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10歳


 三ヶ月。


 我ながら、よく我慢したと思う。


 孝太は、ついに『社交辞令』を打ち砕くことにしたのだ。


 一度だけ、と。


 美奈子も、言ったではないか。


『一度だけでいいから』と。


 ということは、一度の訪問なら社交辞令とやらでも、許されるのではないだろうか。


 彼は、そう考えたのだ。


 その結論が出たのが、今日。


 だから、午前中のトレーニングが終わった後、慌てて電車に飛び乗ったのである。


 美奈子の家に到着したはいいが、玄関を開けるまで、どれほどためらったことだろう。


 まだ、世界チャンプの待つリングの上に、上がれと言われた方がマシだった。


 いや、そっちだと、逆に喜んで上がってしまうだけだ。


 この玄関を開けることは、世界チャンプに向かうよりも、大量の勇気が必要だった。


 近所の人に、不審な目で見られていることに気づき、ようやく彼はそれに手をかけたのだ。


 ごめんくださいと言った直後。


 はっと、孝太は気づいた。


 オレ、手ぶらじゃん、と。


 これでは、ちゃんとした訪問に見えないではないか。


 無礼すぎるんじゃないか。


 しかし、彼はもはや声を発してしまっていて、ここで方向転換するわけにはいかなかった。


 ど、どうしよう。


 足音が。


 静かな足音が、近づいてくる。


 心拍数が、跳ね上がっていった。


 美奈子だった。


 三ヶ月ぶりの、美奈子がそこにいた。


 ど、ど、ど、ど、どうしよう。


 喉まで心臓が跳ね上がる中、とんでもないことが起きた。


 彼女の目から、涙が零れ落ちたのだ。



 ※



 嬉しくて泣く。


 その経験は、まだ孝太にはない。


 どんな試合でも、勝てば本気で喜んでいるが、涙は出たことがなかったのだ。


 美奈子は、いまそういう状態だというのだ。


 なのに、孝太に心配かけまいと、一生懸命微笑もうとする。


 その様子が、余りにも可愛らしくて。


 胸の奥で、この三ヶ月くすぶっていたものが、一瞬で着火したことに気づいて、慌てて彼は美奈子から手を離したのだ。


 あ、危なかった。


 ばくばくする心臓を抱え、孝太はその感情を飲み込んだ。


 いま、我に返っていなければ、間違いなく美奈子を抱きしめていただろう。


 あー。


 そして。


 そして、ついに気づいてしまった。


 会いたかったわけだ。


 社交辞令と言われても、あきらめきれなかったわけだ。


 いくら、馬鹿な自分でも分かった。


 孝太は──彼女を好きなのだ。


 いい人、という意味合いの好きじゃなく。


 男女、という意味で。


 お、お、お、落ち着け、オレ。


 美奈子から目をそらしたまま、必死に自分に言い聞かせる。


 何としても、冷静にならなければならなかった。


 美奈子に惚れた自分に、恥じるところはまったくない。


 年上だろうが、声がどんなだろうが、まったく問題はない。


 むしろ、誇るべきところだ。


 だが。


 恋愛には順序がある。


 いきなり抱きしめて逃げられたら──全てがジ・エンドなのだ。


 もう、二度とここへは来られなくなるだろう。


 そうなっては、まずい。


 だ、だ、だから、落ち着けオレ!


 落ち着いて、美奈子に自分を男として意識してもらうんだ。


 そう。


 彼女にとって孝太とは──10も年下の、ただの子供にしか映っていないのだから。



 ※



 午前中のトレーニングが終わって、ここにやってきたら──世間では、昼食の時間だったという罠。


 そのせいで、美奈子に昼ごはんを食べていくように勧められてしまったワケだ。


「「孝太くん、嫌いなものとかある?」」


 そう聞かれた瞬間。


 絶望に、近いものを覚えてしまった。


 ボクシングは、減量との戦いでもある。


 普段から、羽目を外して食べるなときつく言われているのだ。


「肉はだめです。野菜とか、豆腐とかなら」


 がっくりと肩を落としながら、孝太は言わざるを得なかった。


 なぜなら、せっかく美奈子の作ったものを台無しには出来ないし、出されたら誘惑に負けてしまいそうだったのだ。


 前も、ケーキを出された時、誘惑に負けそうになったのだから。


「「若いのに菜食主義なのね…お豆腐ならあるから、豆腐サラダにしましょうか」」


 台所から、くすくすと笑う声。


 さっきまで泣いていたのは、すっかりもう落ち着いたようだ。


 それは、それでありがたいのだが。


「あの、オレ、何か買ってきましょうか? 手ぶらで来てしまったんで」


 美奈子が食事を作っている間、彼はすることもない。


 ただ、彼女との時間を共有できるのは嬉しいのだが、非常に肩身が狭い気がした。


「「いいのよ、子供がそんな気遣いしちゃだめ」」


 笑われてしまった。


「子供じゃ…ありません」


 そう反論しながらも、感情に任せて手ぶらでご飯時にやってきた自分は、やはり大人とは思えない。


 美奈子への恋慕の感情を抱えたばかりの彼にとっては、かなりつらい現実だった。


「「ああ、ごめんね。そうよね、孝太くんは大人だわ」」


 優しい声。


 茶化しているのではない。


 ちゃんと、分かっているという声だ。


 だが、10歳も年が違えば、彼女にとっては子供のように映ってしまうのだろう。


 どうすれば、美奈子にちゃんと男として認識してもらえるのだろうか。


 豆腐サラダにかぶりつきながら、孝太は隙間の多い脳みそで、一生懸命考えてみる。


 いつもは味気なくて苦行のはずのサラダが、とてもおいしく思えた。

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