僕の家族、知りませんか?
ここは、安寧葬儀場。
式場の正面には、にこやかに笑う少年の遺影が飾られていた。写真の中の少年は、今にも声を上げて笑い出しそうなほど生き生きとしている。それなのに、参列者の誰1人として、その笑顔に笑い返すことはできなかった。
15歳。あまりにも早すぎる死だった。
「貴之......貴之......お願い、もう1度目を覚まして!」
棺にすがりつき、母親が何度も息子の名を呼ぶ。
木倉貴美子、45歳。声は悲鳴に近く、すがる指先は白くなるほど棺を握りしめていた。見かねた親族が、泣き叫ぶ彼女をそっと引き離す。それでも彼女は、息子のもとへ戻ろうと手を伸ばし続けた。
15歳の少年、木倉貴之は交通事故で命を落とした。
あまりにも突然の別れだった。
この場に集まった人々は、少年の魂が安らかに眠れるよう祈りを捧げていた。貴之のクラスメイトたちも、その中にいる。
うつむき、声を殺して泣く者。
悲しみに耐え、毅然と前を向こうとする者。
現実を受け入れられず、ただ呆然と立ち尽くす者。
同じ死を前にしても、悲しみの形は人それぞれだった。誰もが、あまりにも早く訪れた別れを、どうにかして受け止めようとしていた。
――あのとき、好きだって伝えておけばよかった。
由貴は、胸の奥で何度も同じ言葉を繰り返していた。
不思議なことに、涙は出なかった。
悲しくないわけがない。目の前の棺に眠っているのは、ずっと想い続けてきた人なのだから。
それなのに、心のどこかで現実を拒んでいる。
まだ、生きているんじゃないか。
今にも棺の蓋が開いて、いつもの笑顔でひょっこり顔を出すんじゃないか。
そんな、あり得るはずのない願いにすがりつくことでしか、由貴は自分の心を保てなかった。
≫
貴之に恋をしたのは、中学2年生の夏だった。
きっかけは、彼がバレーボールをしている姿を見たことだった。
清明高校のバレー部は、県内でも名の知れた強豪校だ。練習は苛烈を極め、夏の体育館には熱気がこもっていた。
茹だるような暑さの中、部員たちはコーチの怒声に追い立てられ、必死に身体を動かしている。床を蹴る音、ボールを打ちつける音、荒い息遣い。それらが入り混じり、体育館の外にまで響いていた。
「こんな日に、あんなに運動しなくてもいいのに......」
クーラーの効いた図書室から、由貴はその光景を遠巻きに眺めていた。
きっと、彼らにとっては、あれも青春の1ページなのだろう。
自分には縁のない世界だ。
読んでいた本にも少し飽きてきた。由貴は頬杖をつき、ぼんやりと体育館へ目を向けた。
そのとき、1人の少年が目に留まった。
少年は、コーチの打ち込むスパイクに何度も食らいついていた。
1球、また1球。
床に身体を投げ出し、転がり、すぐさま立ち上がる。息を切らし、汗を滴らせながら、それでもボールを追い続けていた。
何本受けるつもりなのだろう。
何気なく数えてみる。
30本......40本......
