秘書を募集したら、なぜか王弟殿下が来ました
王弟殿下が秘書になりたいと言い出した。
その事実を、クラリッサ・ベルモンドはしばらく理解できなかった。
王都の中央商業区に構えるベルモンド商会。その三階にある会長室には、朝から秋の淡い日差しが差し込んでいる。磨かれた窓硝子の向こうでは荷馬車が石畳を行き交い、階下からは帳場の算盤を弾く乾いた音がかすかに聞こえていた。
机の上には、秘書募集に応じて届いた履歴書が十七通。
そのうち十六通は、すでにクラリッサが目を通している。
最後の一通だけは、様子が違った。
王家の紋章が入った厚手の封筒である。
「……もう一度、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
向かいの椅子に座る男は、クラリッサの問いに気を悪くした様子もなく足を組み替えた。
「レオンハルト・アルヴェイン」
「存じ上げております」
「なら、聞く必要はなかったんじゃない?」
穏やかな声だった。
からかわれている。
クラリッサはそう判断して、膝の上で組みかけた指をほどいた。
レオンハルト・アルヴェイン。現国王の十二歳下の弟であり、外交使節として三か国を巡り、二年前には長く揉めていた西方諸侯との通商協定をまとめた人物。王位継承権こそ低いが、王宮で彼の名を知らない者はいない。
二十九歳。未婚。
そして今、その王弟殿下がベルモンド商会の秘書募集に応募してきている。
意味が分からない。
「殿下。恐れながら、当商会の募集要項はご覧になりましたか?」
「もちろん。会長秘書一名。年齢、性別、身分不問。読み書きと計算に堪能であること。外国語を二か国語以上扱える者を優遇。勤務は朝八時から夕刻まで。ただし繁忙期には残業あり。給与は月二十五万リルから。能力に応じて昇給」
一字一句、間違っていなかった。
クラリッサは机の端に置いた募集要項へ視線を落とす。
「……暗記なさったのですか」
「応募するんだから、それくらいはするよ」
「応募なさらないでください」
「もうしてる」
間髪を入れず返され、クラリッサは口を閉じた。
レオンハルトは笑っている。面白がっているようにも見えるが、ふざけている男の態度ではなかった。濃紺の上着は王族としては簡素で、胸元にも王家の徽章以外の装飾はない。面接に来るため、あえて華美な服装を避けたのだろう。
そこまで考えて、クラリッサは額を押さえたくなった。
なぜ本気なのだ。
「では、面接を始めようか」
「殿下が進行しないでください。面接官は私です」
「失礼。どうぞ、会長」
レオンハルトは片手を差し出して先を促した。
余裕のある態度が妙に腹立たしい。
クラリッサは二十三歳でベルモンド商会の会長になった。父から継いだ小さな輸入商を五年で王都有数の商会に育てたのは、運だけではない。仕入れ値、輸送費、関税、保管費、販売時期。数字を一つずつ積み上げ、相手の言葉の裏を読み、利益が出ない取引にはどれほど相手の身分が高くても首を横に振ってきた。
王弟だからといって、ここで調子を狂わされるわけにはいかない。
「外国語は?」
「七か国語。南部方言ならさらに三つ」
「簿記は」
「王室財務局式と商業組合式、どちらでも」
「速記」
「できる」
「商取引の経験は」
「去年の北方穀物輸入協定の実務責任者は私だよ」
知っている。
ベルモンド商会も、その協定によって小麦の仕入れ価格を一割近く下げることができた。
「では、こちらを」
クラリッサは用意していた試験用の帳簿を差し出した。
三日前、経理主任に頼んで意図的に七か所の誤りを仕込んでもらったものだ。通常の応募者なら三十分で五つ見つければ合格としている。
レオンハルトは紙を受け取り、目を走らせた。
「七か所」
一分も経っていない。
「……場所を」
彼は机の上のペンを取り、順番に印をつけた。七つ。
それから八つ目にも線を引いた。
「ここも」
「そこは間違いではありません」
「帳簿上はね。でもこの輸送量なら、東門から入れるより南門を使った方が荷車一台につき十二リル安い。月間なら三千リル以上違う。契約している運送業者との経路指定を見直した方がいい」
クラリッサは帳簿を引き寄せた。
計算する。
合っていた。
「……採用試験で、うちの経費削減案まで出さないでいただけます?」
「採用されたら仕事になるから、先にやっても同じだろう?」
「まだ採用していません」
「そうだった」
まったく反省していない。
クラリッサは椅子の背にもたれた。
能力だけで評価するなら、落とす理由がない。それどころか、これまで面接した候補者の誰よりも優秀だった。
だからこそ困る。
「殿下」
「レオンでいいよ」
「よくありません」
「では勤務中だけでも」
「もっとよくありません」
レオンハルトが小さく笑った。
「何がおかしいんです?」
「いや。思っていた通りの人だなと思って」
クラリッサは眉を寄せた。
「以前、お会いしましたか?」
「いいや」
答えはあっさりしていた。
では何が「思っていた通り」なのか。
尋ねようとしたところで、扉が二度叩かれた。
「会長、よろしいですか!」
経理主任の切迫した声だった。
クラリッサが入室を許可すると、男は書類の束を抱えて飛び込んできた。北方から届く予定だった染料が国境の検査所で止められ、午後の取引に間に合わないという。
クラリッサはすぐに立ち上がった。
「代替在庫を確認して。西倉庫に三樽残っていたでしょう」
「それが昨夜、ルメル商会から緊急の注文が入って――」
「なら港側の共同倉庫。使用料を払ってでも先に押さえる」
「共同倉庫なら、今朝から王室物資の搬入で閉鎖されているよ」
横からレオンハルトが言った。
クラリッサが振り向く。
彼はまだ椅子に座ったままだった。
「どうしてそれを」
