男
□
「真治さん…大人って、なんすかね」
孝太は、ため息をつきながら、ぼそっと呟いていた。
「孝太…熱があるなら、早めに薬もらっとけよ。来週試合だろ?」
あっさりと、彼の質問は蹴り飛ばされる。
「オレ、本気で聞いてるんすけど…」
先日、美奈子を前にして自分の気持ちに気づいた孝太は、自分の感情を持て余していた。
リングに上がっている時は、他のことを考える暇などないが、夜は彼にとって悩ましい時間でもあったのだ。
「大人ねぇ…ボクサーには関係のない言葉だな」
本気の悩みを、真治はあっさり斬って捨てた。
「え? なんでですか!」
「あったりまえだろ? 相手どつき倒して金もらおうなんて考えてる奴が、物分りのいい大人になんてなれるか? そんなことを考えるのは、引退してからだ」
彼の見事な正論に──孝太の計画は打ち砕かれた。
そ、そうだったのかっ、と。
「逆に言えば、大人になんぞなってしまったら小器用な戦いしか出来なくなんぞ…ボクサーなんか、子供でナンボだ」
言われて、じっと自分の拳を見る。
孝太には、これしかない。
他の生き方が、想像つかない。
近所に、このジムがあったのが運のツキ。
小学生の頃から、いつも窓から覗き込んでいた。
カッコイイなぁ、と。
その時代、このジムには、世界チャンプが一人いた。
大きな試合があると、取材が来ることもあったが、大人がいると小さい孝太は見られないので好きじゃなくて。
試合の合間の、取材の来ない時期に、窓ガラスにへばりついていた。
『なんでぇ、坊主。ボクシングが好きなのか?』
声をかけてきたのは、そのチャンピオンだった。
口下手な孝太は、ただコクコクと首がもげんばかりに肯くしか出来ない。
『お前を知ってるぞ、坊主。もう三年近く通ってきてるだろう…中ぁ、入れ。好きなだけ見ろ』
大きな大きな手が、彼をジムの中へと押し込む。
汗臭く、男の苦しい息遣いのひしめく世界。
ああ、ああ。
ただボクシングを好きだと思っていた孝太は──その瞬間、ボクシングに恋に落ちたのだ。
※
チャンピオンは引退し、彼はいま孝太のトレーナーになった。
中学三年の頃、親の転勤の話が出て、ボクシングのことで相当すったもんだのやり取りがあったが、結局トレーナーが預かってくれることで、孝太だけ残ることが出来たのだ。
高校に行かず、ボクシングで身を立てる。
その言葉を言った時の、親の呆気にとられた顔は、いまでも忘れられない。
第一。
孝太の脳みそでは、受かる高校などたかが知れていたのだ。
17になれば、プロ試験が受けられる。
高校に行く暇など、なかった。
結局、彼はトレーナー預かりとなり、ただボクシングに打ち込む日々を送ることが出来た。
かくして、17歳でプロ試験に合格。
拳で金を、稼ぐ人間となったのだ。
殴られるのは痛い。
けれども、負けるのはもっと痛い。
ただ、それだけの単純な理由で、孝太はただただ勝ち続けてきた。
プロ成績での敗北数は、1つのみ。
このまま行けば、フライ級チャンピオンとの挑戦権だって手に入る。
背がそんなに高くない日本人は、フライ級で登録している者も多く、現在のチャンピオンも日本人である。
体重50.8kg以下。
絞りに絞った身体で、3分を戦い抜く。
3分で、相手をぶっとばすことを考え、1分休む。
そしてまた、相手をぶっとばすことを3分考える。
その永遠とも思われる繰り返しを、断ち切れるかどうかは自分の腕にかかっているのだ。
リングに上がった孝太は、相手をただただ倒すことに集中する。
その集中力が、トレーナーにおまえの長所だと言われた。
「だから、大人になろうなんて馬鹿なこたぁ考えんな」
真治のとどめの言葉に、孝太は頭をバリバリとかきむしる。
それでは、美奈子は振り返ってくれないではないか。
「じゃ、じゃあ、『男』になる方法ってありますか!?」
大人がダメなら、男だ。
孝太は、彼女をあきらめ切れなかった。
ボクシングで培った不屈の精神は、こんなところでも生かされていたのだ。
※
「『男』になる方法っていやぁ…」
ニヤァリ。
真治の顔が、いやらしく緩んだ。
「そうかそうか…そういや、お前は行ったことがなかったよな! よし、今日は俺のおごりでいいところに連れて行ってやる!」
お前も男になれ!
がっしりと。
彼は孝太の肩を、渾身の力で掴むのだ。
「え、ちょ、真治さん?」
ワケが分からないまま、孝太は引きずられて行った。
「おーい、お前ら。どこ行くんだ?」
他の部屋に住んでいる先輩に、不審げに声をかけられる。
「ちょいと、孝太を『男』にしにな」
真治は、浮かれ騒ぎながら答えるのだ。
「あー…そうか…清らかな孝太は、今日で見納めか。ご利益があるかもしれんから拝んどくか」
パンパン。
どうして自分はいま、拍手を打たれて拝まれているのか。
大体。
真治は、どこへ連れて行こうと。
「わぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
結果──彼は、その店を飛び出して、一人で部屋へと逃げ帰ったのだった。
心臓が、ばっくんばっくんしている。
何だか分からないケバい女に、何だか分からない間に、何だか分からないことをされそうになったのだ。
身体の快楽のことくらい、孝太にも分かる。
一人で抜いたことだってある。
だが、他の女を前に、そんなことをしようと思ったら。
頭が、自動的に彼女の顔を美奈子にすげ替えてしまったのだ。
そう考えてしまったら、もうダメだった。
真治を置き去りに、彼は自分の部屋に戻っていたのである。
ああ。
「美奈子さんに…会いてぇな」
ボクシングをしていない時は──彼女のことばかりが、こうして孝太の頭の中を占め続けたのだった。