顔を捻る。
ここねっ!
切れ長の目が背後に回り込む怪人を捉えた。
しゅっ。
華枝の眼前に蠢く細長い縄状の影が意志を持つように、怪人に飛びかかる。
それは狙い過たず、怪人の首に巻きつき、お返しとばかり締め付けた。形勢逆転で今度は苦悶の表情を浮かべる男。
と、同時に身体を締め付けていた縄が緩んで、身体の自由が戻ってきた。首の締め付けも無くなり、華枝は肺いっぱいに空気を吸い込む。
我に返った華枝の視界には、束になって鉛筆ほどの太さとなったケーブルようなものが揺れていた。
その先端が何本かの細い蔓と化している。蔓には、左右に5センチほどの紡錘形の明るい緑色の葉が行儀よく並んでいた。
これは……さっき兄の図鑑で見た、藤蔓?
なぜ自分の鼻の穴から藤蔓が出てくるのか、混乱しながらも身体に巻きついた蔓植物を緩め、立ち上がる華枝。
――姫っ、敵、脇坂は蔦を使います。蔦には壁を這うために吸盤があります、その吸盤にくれぐれも気をつけ……。後ろっ。
その言葉が終わらないうちに、後ろから音も無く忍び寄った蔦が顔に絡みつき、巻きひげの先端にある巨大化した透明な吸盤がぺっとりと華枝の口に吸いついた。
鼻の穴は何かで詰まっているため、こちらは呼吸に利用することができない。
「ぐっ」
再び窒息する華枝。
鼻先の藤蔓は華枝が苦しむのと同期して力を失い、脇坂の首を離れペタンと地上に落ちた。
ますます威力をまし、華枝に吸い付く吸盤。
手でつかんではがそうとしても、華枝の非力な細い腕ではせいぜい吸盤の表面にひっかき傷を作る程度。
目の前の怪人が満面の笑みを浮かべて窒息していく華枝を見つめている。
――姫、だから気を付けろって言ったでしょうっ。
この絶体絶命な状況を尻目に今更なことを呟く、脳裏の声。
「あんた、御託はいいから、出てきて助けなさいよっ」
華枝は頭の中で絶叫する。
―― ……。
「卑怯者、シカトしたわねっ」
頼りにならない援軍(?)に切れた華枝は、力を振り絞って指に力を込めた。
怒りのためか、不思議と先ほどまで頭に充満していた恐怖が消えている。
胸の動悸が高まり、妙にみなぎってくる力。
華枝の両腕の筋肉がみるみるうちに盛り上がり、セーラー服の半袖にミリミリと裂け目が走った。
「もういいっ、私一人で戦うからっ」
ぐいっ……
口についた吸盤に長い指がめり込む。べりべりとはがすと、華枝は引きちぎって足元に投げ捨てた。
脇坂が小さな叫びを上げる。
それを皮切りに華枝は両手で、身体に絡む相手の蔦を次々といとも簡単に引きはがした。
呼吸が自由になったことで、勢いを増した藤蔓はぶんぶんと唸りを上げて鞭がしなるように威嚇する。
「お、おのれ、我が自慢の蔦の吸盤を引きちぎるとは、この怪力女、覚えておけ」
脇坂は背中を向けて、逃げ去った。
両肩で大きい息をする華枝。気が付くと、盛り上がった筋肉は凹み、元通りの細い両腕が破れた半袖のセーラー服から伸びている。
――思った通りでした。ハナゲヒメ、見事な変化です。
「だから、なんなのよあんた。さっきから人のことをハナゲ、ハナゲって」
暗闇に向かってあてどなく叫ぶ華枝。
「さすが、我が華化族待望の姫。覚醒直後にもかかわらず素晴らしい戦いでした」
背後から、今度は声がリアルに耳に届いた。
「姫っ?」
振り向いた華枝の口は、閉じるのを忘れたかのようにぽかんと開きっぱなしになった。
そこには二人の男が立っていた。
一人は小柄で丸っこい目をした、赤い頬が可愛らしいやや幼さを残した少年。
もう一人は、やや年上だろうか。濃い眉毛に、大きな目、とがった鼻の一昔前の劇画の主人公のような顔立ちの青年。
彼らはどこにでもいる、男子達。
だがその容姿には、決定的に普通の男子とは異なっているところがあった……。
「姫、ご無礼をお許しください」
可愛い系の少年のほうが先ほど頭に響いていたのと同じ声で謝罪し、片膝をついて深々と頭を垂れる。
「僕の名前は松下凛。凛とお呼びください。新川西中学の2年生です」
彼の睫毛は伸びて空中に浮き、その先端からは色とりどりのポピーが数本揺れていた。
「私は日輪譲。新川南高校2年生。通称、ひまわりのジョーだ」
もう一人の濃い顔の青年が腕組みをしながら街灯にもたれて名乗った。両耳からは耳毛が伸び、そこから伸びた左右一本ずつの小ぶりのひまわりが顔をレーダーのように回転させている。
「このひまわりは、細かい音をも皆私の耳に伝える。戦闘中には脇坂の立てる音を感知し、凛を介してあなたに伝えたのだ」
恩着せがましい物言いも、華枝の耳には、ほとんど届いていなかった。
「あんたたち、なんの化け者なの……」
唇を震わせて後ずさりする華枝。
「私達はあなたの味方です、姫」少年が華枝の方に一歩を踏み出す。
「よ、寄らないで、物の怪っ」
「物の怪ではありません。姫と同じ華化族です」
凛と名乗るあどけない顔の方の少年が黙って華枝の方に手鏡を渡した。
薄暗い街灯の下、そっと覗き込む華枝。
鉛筆くらいの太さの鼻毛の束が15センチほど鼻から飛び出し、その先端が藤蔓と化して空中に伸びて浮遊している。藤蔓からは勝利を喜ぶように満開の見事な花が何本も垂れ下がっていた。バカボンのパパも真っ青な奇天烈ぶりだ。
「な、なんなのこれは~~~」
「お言葉を借りれば、姫も物の怪です」凛が呟く。
一番の化け物が自分だと気づき、華枝は地面にへたり込んだ。