「閉鎖許可に昨日署名したから」
王弟だった。
忘れかけていた事実を思い出す。
レオンハルトは立ち上がると、経理主任から書類を一枚受け取った。
「止められているのは北方の第三検査所?」
「は、はい」
「なら問題ない。今月から染料の分類規則が変わったのに、旧様式の申告書を使ったんだろう。新しい様式で出し直せば通る。クラリッサ、紙を一枚借りても?」
「……どうぞ」
彼は会長机の端で書類を書き始めた。
迷いがない。必要事項を埋め、最後に自分の署名を添えようとして、そこで止まった。
「これはいらないな」
「なぜです?」
「私の署名で通したら、君の商会が王族の特別扱いを受けたことになる。申請不備を直せば本来通る荷物だ。余計な借りを作る必要はない」
新しい申告書だけを経理主任へ渡す。
「第三検査所なら午後一時の便に間に合う。急げば夕方前には着くよ」
経理主任はクラリッサを見る。
彼女は一度だけ頷いた。
男が飛び出していったあと、会長室には再び静けさが戻った。
クラリッサは立ったままレオンハルトを見た。
「今のは面接の一環ですか?」
「違うよ。困っていたから手伝っただけ」
「王族の権限を使わずに?」
「君はそういうのを嫌うだろう?」
まただ。
思っていた通り。
君はそういうのを嫌う。
まるで以前から自分を知っているような言い方をする。
「殿下。私のことをどこでお知りになったんです?」
ほんの一瞬、レオンハルトの笑みが深くなった。
「採用してくれたら、そのうち話すよ」
「それを採用条件に使うおつもりですか」
「まさか。私を採用するかどうかは、私の能力だけで決めればいい」
正論だった。
そしてクラリッサは、仕事に関して正論を曲げるのが嫌いだった。
その日の夕方、ベルモンド商会は新しい会長秘書を一人採用した。
王弟レオンハルト・アルヴェイン。
月給二十五万リル。
本人の希望により、王族手当なし。
◇
採用から三日で、クラリッサは自分が重大な判断ミスをしたのではないかと疑い始めた。
理由は、レオンハルトが有能すぎたからである。
朝、クラリッサが出勤すると、その日の予定表が机の左側に置かれている。急ぎの書類は赤、確認だけでよいものは青、署名が必要なものは黒の細い紐で分類され、取引先からの手紙には返答期限まで付箋がついていた。
午前の商談では相手の過去三年の取引傾向が資料にまとめられ、午後の会議ではクラリッサが質問する前に必要な数字が差し出される。
五日目には、クラリッサが長年悩まされていた南部支店との報告書式が統一された。
七日目には、海外から届く書簡の翻訳待ちが消えた。
十日目には、クラリッサの残業時間が半分になった。
「……殿下」
「何?」
「働きすぎではありませんか」
「勤務時間内だよ」
「そういう意味ではなくて」
夕刻の会長室で、レオンハルトは翌日の資料を整えていた。上着を脱ぎ、白いシャツの袖を肘まで折っている。王宮で見かける肖像画よりずっと気安い格好なのに、不思議と品位は崩れていない。
「これまで三人でやっていた仕事を、一人で片づけていますよね」
「三人分の給料をくれる?」
「払いません」
「残念」
彼は笑って資料を揃えた。
冗談を言いながら、手は止まらない。
クラリッサは机に肘をつきかけ、商会長として行儀が悪いと思い直して姿勢を正した。
すると、目の前に小さな箱が置かれた。
「何です?」
「休憩」
「まだ仕事があります」
「知ってる。だから休憩」
箱を開けると、薄い焼き菓子が六枚並んでいた。表面には細かな砂糖が振られ、間に淡い色のクリームが挟まっている。
甘い香りがした。
クラリッサは無意識に箱へ身を寄せ、それから我に返った。
「……どこのお菓子ですか」
「中央広場のカフェ。季節限定の栗のクリームサンド」
知っている。
一度食べようとして、売り切れていたものだ。
「どうしてこれを?」
「評判がいいらしいから」
「殿下が甘いものを?」
「私はそれほど」
「では、なぜ」
「君が好きそうだったから」
さらりと言われ、クラリッサは質問を止めた。
好きそうだったから。
確かに好きだ。
かなり好きだ。
だが商会では、菓子好きであることを特別公言してはいない。昼食後に小さな焼き菓子を食べることはあるが、秘書になって十日でそこまで把握されるものだろうか。
「いらない?」
レオンハルトが箱を閉じようとする。
「いります」
反射的に答えていた。
彼が笑った。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
一つ取って口に運ぶ。
さくりと軽い音がして、栗の濃厚な甘さと焦がしバターの香りが広がった。
おいしい。
午前から続いていた肩の強張りが少し抜ける。
「そんなに好き?」
「え?」
顔を上げると、レオンハルトがこちらを見ていた。
書類ではなく、クラリッサを。
「ずいぶん幸せそうに食べるから」
「……普通です」
「そう?」
「普通です」
クラリッサは二枚目へ伸びかけた手を止めた。
その指先を見て、レオンハルトがまた笑う。
結局、六つのうち五つをクラリッサが食べた。
翌日から、午後三時になると会長室に菓子が置かれるようになった。
最初は焼き菓子。
次は果物のタルト。
その次は蜂蜜を練り込んだ小さなパン。
どれも甘すぎず、クラリッサの好みに合っていた。
「殿下」
二週間目の午後、クラリッサはとうとう尋ねた。
「私の好みを調べました?」
レオンハルトは紅茶を注ぎながら、平然と答えた。
「秘書だからね」
「秘書は上司の菓子の好みまで調べるものですか」
「優秀な秘書なら」
「本当ですか?」
「少なくとも私は調べる」
言い切られると反論しづらい。
しかも実際に彼は優秀だった。
クラリッサは疑問を残したまま、差し出された紅茶を受け取った。
