宗家
「文化棟って、広いんですね」
凛が感嘆の声をあげる。
「学業以外のところで点数を稼ごうとしてるのよ、うちの高校」
華枝の言葉はにべもない。
「能をご覧になったことがありますか」清一郎が微笑んで三人に尋ねる。
「テレビとかで、ちらりと」凛が弾んだ声で答えた。「なんか厳粛な感じで、魅力的です」
「この空間、使われずに物置になっていたので学校側と折衝して手に入れました」
さすが、宗家の息子である。まだ雑然として埃っぽいが合気道でもできそうな板の間の空間が部室として確保されていた。壁には、能舞台を模したのか手書きの松の木の絵が飾られている。
「能は歌舞伎とともに、世界に通用する伝統芸能のひとつです。全て無駄なものをそぎ落とした、簡潔かつ深淵な表現が能の魅力です。それと……」
すすすすすす、と清一郎が三人の目の前で歩んで見せた。
足が磁石で床に吸い付いているかと思えるほどの、滑らかな運び。腰をおとし重心を下にしているのに、身体に一寸のぶれもない。興味が無い華枝ですらも美しいと思える所作だった。
「この、独特の身体の動きも能の魅力です」
普通に立っていると、その細い肢体と淡白な表情で背景に溶け込むかと思うほど存在感の薄い清一郎だが、いったん身体を動かすと爆発するような存在感で三人を圧倒する。
「あと、これが面です」
手にしたのは見開かれた金色の目を持つ濃い眉毛と頬に向けて逆立つ口髭の、少し不気味な面だった。
「これは怪士。怨霊などを現す面です」
――姫、気を付けて。かすかですが僕らのものとは違うアトモスを感知しました。
凛の声が脳裏に響く。
――もしかして、こいつ……。
「僕は面をつけると、心がひきしまり、違った自分に変化するのです」
清一郎が面を顔に付けた。
「そろそろ、正体を現すってわけ?」
華枝が腕を組んで、清一郎を睨み付けた。
「お望み通り、人目のないところに来てやったわよ。私も聞きたいことがあるの」
白目が赤く彩られた怪しい面を付けた清一郎が三人の方に向き直る。言葉通り、別人になったようなオーラが全身を包んでいる。
「さすが、姫。見破っていたましたか」
「ま、五分五分と思ってたわ。狙われそうな日に、声をかけてきた怪しい人物がいれば疑わない方が変よ」
「ふふふふふふふっ」
まるで怨霊がとりついたかのように、清一郎の身体が小刻みに震えた。
凛の睫毛、ジョーの耳毛、華枝の鼻毛の付け根が臨戦態勢とでもいうように熱くなる、その時。
「おおおおおおおおおおおっっっっ、のおおおおおおおおおっつ!」
部室全体に朗々と声が響き渡った。
ぶあっ。
両手を着物の袷にかけ、清一郎が両脇に引いた。
「きゃあっ」思わず華枝が叫びをあげる。
透明と言う言葉がぴったりの清一郎からは想像もつかない、もじゃもじゃの胸毛が白い胸に躍っていた。
もろ肌をぬいで、白い体をくねらす清一郎。
「オー、ノオオオオオオッ」
叫びながらすり足で三人にものすごい速さで近づいて来る怪士。
「また、訳のわからない馬鹿が出てきたわ……」
華枝はうんざりとため息をついた。
「懲りない馬鹿は藤の鞭でおしおきよっ」
「ノオオオオッ」
清一郎の胸毛から松の枝が出現した。
「秘伝松葉の舞、お食らいっ」
ぶぶぶぶぶっ、清一郎の松が大きく揺れたかと思うと、緑色のオーロラが出現し、そのまま勢いよく三人に向かって飛び込んできた。
「松葉だ」動体視力の良い凛が叫ぶ。
緑のジェット噴射は容赦なく三人を襲う。
「ったたたた」華枝をかばって前に出た凛が松葉のハリネズミとなり転げまわった。
「今度は私が相手」
ジョーの言葉とともに、大きな葉をいくつも広げたひまわりが松葉に向かう。松葉に対して葉が動き、バリアーとなるひまわり……のはずだったが、ひまわりはすぐさま萎れて、耳からだらんと垂れ下がった。
「どうしたのよ。いつにも増してダメじゃん」
ジョーの後ろで華枝がため息をつく。「朝食を抜くからじゃないの」
「納豆が苦手で、あの匂いがすると食欲がわかないのです」
弁慶の立往生のごとく松葉を受け、痛みに顔をゆがめて告白するジョー「武士は食わねど高楊枝」
「虚勢を張らずに、パワーが無いなら引っ込んでなさいっ」華枝の怒号が響く。
華枝をかばったジョーも松葉だらけになって、床に倒れこんだ。
「許さないわ」
華枝が鋭い目で清一郎の方を向いたその瞬間。
カッポーーーーーン。
華枝の顔にべちゃりとした感覚とともに白髭の翁の面がはまった。
「くっ」外そうともがく華枝、しかし、ねちゃねちゃしたものが顔にぴったり付着し、顔から外れない。
「ノー、ノー、ノーーーウっ、私の最強松脂でくっついた面は簡単には外せませんよ」
