「おはよう」
このマンションの最上階にはプールが設置されている。
といってもこの建物は巫女を住まわせるためのいわば社員寮のようなもののため、高級感を演出したわけでもなければ泳ぐためのものでもない。
英語のpool、水たまりという意味がさすように、目的はプールに張る水にあった。
チーンと表現したくなるクラシカルな開閉音と共にエレベーターが開いた先には、頭を下げて待つ存在がいた。
「おはようございます、斗姫さま」
「おはよう」
しかし私は義務的に挨拶を返すと特に目線を合わせることもなく履物を換え、フロアに入った。
朝っぱらから随分冷たい反応だなと思われるかもしれないが、向こうも挨拶が返るなり置物のように突っ立ってこちらを見向きもしない。
能面のような顔でエレベータへ向かい立ち続けるこの相手も一族が付けた式神であり、プールを守る管理人兼番人なのだ。
何しろここは対外的にはプールと称しているものの、実際には地下水が張られた禊の場。巫女が仕事に入る前に身を清める場所なのである。
よってこのマンションに住む巫女は出勤前と出勤後に必ずここで身を清める。でなければ職場である本家へ入れない。
その毎朝・毎夕の混雑たるや間違いなく想像を絶するものだろう。
よって無用ないさかいを避けるべくこうして管理人であり、外部……というよりウチの商売敵から汚染などの妨害工作をされたりしないための式神を置いている。
けれど納得する人間がいれば必ず反対意見が出るもので、こういう所にまで式神を置くのはどうか、このくらいの仕事なら一族の人間を雇用すればいいじゃないかという意見も実は少なくなかったりする。
巫女の数は少ない。
一族のほとんどの者が霊力を持たず、自活する能力のない者はまず一族の仕事に籍だけを置き、普通の道楽息子・道楽娘と変わらない生活をしている。
外聞を考えるならそれよりは世間と隔絶された場所で立派な名前だけをあてがい、実態を知られないまま何とか誤魔化したいところなのだろう。
また、いかに一族が表の企業にある程度のポストを揃えているとはいえ、限度というものがある。
血筋の薄さといった理由であぶれ、一般社会でも就職が難しくなれば一族でも雇用問題を考えて欲しいと訴えるのは当然のことだ。
合理性を認める反面、反対意見についても一理あるため考えるべき問題ではあるが、それでも実際にこの施設を使っている人間としては一族にはこのまま式神を置き続けてもらいたい。
同じ一族の式神同士、自分の式神にプールの使用の順番取りがさせられるというのも勿論あるが、一番の理由は式神だからだ。
人を置けばいつか必ず懐柔される。
一族の中で血筋が高い者や財力が豊かな者の順番を優先させたり、あるいはその逆だったり。
そして考えたくもないが……商売敵に懐柔され、水を汚すどころか「何か」を仕込むことだってありえなくはない。
ありがちではあるが、一番恐ろしいのは式神よりも人間だという結論に達し、気が重くなったところで更衣室とプレートが打たれたドアが目に入る。
私は深呼吸を繰り返し、気を整えてからドアノブに手を伸ばし、着替えに専念することにした。