そしてその疑問は、甘い菓子と一緒に毎日の仕事へ溶けていった。
◇
一か月が過ぎる頃には、ベルモンド商会の従業員たちも王弟が廊下を歩く光景に慣れていた。
最初の一週間は、レオンハルトが階段を下りるたび帳場が静まり返った。二週間目には会釈だけになり、三週間目には倉庫主任が平然と荷札の束を押しつけるようになった。
そしてレオンハルトも、それを嫌がらなかった。
「殿下、東倉庫の棚卸し表です」
「ありがとう。午後までに見るよ」
「王弟殿下に棚卸し表を渡すの、いまだに変な感じですけどね」
「私も王弟になってから棚卸し表を渡されたのは初めてだ」
そんな会話が聞こえてくる。
クラリッサは二階の手すりから下を覗き、眉間を指で押した。
馴染みすぎている。
「会長」
背後から呼ばれ、振り返る。
レオンハルトがすぐ後ろにいた。
「近いです」
「そう?」
一歩下がるかと思ったが、下がらない。
クラリッサが半歩前へ出た。
すると彼も歩き出す。
「本日の昼食ですが、十二時半から取引組合長との会食に変更になりました」
「聞いていません」
「十分前に使いが来た。急な話だからね。断ってもいいけど、来月の市場使用料について話したいそうだ」
「行きます」
「そう言うと思った。馬車は用意してある」
何もかも早い。
クラリッサは階段を下りながら予定を組み直す。午後一時半の仕入れ会議を二時へずらせば間に合う。そう口にする前に、レオンハルトが続けた。
「仕入れ会議は二時に変更済み。先方にも連絡した」
「……私の考えていることが分かるんですか?」
「一か月も秘書をしていれば、だいたいは」
彼は当然のように答えた。
その言葉に、クラリッサは妙な引っかかりを覚えた。
一か月。
たった一か月だ。
それなのに彼は、クラリッサが商談でどの資料を先に見るか、紅茶に砂糖を入れないこと、疲れると左肩を揉むこと、昼食を抜こうとすると機嫌が悪くなることまで知っている。
そして甘いものについては、もはや本人より詳しいのではないかと思うほどだった。
「クラリッサ」
名前を呼ばれ、足を止める。
いつから彼は自分を名前で呼ぶようになったのだったか。
最初からだった気もする。
「何です?」
「手」
「手?」
差し出すよう促され、意味が分からないまま右手を出した。
レオンハルトがその手を取る。
指先を支えられた次の瞬間、彼は軽く身を屈めた。
唇が手の甲へ触れる。
ほんの一瞬だった。
温度を認識するより早く離れたのに、クラリッサは動けなかった。
「……何を」
「いってらっしゃい」
「一緒に行くでしょう!」
「そうだった」
レオンハルトが笑う。
「そうだった、ではありません!」
帳場にいた数人がこちらを見ている。
クラリッサは声を落とした。
「なぜ今、手にキスをしたんですか」
「挨拶」
「毎日していませんよね?」
「今日からしようか?」
「しなくて結構です!」
「残念」
残念そうにはまったく見えなかった。
馬車へ向かう間も、クラリッサは手の甲を何度もドレスへ擦りつけた。消したいわけではない。ただ、そこだけ妙に意識が残る。
隣を歩くレオンハルトは普段通りだった。
それが余計に腹立たしい。
「殿下」
「何?」
「女性全員にああいうことをなさるんですか」
尋ねてから、なぜそんなことを確認しているのかと自分で思った。
レオンハルトは足を止めなかった。
「しないよ」
「では、なぜ私に」
「嫌だった?」
質問で返された。
クラリッサは答えに詰まる。
嫌だったか。
突然だった。驚いた。仕事場ですることではない。
けれど、嫌悪したかと問われれば違う。
「……職場です」
「なるほど」
何がなるほどなのか。
それ以上、レオンハルトは追及しなかった。
翌日から手へのキスが日課になることもなかった。
だからクラリッサは、あれは王族特有の気まぐれだったのだろうと処理した。
三日後、王宮主催の商業晩餐会へ出席したとき、その判断が怪しくなった。
会場には国内の有力商人と貴族が集まっていた。クラリッサはベルモンド商会長として招かれ、レオンハルトは王弟として出席している。
当然、今夜は秘書と上司ではない。
そう思っていた。
「ベルモンド会長」
声をかけてきたのは、南部に大きな織物工房を持つ若い伯爵だった。
「先日の取引では世話になった。次はぜひ食事でもしながら話したい」
「ありがとうございます。新しい生地についてでしたら、来週――」
「仕事の話だけじゃなくてね」
伯爵が笑う。
クラリッサは意味を理解した。
こういう誘いは珍しくない。
商会長という肩書きと財産を目当てにする者もいれば、純粋に独身女性として興味を持つ者もいる。どちらにせよ、仕事と私生活を混ぜるつもりはなかった。
断ろうと口を開いたところで、右手を取られた。
伯爵ではない。
横から現れたレオンハルトだった。
「クラリッサ」
「殿下?」
彼は伯爵へ軽く会釈すると、そのままクラリッサの手を持ち上げた。
そして、三日前と同じ場所へ口づける。
今度は周囲に大勢の目があった。
「探したよ」
「……何をなさっているんですか」
「挨拶」
「その説明は前にも聞きました」
伯爵が目を丸くしている。
レオンハルトは何も気にしていないように、クラリッサの手を離した。
「失礼。話の途中だった?」
「あ、いや……殿下がお呼びなら、私はこれで」
伯爵は明らかに態度を変え、その場を離れていった。
クラリッサは彼の背中を見送り、それからレオンハルトを睨んだ。
「今の、わざとでしょう」
「何が?」
「伯爵が私を誘っていたから」
「そうなの?」
白々しい。
一か月一緒に働いて分かったことがある。
レオンハルトは嘘をつくときも顔色を変えない。
「聞いていましたよね」
「少しだけ」
「なぜ邪魔を」
「邪魔だった?」
まただ。
嫌だった?
