邂逅
陽炎がたつ、真夏のスクランブル交差点。
信号が変わるまでほんの少しの待ち時間のはずなのに、照りつける日差しと息苦しいような湿気で通常の何倍もの時間に感じられる。
なんで今日に限ってこっちの道を選んじゃったかな。
華枝は、自分の行く手を阻む赤い信号を見ながら、いらいらと青い水玉のハンカチを取り出した。
白いセーラー服に紺色の細い筋が二本、新川東高校の制服の半袖からすんなりと伸びた小麦色の手がハ ンカチで汗の伝う首筋を押さえる。華枝の首が軽く傾けられるのと同時にさらり、と肩までの黒い髪が揺れ、隠れていた白いうなじがちらりと見えた。その瞬間、周りの人々が一斉に自分の方を盗み見るのを感じ、華枝はうんざりといったような大きなため息をついた。
視線を集めるのも無理はない。
きりりとした細い眉、長い睫毛と切れ長の瞳。主張しすぎない程度の高めの鼻、薄めだがはっきりとした真紅の唇。華枝の容姿は、もう少し背が高ければモデルと言っても疑われないほどの完璧な調和を保っていた。眉間にしわを寄せた不機嫌そうなその表情も、美少女ならば許される。
目の前を行き来するカラフルな車たちと信号機を見比べながら、華枝はもう少しの辛抱だと自分に言い聞かせていた。
ついに、車の流れが止まった。
華枝の表情が緩んだ。今はまだ赤信号だけれど、もうすぐ青になるはずだ。横断歩道の向こう側の群衆が動き始めたら、やっとこの絡みつくような無遠慮な視線から逃げ出せる。
と、視線を信号機から一旦横断歩道に下げた華枝だったが、妙なものを見た気がしてゆっくりと顔を上げ対側で待つ人々に焦点を合わせた。
まさか……ね。
しかし、彼女が見たものは夢幻ではなく、確かにそこにあった。
なに、これ。新手のファッション?
信号が変わり、噴出されたかのように向かってくる群衆。その中に、華枝の視線を釘づけにしたひときわ背の高い、細長いシルエットの漆黒のワンピースを着た女性がいた。だがもちろん、少々背が高いくらいでは、華枝も驚きはしない。
問題はその奇抜なヘアスタイルだった。
長い髪が、重力が無いかのように四方に浮遊している。例えるなら、お寺で見た仏像の光背のようだ。
異様だったのはそれだけではない。髪の毛のちょうど中間くらいから、細い束になった髪が、幾筋ものバラの蔓になり、満開の赤い小さなバラの花がいくつも、まるで生きているかのようにゆらゆらと揺れているのだ。
なぜ誰も、驚かないの。
慌てて周囲を見回す華枝。
しかし、信号が変わった途端、先ほどまで華枝をちら見していた人々までも、人が変わったかのように前方を向いて、立ちすくむ華枝を風を切って追い抜いて行く。
周囲にバラを纏う女性の周りには、ぽっかりと空間が空いているが、誰も気にする様子はない。
もしかしてこれを見えていないの、誰も。
そんなはずはないと、立ち止まったままうろうろと左右を見る華枝は、後ろからの人波にがつんと横断歩道に押し出された。よろめいて、数歩進んだその時。
「あ」
少女の瞳の真ん中に、先ほどよりずっと大きくなったその女性の姿が映っていた。斜め前に立っていたはずなのに、方向が変わり明らかに華枝の方に向かって来ている。
ずんずんと視界の中の女性が大きくなり、顔がはっきりと目に飛び込んできた。
舞台に立てばきっと映えるであろう日本人離れした顔立ち。整ってはいるが、顔の一つ一つのパーツがむやみに大きい。高い鼻に、グイと盛り上がった唇、それでなくても目立つ吊り上った両目の周りを、アイシャドーでさらにくどいぐらい際立たせている。若いようにも見えるし、中年と言われても、頷けるような独特の雰囲気である。全体的に無表情だが、その鋭い目が射抜くようにまっすぐ華枝を見ていた。
眼前に迫った女性は、突然華枝にうっすらと微笑んだ。周囲のバラがざわざわと大きく揺れる。甘美な、というより妖艶なバラの香りが華枝を包み、蛇に睨まれた蛙のように、華枝は全身を硬直させた。
妖気に包まれ、本能的にもう逃げられない、と思ったその瞬間。
突然、つーん、と華枝の顔の真ん中に、鋭い痛みが走った。
ぶつかる寸前。
「やっと、見つけたわ」
すれ違いざまにそう呟くと、その女性は、体をかわし華枝の横をすり抜けた。チクリとバラの棘がセーラー服から出た二の腕を引っ掻き、かすかな痛みを残してバラの香りは遠ざかって行った。
一瞬だが、永劫に思える時間。
唖然として立ち止まっていた華枝は響くクラクションで我に返った。
横断歩道にいるのは、華枝一人。信号は赤に変わっており、早くどけとばかりに横合いまで来ていた車のクラクションが鳴った。
目の前の横断歩道の距離は長い。仕方なく、華枝はもと来た方に戻って、再び信号を待つ群衆の中に混ざった。
あの不思議な女性はもうどこにも居ない。
なんて不気味。あの女、暑さのせいで、ヘンになったのかしら。
ぎらぎらと照りつける太陽の日差しを浴びながら、華枝はまた赤信号を睨み付けた。