後悔
暗闇から、暗闇へ。
夏といえども、夜風は涼しい。
何も身に着けていない華枝は両手で揺れる胸を押さえ、鳥肌の立った身体を縮めながら、そろそろと人気のない暗闇を歩いていた。
少しでも明るい場所は、息を詰めて周りを見回し駆け抜ける。
いつ、自分の体色が変化するのか、人目にこの姿をさらすのではないかという恐怖にさいなまれながら。
あの時。
追い詰められた華枝の頭の中に、ふと兄の読んでいた本がよぎった。すなわち、カエルの下垂体中葉が体色変化を起こす話。
もし、増幅された下垂体のパワーを総動員すれば、人間でも可能かも。
いや、私は人間ではない。特殊な遺伝子を持った華化族だ。きっとできるに違いない。華枝の脳裏に光明が走った。
体が黒くなって見えなくなるのであれば、鼻毛を出しても気づかれない。
華枝の変化を止めていた心のつっかえ棒がすとん、と倒れる。するすると鼻毛が伸び、下垂体が刺激されるときのあの高揚感が湧き上がってきた。
全身が、しびれるような熱さで包まれる。
変わっている。華枝は本能的に自身の変化を確証した。
そっと、携帯を出して開けてみる。
ぼおっ、とした光の中に映し出された真っ黒な華枝の手。
変色した。
華枝も驚きをもって自分の変化を見つめる。
しかし、感嘆している暇無かった。
先輩に鼻毛が見つからず、逃げる方法はこれしかない。華枝はえいっとばかり浴衣と下着を脱ぎ捨てると電源を切った黒い携帯でカギを隠して、その場を離れたのであった。
それにしても私、馬鹿なことをした。
かえって、先輩にヘンに思われたかも。
後悔と羞恥と寒さに震えながら華枝の目から涙がこぼれる。
夜風に吹かれ、醒めた頭になった華枝は嵐のように押し寄せる負の感情に打ちのめされていた。
なぜ、あんなに理性が無かったのか。
まるで夢から醒めたように、華枝は今まで不思議なほど感じていなかった恐怖をも感じていた。
このまま、たった一人で暗い家に帰って、襲撃を待つのか。いや、もうすでに敵は先回りしているかもしれない。
かと言って、何一つ身に着けていないこの状況で他に行ける場所はない。
おそるおそる家の前に来た華枝は足を止めた。
明かりがついている。
敵か。心臓が鷲掴みにされたような、衝撃。
しかし、明かりがついているのが二階の窓だとわかると、華枝の目から涙があふれた。
あの部屋は。お兄ちゃん!
そおっと、ドアの鍵を回し、家に入る。玄関と一階は暗く、華枝は息をひそめて黒い身体を闇に滑り込ませた。
「誰か、いるのか」
兄の声、にほっとしたのもつかの間。兄妹と言えどもこの姿を見られるわけにはいかない。何か着るもののあるところ……。
華枝は、風呂場の戸にそっと手を掛ける。だが、こんな時に限って、風呂場の古い戸はぎいっと大きな音を立てた。
兄の足音が近づいて来る。
「人畜無害な乙女がなんでこんな目に合わなきゃならないのっ」
半ばやけ気味に呟きながら、慌てて暗い場所を探す華枝。
風呂場にぱっ、と電気が付き、兄の顔が覗いた。
「あれ、風呂場開けてたっけ」
風呂場の横の洗濯機の中に飛び込み、洗濯物で体を隠す華枝。驚くべきことに、一瞬で体色が洗濯機の中の薄暗い色と同化した。
兄は、ごそごそとそこらを歩いていたが、あまり物事を深く考えないタイプが幸いしたのか「気のせいかな」という独り言が聞こえてきた。
「ま、いいや、ついでだから歯でも磨いていこう」
なんで、そんなこと思いつくのよっ。華枝が心の中でののしる。
「あれ? 誰かに叱られたような気がする」
兄は首をかしげながら、歯ブラシを置いた。
「この時間だったら、まだ、なんか食べるかもしれないしな、あ、そうそう」
突如、華枝の頭上から白い粉が降ってきた。バタンと、洗濯機の蓋が閉められる。
きゃああああ、洗濯機回す気だわ。