邪魔だった?
彼はいつも、クラリッサ自身の気持ちを尋ねる。
王族の権力で押し切ることはしない。拒否すれば引く余地を残しているように見える。
けれど、そう聞かれるとクラリッサは困る。
伯爵と食事をしたかったわけではない。
「……助かりましたけど」
「ならよかった」
レオンハルトは満足そうに笑った。
「でも、手にキスをする必要はありませんでした」
「そうかな」
「そうです」
「次は気をつける」
その言葉をクラリッサは信用しなかった。
正しかった。
次に彼が距離を詰めてきたのは、その一週間後だった。
◇
雨の日だった。
午後から降り始めた雨は夕方になっても止まず、窓硝子を細かな水滴が流れていた。
商会の従業員はほとんど帰宅し、会長室にはクラリッサとレオンハルトだけが残っている。
「終わった」
クラリッサは最後の契約書へ署名し、ペンを置いた。
「お疲れさま」
「今日は早いですね」
時計を見る。まだ七時前だ。
以前なら九時を過ぎることも珍しくなかった。
「優秀な秘書のおかげだね」
「自分で言います?」
「事実だから」
反論できない。
レオンハルトは書類を片づけると、窓際の小卓へ何かを運んだ。
白い陶器の皿。
その上に、丸い小さなケーキが載っている。
「……今日は何ですか」
「苺と生クリーム」
クラリッサは立ち上がった。
「新作?」
「今日からだそうだよ」
「どこの?」
「君がよく行くカフェ」
クラリッサの足が止まった。
「私がよく行く?」
「中央広場から一本裏に入ったところ。青い庇の店」
知っている。
それどころか、一番よく行く店だった。
仕事が早く終わった日、あるいはひどく疲れた日。クラリッサは一人でそこへ寄り、窓際の席で菓子を食べる。
商会の人間にもほとんど話していない。
「どうして知っているんです?」
レオンハルトはケーキを切り分けながら答えた。
「前に見たから」
「前?」
「食べない? クリームが崩れるよ」
話を逸らされた。
クラリッサは気になったが、目の前のケーキも気になった。
白いクリームの上には赤い苺。切り口には薄いスポンジとクリームが幾層にも重なっている。
「……食べます」
「どうぞ」
向かい合って座る。
フォークを入れると、柔らかなスポンジがほとんど抵抗なく切れた。苺の酸味と軽いクリームが合う。
「おいしい」
思わず口に出た。
「よかった」
レオンハルトは自分の分にはほとんど手をつけず、紅茶を飲んでいる。
「殿下は食べないんですか?」
「君が食べるのを見ている方が面白い」
「私は見世物ではありません」
「知ってるよ」
クラリッサはもう一口食べた。
甘いものを食べているときくらい、仕事のことを忘れたい。
そう思っていたはずなのに、最近はその時間にレオンハルトがいる。
最初は差し入れだけだった。次に紅茶を淹れるようになり、そのうち彼も向かいに座るようになった。
いつからそうなったのか、はっきり思い出せない。
「クラリッサ」
「はい?」
レオンハルトが身を乗り出した。
近い。
反射的に身体を引こうとしたところで、彼の指が口元に触れた。
親指が唇の端を軽くなぞる。
「クリーム」
それだけ言って離れる。
クラリッサが固まっている前で、レオンハルトは親指についた白いクリームを見た。
そして、そのまま舐めた。
「……殿下」
「何?」
「何をしているんですか!」
「ついていたから取った」
「その後です!」
「捨てるのももったいないだろう?」
「そういう問題ではありません!」
椅子を引く音が響いた。
クラリッサは立ち上がり、口元を手で覆う。
レオンハルトだけが座ったまま、何がおかしいのかという顔をしている。
「普通は布巾を渡すとか、教えるだけとか、あるでしょう!」
「次からそうする?」
「当然です!」
「分かった」
あっさり了承された。
それで終わるはずだった。
「でも」
レオンハルトが続ける。
「嫌なら、もっと早く離れればよかったのに」
クラリッサは言葉を失った。
確かに、彼が身を乗り出したとき、逃げる時間はあった。
指が触れた瞬間にも払いのけられた。
しなかった。
驚いていただけだ。
そう説明しようとしたが、レオンハルトはもう立ち上がって食器を片づけていた。
「馬車を呼んである。雨が強いから送るよ」
「結構です。商会の馬車があります」
「御者は先に帰した」
「なぜ!?」
「君が今日は私の馬車で帰ると言ったから」
「言ってません!」
「昼に聞いたら『好きにしてください』って」
思い出した。
三つの商談が重なっていた時間だ。何かを尋ねられ、確認もせずそう答えた気がする。
「……あれは馬車の話だったんですか」
「そうだよ」
完全に自分の失敗だった。
クラリッサは額を押さえた。
レオンハルトが外套を持って近づいてくる。
「ほら」
肩へ掛けられた外套から、乾いた布と微かな香木の匂いがした。
「殿下のでは?」
「私は濡れても平気」
「王弟を雨に濡らして私だけ外套を着るわけにはいきません」
「では一緒に入ろうか」
彼が外套の片側を持ち上げる。
「そういう意味でもありません!」
レオンハルトが声を立てて笑った。
その夜、クラリッサは王弟の馬車で自宅まで送られた。
翌朝にはいつも通り彼が商会にいた。
机には予定表。
右側には温かい紅茶。
午後三時には菓子。
昨夜のことを意識しているのはクラリッサだけだった。
だから数日もすると、自分の方が過剰に考えているのではないかと思い始めた。
レオンハルトは何も変わらない。
仕事は完璧で、距離を詰めすぎた翌日はむしろ少し引く。
クラリッサが警戒を解いた頃、またほんの少し近づく。
その繰り返しだった。