華枝は面にくりぬかれた小さい目の穴から二人を捜した。視界が狭いので、首を回さないと見たいところを見ることができない。
凛は女の面、ジョーは口が松脂で閉じられた獅子舞の面が被さっている。
「ひまわりの方は、能面ではありませんが、耳が隠れないと意味が無いのでね」
二人は息がほとんどできないのか、床でのた打ち回っている。が、華枝の面は顎で切れていて、上下の面が紐で結ばれてくっついているせいか息ができる。
「それは翁の面に特徴的な切り顎です。姫は特別ですから、酸欠になってもらっては困ります。元気なお姿でぜひ我らの陣営にお招きしたい」
ちらりと、清一郎がもがく二人に視線をやる。
「雑魚は放っておいて、さあ、私とともに参りましょう」
「なぜ、私を呼ぶの」
翁の面を外そうともがきながら華枝が叫ぶ。
「我ら華化族が植物を従えることのできる強大なアトモスを得るためには、華化族最強の姫との受精が必要なのです」
「受精っ、冗談じゃないわ」
清一郎はにやにや笑いながら大げさに首を振った。
「いや、あなたが想像されるようなことではありません。正確に言えば、あなたの具現化される花と、我らが首長が出す花との受粉です」
「私の協力が必要ならば、なぜ最初私を襲ったの」
「ご無礼をお許しください。姫が本当に、華化の力をお持ちかどうか測る必要がありました」
「私の面を外しなさい」
華枝の命令に、清一郎は首を振る。
「あなたの力は測り知れない。面をはずすことはできません、そのままの姿で、さあ、こちらに」
「じゃあ、あの二人の面を外して」
華枝は苦しそうに床に転がる二人を指差した。
「申し上げたはずです。雑魚は放っておけと」
「このろくでなし」鼻がつーんと痛むが、松脂で鼻の穴がふさがれ鼻毛が伸長できないせいか、いつものようにみなぎるパワーが出てこない。
「さあ」離れていたはずの清一郎が、滑るように華枝に迫る。
二人の方をちらりと見た華枝は、視野の中に清一郎を捉えるのが一瞬遅れた。
それが命取りだった。
華枝のきゃしゃな手首はあっという間に、怪人に掴まれていた。清一郎は抵抗する華枝の両手首を、片手で拘束する。「言うことを聞かないと手荒ですが、縛りますよ」
不気味な面をつけて胸毛を揺らした怪人の手には、着物に使うらしい紐が握られていた。
「いやよ」振り払おうとしてもがく華枝。細見の男だが、力は存外に強い。
抵抗しようにも、べちゃりと面の内側を被った松脂が鼻の出口をふさぎ、頼みの鼻毛が封じられている。華枝は唇を噛んだ。
こんなヘンな奴に負けてたまるものか。
明日はデートなのに。
何とか……。
その時、華枝の頭に鼻腔の解剖図が浮かんだ。
「姫、手荒な真似はしたくないんですが」
華枝の眼前に、怪士の面が迫る。
「この変態っ」
叫びとともに、翁の切れ顎の隙間から藤蔓が噴出し、清一郎の首を締め上げた。
「ノオオオオオオッツ」
華枝の手首を放し、飛び下がる清一郎。
「なぜっ、鼻の穴は塞いだはず」
「まぬけ、口と鼻はつながっているのよ」
鼻腔の後部に出た鼻毛がUターンして口から出ているため、しゃべりは苦しそうだ。
華枝の腕の筋肉はみるみるうちにぐりぐりと盛り上がり、姫はおもむろに自分の顔に張り付いた面をクッキーでも割るかのように砕いた。
「おおっ」胸毛男は苦しさのあまり膝をつく。
鼻の穴に松脂が詰まり、口が藤蔓の葉で覆われているため呼吸がし辛いのか、藤蔓を操る華枝の顔も徐々に青ざめていく。
華枝は足元に這いずってくる、今回も役立たずの二人組の面を急いで破った。
「はああああっ」華枝の呼吸が限界に来たのか、大きな息とともに敵を締め上げていた藤蔓は一瞬消えた。
「のう……っ」
この機会を逃さず清一郎の掛け声とともに胸毛の松が大きくなる。
三人の上に松ぼっくりが雨あられのように降ってきた。地上に落ちるとともに、破裂する松ぼっくりたち。
「食らえ、ボックリボンバー」
華枝がひるんだ瞬間、清一郎が窓ガラスを突き破って、脱出した。
「覚えておけっ」
「追うわよっ」と、割れていない窓ガラスをがらりと開けると華枝は飛び出ようとした。一階なので、怪我をする危険はない。
しかし、突然華枝は立ち止まった。
「や、止めたわ」ポシェットからマイ鼻毛切りを出し、手鏡を出す。
どこで鳳先輩に会うかわからない校内で、口から鼻毛が垂れたまま出歩くわけにいかない。
手鏡の中に映った自分の姿を見て、華枝は黙り込んだ。松脂は消えているが、髪の毛はぼさぼさで、セーラー服の袖は例のごとく破れている。
「今日は、先輩に会えない」
華枝はがっくりと呟き、携帯を取り出した。
後ろで、酸欠でダメージを受けた二人が大きく息をしてダウンしていた。