とうに50本を超えていた。
それでも少年は、少しも嫌そうな顔をしなかった。まるで、新しいおもちゃを見つけた子どものように、目を輝かせて次のボールを待っている。
――何が、そんなに楽しいんだろう。
由貴が不思議に思った、その瞬間だった。
鋭い音とともに、ボールが少年の顔面を直撃した。
少年の身体がぐらりと傾き、そのまま床に倒れ込む。
由貴は思わず息を呑んだ。
やがて少年は起き上がった。鼻から血が流れ、顔をしかめている。コーチが何かを指示すると、少年は素直にうなずき、体育館を後にした。
保健室だ。
そう気づいたときには、由貴は席を立っていた。
どうして気になったのか、自分でもよくわからない。ただ、あの少年がどうなったのか、確かめずにはいられなかった。
≫
保健室の前まで来ると、由貴は1度だけ深呼吸をした。それから、恐る恐るドアをノックする。
「どうぞ」
中から聞こえてきたのは、まだ声変わりの余韻が残る、少年らしい声だった。
由貴はゆっくりとドアを開けた。
保健室の椅子に、1人の少年が座っていた。鼻には丸めた綿が詰められ、顔を少し上に向けている。
「どうしたの? 気分でも悪い?」
先に声をかけてきたのは、少年のほうだった。
小柄な身体に、スポーツ刈りの頭。Tシャツとショートパンツという、飾り気のない格好だった。Tシャツには、うっすらと血の跡が残っている。
特別、目を引くほど整った顔立ちというわけではない。けれど、すっと通った鼻筋と、こちらをまっすぐに見つめる瞳には、どこか人を惹きつけるものがあった。
汗の匂いが、ふわりと漂ってくる。
それなのに、少しも不快ではなかった。
「いや......私は大丈夫なんだけど。君が倒れるのが見えたから......」
自分でも情けなくなるほど、言葉がうまく出てこない。
由貴は視線を泳がせた。
ふと目に入ったのは、ショートパンツから伸びる脚だった。細くしなやかなのに、鍛え上げられたふくらはぎには、確かな力強さがある。
気づけば、由貴はその脚に見入っていた。
「ただの鼻血だよ。でも、心配してくれてありがとう!」
少年は屈託なく笑った。
その笑顔がやけに眩しかった。
自分とは正反対の人間だ。
人と話すのが苦手で、いつも本の中に逃げ込んでいる自分とは違う。彼は、誰に対してもこんな風に笑いかけるのだろうか。
そう考えると、胸の奥がほんの少しだけ痛んだ。
「オレ、貴之。君は?」
「......由貴」
「由貴か。よろしく!」
名前を呼ばれただけなのに、心臓が小さく跳ねた。
「血が止まるまで動けないからさ。よかったら、話し相手になってよ」
貴之は、由貴の返事を待つより先に話し始めた。
小学校で初めてバレーボールに触れたこと。ボールが手のひらで弾む感覚が楽しくて、何度でも触っていたくなったこと。中学に入ってからは厳しいコーチのもとで、毎日ハードな練習をこなしていること。
練習はきつい。それでも、終わったあとのご飯は格別にうまいのだという。
話している間、貴之は何度も笑った。
好きなことを語る彼の声には、少しも迷いがなかった。言葉のひとつひとつから、バレーボールが本当に好きなのだということが伝わってくる。
由貴が生きている世界とは、まるで違う。
眩しくて、まっすぐで、自分には手の届かない場所。
それなのに、不思議と居心地は悪くなかった。
由貴は相づちを打ちながら、彼の話に耳を傾けた。
気づけば、窓から差し込む光の角度が変わっていた。
1時間が過ぎていた。
「やべっ、早く戻らないとコーチに怒られる!話聞いてくれてありがとね!」
貴之は慌ただしく立ち上がると、手を振りながら保健室を飛び出していった。
残された由貴は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
さっきまで退屈だったはずの午後が、いつの間にか忘れられない時間に変わっていた。
これが、2人の出会いだった。
それからというもの、由貴は無意識に貴之の姿を目で追うようになった。
図書室へ通う理由も、いつしか変わっていた。