そして彼女はまだ、それが繰り返しであることに気づいていなかった。
◇
二か月目に入ると、クラリッサはレオンハルトがいない日の不便さを知った。
その朝、彼は王宮へ呼ばれていた。
国王との会議があるため、出勤は午後になると前日に聞いている。
たった半日だ。
以前は秘書なしで何年も商会を回していたのだから、問題になるはずがなかった。
ところが朝八時、会長室へ入ったクラリッサは机の上を見て立ち止まった。
何もない。
正確には書類はある。昨日自分で置いたものが、そのまま積まれている。
予定表がない。
紅茶もない。
「……自分でやればいいだけでしょう」
誰に言うでもなく呟き、クラリッサは湯を頼んだ。
九時には取引先から急な変更依頼が来た。十時には倉庫から在庫確認。十一時には南部支店から長い報告書。
処理できない仕事ではない。
ただ、一つ終えるたび次の準備が必要になる。
レオンハルトがいる日は、その準備がすでに終わっていた。
昼前、クラリッサはペンを置いた。
「会長、お昼はどうされます?」
扉から顔を出した事務員に聞かれ、時計を見る。
「いらないわ。午後の資料を――」
そこまで言って、妙な既視感があった。
レオンハルトならここで昼食を持ってくる。
そして「食べないなら午後の面談を十五分遅らせる」と勝手に予定を変える。
「……軽いものをお願い」
「はい」
自分から昼食を頼んだことに、クラリッサは少し驚いた。
午後一時を過ぎてもレオンハルトは来ない。
一時半。
二時。
クラリッサは三度目に時計を見たところで、自分が彼を待っていることに気づいた。
「何をしているの、私は」
仕事へ戻る。
二時十分、扉が開いた。
「ただいま」
顔を上げる。
レオンハルトだった。
いつもの濃紺の上着ではなく、王宮用の黒い礼装を着ている。片手には書類鞄、もう片方には見覚えのある菓子箱。
「遅かったですね」
口から出た。
レオンハルトが少しだけ目を細めた。
「待ってた?」
「仕事が溜まっています」
「私の質問の答えになってないな」
「午後から来ると聞いていたので、予定を確認しただけです」
「そういうことにしておこうか」
彼は追及せず、上着を脱いだ。
十分後には机の上がいつもの状態に戻っていた。
クラリッサはその光景を見ながら、胸の奥にあった小さな落ち着かなさが消えていくのを認めざるを得なかった。
これはまずい。
便利すぎる。
「殿下」
「何?」
「明日から一週間、仕事を減らしてください」
レオンハルトの手が止まった。
「私の?」
「はい。私が自分で処理します」
「理由を聞いても?」
「あなたに頼りすぎています」
クラリッサは率直に言った。
「秘書が辞めただけで仕事が回らなくなるようでは、商会長として問題です」
レオンハルトは数秒黙り、それから椅子へ腰掛けた。
「私が辞める予定があると思ってる?」
「予定の話ではありません。人は病気にもなりますし、事情が変わることもあります」
「なるほど」
「ですから――」
「分かった」
あっさり承諾された。
クラリッサは拍子抜けした。
翌日、本当にレオンハルトは仕事を減らした。
予定表だけを作り、それ以外はクラリッサが指示するまで手を出さない。
紅茶も淹れない。
菓子もない。
午後三時。
クラリッサは書類から顔を上げた。
小卓には何も置かれていない。
「……今日のお菓子は?」
言ってから、しまったと思った。
向かいで書簡を読んでいたレオンハルトが顔を上げる。
「私に頼らないんじゃなかった?」
「菓子は仕事ではありません」
「そうだね」
「では」
「買ってきてほしい?」
クラリッサは黙った。
完全に遊ばれている。
「……自分で買います」
「一緒に行こうか」
「仕事中です」
「休憩時間だよ」
時計は三時二分。
クラリッサは立ち上がった。
「三十分だけです」
「了解、会長」
二人で商会を出た。
向かった先は、例の青い庇のカフェだった。
店内へ入った瞬間、焼いた小麦と珈琲の香りが混じって鼻をくすぐる。午後の店内は混んでいたが、窓際に一つだけ空席があった。
クラリッサがいつも座る場所だ。
「ここでいい?」
レオンハルトが椅子を引く。
「……よくご存じですね」
「何が?」
「私がここを好きなこと」
「前に見たと言っただろう?」
「いつです?」
今度こそ逃がさない。
クラリッサは座らず、彼を見た。
「以前ここで私を見たんですよね。いつですか」
レオンハルトは少し考えるように天井を見た。
「三か月くらい前かな」
秘書募集を出すより前だ。
「そのとき、声をかけました?」
「いいや」
「私は殿下を見ました?」
「たぶん見てない」
「では、どうして覚えていたんです」
レオンハルトは答える前に、クラリッサの椅子をもう一度引いた。
「座ったら?」
「答えてください」
「注文してからでも遅くないよ」
またかわされた。
クラリッサは不満を抱えたまま座る。
店員が来ると、レオンハルトはメニューを開きもせず言った。
「栗のタルトと、蜂蜜の焼き菓子。それから季節の果物を使ったものを一つ。紅茶は香りの軽いものを」
クラリッサが注文しようとしていたものとほぼ同じだった。
「……私の分ですよね?」
「もちろん」
「私、まだ何も言ってません」
「違った?」
違わない。
「殿下」
「レオン」
「呼びません」
「二か月経ったのに?」
「期間は関係ありません」
「では何か月なら呼んでくれる?」
「そういう問題でもありません」
注文した菓子が届く。
クラリッサはタルトへフォークを入れた。
隣ではなく向かいに座るレオンハルトが、頬杖をついてこちらを見ている。
「見ないでください」
