嫉妬
妙な体験を反芻しながら、校門を過ぎると華枝はまっすぐに園芸部の温室に行き、扉を開けた。
むうっとばかりに、活発な代謝が産生する生臭いような濃い香りがいきなり華枝を包む。鬱陶しくもあるが、この香りを嗅ぐたび、華枝は植物も「生き物」なんだなあと実感する。
植物たちが、なんだか水を撒く用意をする自分を凝視しているようで、華枝は苦笑した。
「乾いてるのは、わかったわよ。みんなすぐあげるから待ってなさい」
誰に言うともなしに呟いて、華枝は蛇口を捻ってホースからじょぼじょぼと水を出し始めた。早くしろとばかりにムンムンと迫っていた植物のオーラが気のせいか少し落ち着く。
植物はいい、裏表なく自らの欲望に正直だ。人間と違って煩わしさがない。灼熱の温室の中で汗を垂らして水をやりながら、華枝は微笑んだ。見目の良い先輩に目が眩みふらふらと入部した園芸部だったが、自分でもびっくりするほど適合している。
「工藤さん」
温室を終えて玄関の花に水をやっていると、涼やかな声が華枝を呼んだ。
それは誰あろう、華枝の一目惚れの相手。
「鳳先輩……」
「温室、ありがとう。今日も暑いね」
三年生の鳳俊介は涼やかな瞳を空に向け、少し眩しそうに眼を細める。
ああ、まるで背景に花をしょったきれいなアニメの絵から抜け出したよう。
普通の男にある立ち昇るような青春のぎらぎらからすっぱりと抜け出たような、高貴で淡白なその雰囲気。草食系男子という表現があるが、園芸部の部長ということから言えば、さしずめ花飾系男子であろうか。
華枝はぼーっ、としてその憧れの君を見つめた。
「工藤さんはいつもよくやってくれているから、一度慰労の意味で何処かにお誘いしなくちゃな」
「えっ」
突然の展開に華枝の細い目が丸く見開かれた。
「どう?」
「はっ、はいっ」
定番の不機嫌な表情が、一瞬にしてしおらしい少女の顔に変わる。
美少女で有名な華枝は、よく異性に声を掛けられる。しかしそのほとんどが、がっかりな相手ばかり。がっかりでない場合であっても欲望が前面に出るとそのぎらぎらした迫力が華枝を圧倒し、嫌悪感を生じさせるのである。
華枝は男性が嫌いだった。
唯一の例外は華枝の兄の務。高校1年生まで、数多ある誘いに目もくれず正統ブラコン道をつき進んできた華枝であったが、この4月、鳳先輩に出会ったことでとうとう彼女の異性感は風穴を空けられたのである。
「工藤さん」
「は、はい」
あまりのことで、思考停止に陥った華枝に鳳が優しく話しかける。
「今度の夏祭りの日に、一緒に夜市でも行こうか。浴衣でも着て、どう?」
長身の鳳がかがみこむようにして、華枝の顔を覗き込んだ。
慌てて、鼻に手を当てて顔を下げる華枝。
「は、はい」
手にしたジョウロの口が真下に向き、じゃばばばばっと水をまき散らした。
「どうしたんだ、それ。水遊びでもしたのか」
ペタペタと床に足跡をつけながら裸足で廊下を歩いてきた華枝を、細い目を丸くして出迎えたのは今年大学3年生になる兄の務だった。兄妹だけあって、表情はそっくりである。
「ジョウロの水がかかっちゃたの」
ずぶ濡れの足、という状況にも関わらず、いつになく上機嫌な妹の表情を見て、兄の顔が心なしかほっとしたように緩んだ。
「ねえ、聞いて」
風呂場で足を洗い、出てきた華枝は台所で麦茶をコップに注ぎながら兄に話しかけた。
「今日、新川のスクランブル交差点で、すごくヘンな女に会ったの。髪の毛にバラの花が咲いていてそれがゆらゆら揺れているの」
「僕はよく知らないけど、最近奇抜なファッションって流行っているからな」
「『やっと見つけたわ』って言われたのよ、その女に」
「変な宗教かもしれないなあ……」
務はどこか上の空で答える。
「ところで、華枝」
「何?」
言い出しにくそうに口ごもる兄を怪訝な表情で見上げる妹。
「今日、ちょっと夜、出てきていいかな。ゼミの集まりで、もしかすると帰りが明日かも」
「んん……」
華枝の目が吊り上る。静かに麦茶を置いて、兄の方に近寄る華枝。
「お、おい、よせよ」
Tシャツに鼻を寄せて、顔を放したとき、華枝の顔は般若と化していた。
「なによ、この臭い」
「なに、って、汗だよ」
慌ててTシャツに鼻を寄せて嗅ぐ務。しかし、その狼狽はすでに鋭い妹に見抜かれていた。
「このかすかな化粧の香り。お、ん、な?」
「関係ないだろ、お前には」
「なによ、お父さんとお母さんが旅行中だからって、お兄ちゃんがしっかり私を守るようにって言われたでしょう」
「い、いや、だから、ここが正念場、いや違う、ゼミで重要な集まりなんだ」
「ダメ、絶対ダメ。お兄ちゃんが恋人を作るなんて許せない」
「何言ってるんだよう~」
頭を抱える務。このやや気弱な兄は昔から、気が強くて女王様然とした妹にどうしても逆らえない。
「お兄ちゃんは、私より大切な人がいるの?」
ああ、似たセリフを別な場所でも聞いた。と、将来の嫁と小姑の戦いに思いを馳せながら務はがばっ、と土下座した。
「許せ、華枝」
「いや、絶対許さない。どうせ私は嫉妬深くて心の狭い妹ですよーだ」
自分がデートの誘いを承諾したことは棚に上げて、華枝は思いっきりアカンベーをした。