「逃げられました」
血も滲めとばかりにひとしきりかきむしってから指に絡みついた髪の毛を払い落とすと、私は襟元をくつろげネックストラップで首から下げていた携帯電話を胸の谷間……ではなく鳩尾の辺りから取り出し、発信履歴から電話を掛けた。
「どうだった」
「逃げられました」
単刀直入なやりとりの通りこの上司は簡潔を好む。よって私も結果だけを告げ、上司の反応を待った。
「隠れたか」
「間違いないでしょう。追いますか」
「その必要はない」
どうせ相手は「お客さん」だ、来月また来る。
言外にそう言い切ると、どうやら背中でも伸ばしたらしい。ううんという唸り声を上げてから上司は話へ戻り、
「次に捕まえれば済むことだ。報告書は」
「今晩中には必ず」
「結構。朝になったら読んでおく。いつもの通り机の上に置いておいてくれ」
「かしこまりました」
短く指示だけ残して通話を切った。
全てにおいて端的なこの上司は、はたから見ると冷たく感じられるらしい。
だが誤った指示を与えられたことなど一度も無いため、私自身は満足している。
ではお休み、よい夢を。
こんな言葉を毎回ほざき続けた前任者とは比べものにならない。
改めて先の人事異動に感謝しつつ、私は携帯電話の終話ボタンへ指を伸ばした。