「なぜ?」
「食べにくいです」
「前はもっと無防備だったのに」
フォークが止まった。
「前?」
「三か月前」
クラリッサはゆっくり顔を上げた。
レオンハルトは笑っていた。
「あの日もそれを食べてた」
「……見ていたんですか」
「うん」
「どこから」
「奥の席」
クラリッサは店内を振り返る。
奥には背の高い観葉植物が置かれ、その向こうに二人掛けの席がある。
「あの日、君は書類を山ほど持って入ってきた。最初の十分は仕事をしていたのに、タルトが来た途端に全部鞄へしまった」
記憶がある。
新しい輸送契約をまとめた日の夕方だ。
ひどく疲れていて、自分への褒美に栗のタルトを頼んだ。
「一口食べて、しばらく目を閉じてた」
「……そんなことまで」
「幸せそうだったから、覚えてる」
クラリッサはフォークを皿へ置いた。
妙な感じがした。
「それで私がベルモンド商会長だと?」
「翌日に調べた」
「翌日?」
早すぎないだろうか。
「なぜわざわざ」
レオンハルトは紅茶を一口飲んだ。
「興味があったから」
「……私に?」
「そう」
あまりにも自然に肯定され、クラリッサは次の言葉を失った。
レオンハルトはそれ以上説明せず、皿を彼女の方へ少し押した。
「食べないの?」
「食べますけど……」
頭の中に小さな疑問が残った。
三か月前に見かけた。
翌日に調べた。
その後、自分が秘書を募集したら応募してきた。
偶然。
そう考えるには、何かが引っかかる。
けれどレオンハルトはもう別の話をしていた。来週の輸入品について、港の検査日程が変わるという。
クラリッサも仕事の話へ戻った。
その日の帰り道、彼女は初めてレオンハルトを「秘書になる前から自分を知っていた男」として考えた。
それでもまだ、答えには届かなかった。
◇
答えが形になったのは、それから半月後だった。
きっかけは縁談である。
ベルモンド家へ、北部の子爵家から正式な縁談が届いた。
相手は三十一歳の次男。王都で法律事務所を開いており、評判も悪くない。商会の経営に口を出すつもりはなく、結婚後もクラリッサが会長を続けることに異論はないという。
条件だけ見れば悪くなかった。
「会ってみようと思うの」
朝、クラリッサがそう言うと、予定表を書いていたレオンハルトが顔を上げた。
「誰に?」
「縁談の相手です」
「縁談?」
声は変わらない。
クラリッサは届いた手紙を渡した。
レオンハルトは一度読んだ。
「なるほど」
それだけだった。
「反対しないんですか?」
なぜそんな質問をしたのか、自分でも分からない。
「私が?」
「……秘書として。仕事に影響があるかもしれませんから」
「君が会長を続けるなら問題ないんじゃない?」
正しい。
それなのにクラリッサは、少しだけ拍子抜けした。
「そうですね」
「会うのはいつ?」
「今週末」
「分かった。予定を空けておく」
その日、レオンハルトは普段とまったく変わらなかった。
菓子も出た。
紅茶もいつも通り。
距離も詰めてこない。
週末、クラリッサは子爵家の次男と会った。
穏やかな男だった。
仕事への理解もある。話題も豊富で、クラリッサの商会についても事前に調べていた。
一時間ほど話し、もう一度会ってもいいと思った。
ところが帰宅すると、妙に疲れていた。
何が悪かったわけでもない。
ただ、会話の途中で何度も別の男が頭に浮かんだ。
この質問ならレオンハルトはどう返すだろう。
この紅茶なら彼はもう少し薄く淹れる。
出された菓子を見て、午後三時を思い出す。
最低だった。
縁談相手と会っているのに、秘書のことばかり考えていた。
翌週、商会へ行くとレオンハルトがいつも通り待っていた。
「おはよう」
「……おはようございます」
「縁談は?」
いきなり聞かれた。
「悪くありませんでした」
「そう」
「もう一度お会いするかもしれません」
「そうなんだ」
レオンハルトは予定表を渡した。
笑っている。
いつも通り。
クラリッサはなぜか苛立った。
「何とも思わないんですか?」
「何を?」
「だから、私が結婚するかもしれないことを」
レオンハルトはペンを置いた。
「私に何を言ってほしい?」
静かな問いだった。
クラリッサは答えられない。
やめろと言ってほしいのか。
嫉妬してほしいのか。
自分でも分からなかった。
「……何でもありません」
「そう」
彼は追わなかった。
その日の午後三時、菓子は出なかった。
クラリッサは時計を見た。
三時五分。
三時十分。
レオンハルトは仕事をしている。
「今日はないんですか」
「何が?」
「……お菓子」
「欲しい?」
また、その聞き方。
クラリッサは唇を結んだ。
「欲しいです」
「分かった」
レオンハルトは机の引き出しから箱を出した。
最初から用意していた。
「あるじゃないですか!」
「君が欲しいと言うまで出さないでおこうと思って」
「なぜです?」
「私がいなくても平気でいたいんだろう?」
二か月目の初めに自分が言った言葉だった。
クラリッサは箱を見た。
それから彼を見る。
「意地が悪いです」
「そうかもしれない」
「私が欲しいと言わなかったら?」
「明日も持ってくるよ」
「毎日?」
「君が欲しいと言うまで」
レオンハルトは笑った。
「私は気が長いんだ」
その言葉が、妙に耳に残った。
気が長い。
確かにそうだ。
彼は一度も急かしたことがない。
手にキスをしても、次の日には何もしない。
クリームを取って舐めても、クラリッサが抗議すればしばらく距離を置く。
欲しいかと聞く。
嫌かと聞く。
邪魔だったかと聞く。
そしてクラリッサが自分から一歩近づくまで待っている。
待っている?