本を読むためだけではない。窓の向こうに彼の姿を見つけるためだった。
体育館で跳び上がる姿。仲間と笑い合う姿。練習の合間に、額の汗を腕で拭う仕草。
遠くから眺めているだけなのに、彼を見つけるたび、胸がそわそわした。
どうして、こんな気持ちになるのだろう。
由貴は、これまで読んできた小説の中から、自分の感情に当てはまる言葉を探した。
そして、ようやく1つの答えにたどり着いた。
――きっと、恋なのだ。
その恋心をとうとう本人に伝えることはできなかった。
そして今、彼は冷たくなり、2度と目を覚まさない存在になってしまった。
あのとき伝えておけばよかった。
好きだと。
たとえ振られたとしてもよかったのだ。
もう一度、あの笑顔を見ることができるのなら。
けれど、そんな願いが叶うことはない。
由貴の初恋は、あまりにも突然訪れた別れによって、行き場を失ったまま終わろうとしていた。
≫
葬儀が終わり、貴之の遺体は別室に安置されていた。
人の気配が消えた室内には、線香の香りが静かに立ち込めている。ろうそくの炎が、かすかな風に揺れた。
その薄暗がりに、1人の男が姿を現した。
男は周囲を一瞥すると、手にしていた丈夫な大袋を広げた。
そして、何のためらいもなく、貴之の遺体を袋の中へ詰め込んだ。
袋の口を閉じる。
男は一息ついてから、それを肩に担ぎ上げた。
重さを確かめるように肩を揺らすと、何事もなかったかのように歩き出した。
ろうそくの炎が、再び揺れた。
その場には、線香の煙だけが残された。
≫
「……そろそろ起きたらどうですか?」
男が、袋の中の少年に声をかけた。
しばらくして、陶器のように青白かった肌に、じわじわと血の気が戻り始める。
胸元に刻まれていた深い傷も、何事もなかったかのように塞がっていった。
やがて、少年のまぶたが開いた。
「おはよー」
まるで昼寝から目覚めたばかりのような、気の抜けた声だった。
少年は大きく伸びをすると、どっかりと革張りのソファーに腰を下ろした。
つい先ほどまで、15年の生涯を終えたはずの少年とは思えない。
「今回もだめでしたか」
男が尋ねる。
少年は死装束のまま、差し出された葉巻を受け取った。男が火をつけると、先端が赤く灯る。
紫煙を吸い込む。
久しぶりの味だった。
少年は煙をすぐには吐き出さず、ゆっくりと口の中で転がした。舌に残る苦みを確かめるように味わってから、ようやく深く吐き出す。
「普通の家庭ってやつ? 母親の作る料理はおいしかったけど、それくらいかな」
傍らのグラスを手に取り、注がれていた20年物のウイスキーを飲み干す。
葉巻とウイスキー。
やはり、この組み合わせは最高だ。
少年は満足げに息を吐き、ラウンジの中を見回した。
ここに来るのも、10年ぶりくらいだろうか。
木目のわずかな変化に時の流れを感じる。けれど、静寂と情緒に満ちたこの空間は、昔と何も変わっていないように思えた。
居心地のいい場所だ。
だからこそ、ここにいる間だけは余計なことを考えずに済む。
少年は空になったグラスをテーブルに置いた。
「......次は?」
男はすぐさま、そばに置いていたスーツケースを開いた。
「色々と取り揃えております」
男の身なりには、一分の隙もなかった。
柔らかな生地を使い、毛芯で仕立てられたジャケット。しわひとつない、艶やかなパンツ。足元には、丁寧に磨き上げられたペニーローファーが光っている。
男はスーツケースから、束になった資料を取り出した。
木彫りのテーブルに写真や書類が次々と並べられていく。
少年はそれらを手に取り、雑にめくっていった。
数秒ほど目を留めるものもあったが、すぐに興味を失い、床へ放り投げる。
1枚。また1枚。
紙が床に落ちる乾いた音だけが、静かなラウンジに響いた。
どれも平凡だった。
少年は退屈そうに頬杖をつく。
資料をめくっていた、そのときだった。
ふと、1枚の写真に目が留まった。
少年の指が止まる。
それまでの気だるげな表情が、ほんのわずかに変化した。
「次はここにしよう」
少年は写真を手に取り、口元にかすかな笑みを浮かべた。
――木下家――