やめて、やめて、何処か行って。心の中の絶叫が聞こえたのか、兄はスイッチを押さずに独り言を言った。
「タオルとかまだ洗濯物がでるかもしれんな。暑いしビールでも飲んで華枝を待つか」
兄が台所に行ったのを確かめて、華枝は足音を忍ばせて2階の兄の部屋の隣の自分の部屋に滑り込む。
服を着て、明かりをつける。
おそるおそる鏡を見ると、服を着た黒い人型に徐々に色が付き、一分もたたないうちにもとの姿になった。
「ああっ」
安堵の声を上げて、華枝はへたり込んだ。
「帰ってたの? 遅かったね」
兄の声がする。
「え、ええ」華枝はドアを開けて兄に顔を見せた。「今日は塾の特別講義だったの」
「友達は帰ったの?」
兄は華枝の女友達が来たということに微塵の疑いも持っていないらしい。
「また、来るかもしれないので、その時はよろしく」
「うん、まあその時はいつでも言って」兄は存外素直に頷いた。
「あれ、お前、頭の上に白い粉がかかってるぞ、なんだこれ?」
頭の上に伸ばされた兄の手を思わず払う華枝。お兄ちゃんのせいよ、と心の中で頬を膨らませる。
「大丈夫だから」懸命の作り笑顔をして、華枝はけんもほろろにドアを閉めた。
一人になった華枝は他人の匂いを感知しないかどうか、鼻をひくつかせる。
特に、気になる匂いはないとわかった彼女はベッドの上に倒れこんだ。
そういえば、先輩は大丈夫だったろうか。リンやジョーは無事だろうか。
震える指で鳳先輩にメールを打つ。
いつもすぐ来る返事が、待てど暮らせど戻ってこない。
怒っておられるのかな。いや、もしかして、奴らが鳳先輩に何かしたのでは。強い胸騒ぎに華枝は急に息苦しくなって胸を押さえた。
相談する、とすれば凛たちだが、夕方の自分の所業を思い出すと、とてもメールを打てるものではなかった。
ああ、天罰かもしれない。
それにしてもなぜ、鳳先輩にあれほど傾倒していたのか。
華枝は靄が晴れるように急に自分の状況を冷静に判断できるようになっていた。蔦の怪人から襲撃を受ける直前、肩を抱かれたときに華枝の心の中で浮かび上がった違和感。その時から、華枝は奴らの襲撃に恐怖を感じるようになり、物事を理性的に判断し始めている。
先輩の事を嫌いになったわけではない、ただ、華枝は先輩の中に隠された「貪欲」を感じてしまった。ごくわずかな幻滅、それが華枝の目を覚ましたようだ。
「お兄ちゃんに相談しよう」
華枝は、下でビールを飲んでいる兄の傍らに座った。
「ねえ」
いつもは歯に衣着せぬ奔放な物言いをする妹が、言い出しにくそうに、口ごもるのを見て、兄の務は不思議そうな顔をした。
「どうしたの」
「私、鼻毛が伸びて、そこから植物が出現するの。華化って変化みたいなんだけど」
しばらくの沈黙。
「それは、何。手品? それとも新しい都市伝説?」
ビールでほろ酔いの兄は、笑顔で尋ねる。
「本気よ、私」妹の目はきわめて真剣である。
「じゃあ見せてくれる?」
兄は面白そうに華枝の鼻を見つめた。
「ええ」
華枝は、意識を集中する。
しかし、鼻毛が伸びない。
恥ずかしいとか、兄を巻き込むのか、などという意識下の感情が、邪魔をしているのだろうか。
「の、伸びない、いつも伸びるのに」
「大丈夫。誰でも鼻毛は、伸びるもんさ」
務は、華枝の頭を撫でた。
「なにか、悩みがあるのか。数日前から変だぞおまえ。最近、思春期にノイローゼが増えているって聞いたから、気を付けた方がいいな」
務は華枝の顔を覗き込んだ。
「一緒に行こうか、病院。でも、お兄さんの方が問題とか言われたりしてね。ははは」兄が無理に明るく笑う。
「いいの」華枝はため息をつく。「うそ、お兄ちゃんを担いでみたかっただけ」
華枝は重い足取りで2階に戻った。
先輩からの返事は来ていない。
誰か、助けて。華枝は孤独感に苛まれながらベッドに倒れこむと、枕を抱きしめた。