そこまで考えて、クラリッサは動きを止めた。
「殿下」
「何?」
「……私を、口説いています?」
会長室が静かになった。
窓の外から荷車の音が聞こえる。
レオンハルトは驚かなかった。
笑いもしなかった。
ただ、椅子へ深く座り直した。
「ようやく気づいた?」
クラリッサは彼を見つめた。
「ようやく?」
「うん」
「いつからです?」
「最初から」
「最初って」
「面接に来た日から」
違う。
その前だ。
三か月前のカフェ。
翌日に自分を調べた。
そして秘書募集。
クラリッサは椅子から立ち上がった。
「まさか」
レオンハルトは動かない。
「秘書になったのも?」
「君のそばにいるには都合がよかったからね」
あっさり認めた。
「仕事がしたかったわけではない?」
「仕事は嫌いじゃないよ」
「そうではなく!」
「君が目的だった」
クラリッサは机へ手をついた。
頭の中で、この二か月の出来事が一気につながっていく。
異常なほど自分の好みに詳しかったこと。
毎日菓子を用意したこと。
手へのキス。
晩餐会で伯爵を遠ざけたこと。
クリーム。
馬車。
カフェ。
全部。
「……最初から、こうするつもりだったんですか」
「こうする、というのがどこまでを指しているかによるけど」
「私の生活に入り込んで、私があなたを頼るようにして……!」
レオンハルトは否定しなかった。
「仕事は手を抜いていないよ」
「そこが問題なんです!」
「なぜ?」
「有能すぎて辞めさせられないでしょう!」
言ってから、クラリッサは口を閉じた。
レオンハルトの表情が変わった。
ほんの少し、笑みが深くなる。
「辞めさせたくないんだ?」
「今のは仕事上の話です!」
「分かってる」
絶対に分かっていない顔だった。
「なら辞めてもらいます」
勢いで言った。
レオンハルトは眉一つ動かさなかった。
「いいよ」
クラリッサの方が戸惑った。
「……いいんですか」
「構わない。もう秘書でいる必要もないからね」
ぞくりとした。
怖いわけではない。
ただ、その言葉で初めて理解した。
秘書という肩書きは、彼にとって最初から手段だった。
そして今、その手段が不要になったということは。
「どういう意味です?」
「君はもう、私がいないと困るだろう?」
「仕事なら代わりを雇います」
「そうだね。仕事なら」
レオンハルトが立ち上がった。
机を回り込んでくる。
クラリッサは反射的に一歩下がった。
彼は追わない。
ただ、机の端へ腰を預けた。
「明日の午後三時、菓子がなくても平気?」
「……自分で買います」
「雨の日、遅くまで残ったら?」
「商会の馬車で帰ります」
「商談で腹を立てたとき、会長室へ戻って私がいなくても?」
「それくらい……」
言葉が続かなかった。
レオンハルトは穏やかに見ている。
追い詰めるような口調ではない。
だから余計に、クラリッサは自分で答えを探すしかなかった。
彼がいない朝。
空っぽの机。
午後になって扉が開いたとき、ほっとしたこと。
縁談相手と話している最中でさえ、レオンハルトを思い出したこと。
午後三時の菓子を待っていたこと。
そして今、彼に辞めてもらうと言っただけで、明日の会長室を想像したくなくなっている。
仕事だけではない。
とっくに。
「……ずるい」
ようやく出た言葉だった。
「うん」
否定しない。
「全部、分かってやっていたんですね」
「だいたいは」
「私が甘いものに弱いことも」
「最初に見たときから」
「手にキスしたのも」
「したかったから」
「クリームも?」
「あれもしたかった」
「……殿下」
「レオン」
また言われた。
今度は、いつものように即座に拒否できなかった。
レオンハルトがそれを見逃すはずもない。
彼はゆっくり近づいた。
クラリッサが下がれば止まる程度の速度だった。
けれどクラリッサは下がらなかった。
「クラリッサ」
「何です」
「手を出して」
「またキスするつもりですか」
「嫌ならしない」
答えを委ねられる。
いつもそうだった。
クラリッサはしばらく彼を睨んだ。
それから、右手を差し出した。
レオンハルトが取る。
今回は何をされるか分かっている。
それでも引かなかった。
彼は手の甲へ唇を触れさせた。
前より長く感じた。
顔を上げても手は離さない。
「ねえ、クラリッサ」
「……何です」
「次の縁談は断って」
「命令ですか?」
「お願い」
「王弟殿下のお願いは、ほとんど命令と同じです」
「なら王弟としては頼まない」
彼は指を絡めることはせず、ただ手を包んだ。
「君を初めて見た日、驚いたんだ」
「何にです?」
「一人であんなに幸せそうに菓子を食べる人がいるんだなって」
「……失礼ですね」
「褒めてる」
「褒め言葉には聞こえません」
「それから気になって、名前を調べた。商会長だと知って、もっと気になった。仕事をしている君を見たら、今度は話してみたくなった」
レオンハルトはそこで一度言葉を切った。
「でも普通に王弟として会いに行ったら、君は仕事の顔しかしないだろう?」
否定できなかった。
「だから秘書になったんですか」
「一番近くで、長く一緒にいられる」
「発想がおかしいです」
「結果はよかった」
「あなたにとっては、でしょう」
「君にとっても悪くなかったと思うけど」
反論しようとして、できない。
残業は減った。
商会の業務も改善した。
何より、この二か月は楽しかった。
忙しい仕事の合間に菓子を食べ、どうでもいいことで言い合い、時々ひどく動揺させられる。
以前より帰宅時間が早くなったのに、一日の終わりが来るのを惜しいと思う日さえあった。
「……いつから私が気づくと思っていたんです?」
「もっと早いと思ってた」
「悪かったですね」
「いや。予想より長く秘書でいられたから得した」
「本当にずるい」
「知ってる」
レオンハルトが笑った。
クラリッサはつながれた手を見る。
逃げようと思えば、手を引ける。
秘書を辞めさせることもできる。
王弟からの求愛を断ることもできる。
物理的には、どの道も残っている。
なのに、そのどれも選びたくない。
そこまで考えて、ようやく分かった。
逃げ道を塞がれたのではない。
自分で一つずつ、必要ないと思うようにされていたのだ。
甘い菓子を一口ずつ食べるように。
少しずつ慣らされ、気づいた頃には、もう以前の味気ない毎日へ戻りたくなくなっている。
「殿下」
「レオン」
「……レオン」
初めて呼ぶ。
彼は勝ち誇らなかった。
ただ目を細めた。
それだけなのに、クラリッサは負けた気がした。
「縁談は断ります」
「うん」
「でも、あなたと結婚すると言ったわけではありません」
「分かってる」
「まず交際です」
「もちろん」
「それから、勤務中の過度な接触は禁止」
「過度の基準は?」
「手へのキスは禁止です」
「勤務時間外なら?」
「……その都度、私に確認してください」
「分かった」
返事が早い。
クラリッサは嫌な予感がした。
「今は勤務時間外?」
時計を見る。
六時十二分。
定時は六時。
「……外です」
「では、もう一度していい?」
「さっきしたでしょう!」
「その都度確認しろと言ったから」
「今の今で使わないでください!」
レオンハルトが笑う。
クラリッサは手を引こうとした。
今度は少しだけ握られた。
強くはない。
本気で引けば離せる程度。
「クラリッサ」
呼ばれて顔を上げる。
「何です」
「好きだよ」
初めて、はっきりと言われた。
あまりに普通の声だった。
告白のために用意した言葉ではなく、ずっと前から決まっていた事実を伝えるような声。
クラリッサは返事に困った。
二か月間、散々好き勝手に距離を詰めておいて、肝心な言葉だけ最後まで取っておいたらしい。
「……順番がおかしくありません?」
「そう?」
「普通はそれを先に言うものです」
「先に言ったら警戒しただろう?」
「します」
「だから言わなかった」
「やっぱり計算していたんじゃないですか!」
「もちろん」
悪びれない。
クラリッサは深く息を吐いた。
そして、少し迷ってから彼の手を握り返した。
「私も」
レオンハルトが黙る。
今まで一度も崩れなかった余裕が、ほんのわずかに止まったように見えた。
それを見つけたクラリッサは、初めて自分が一つ取り返した気がした。
「続きは?」
すぐにいつもの調子へ戻った男が尋ねる。
「言いません」
「なぜ?」
「あなたばかり余裕なのが腹立たしいので」
「それは困ったな」
困っているようには見えない。
「では、言いたくなるまで待つよ」
また待つのか。
この男は本当に気が長い。
ただし待っている間も、何もしないわけではないのだろう。
クラリッサはもう知っている。
◇
翌日の午後三時。
会長室の小卓には、二人分のケーキが並んでいた。
「どうして二つなんです?」
「今日は私も食べる」
「甘いものはそれほど好きではないと言っていたでしょう」
「君と食べるのは好きになった」
「……そういうことを仕事中に言わないでください」
「接触は禁止されたけど、会話は禁止されてないよ」
クラリッサはフォークを持ったまま睨んだ。
レオンハルトは涼しい顔で自分のケーキを一口食べる。
「甘いな」
「ケーキですから」
「君はこれが好きなんだ?」
「好きです」
「私とどちらが?」
クラリッサは無言でケーキを食べた。
「クラリッサ」
「仕事に戻りますよ」
「まだ休憩は十分残ってる」
「戻ります」
立ち上がろうとしたところで、レオンハルトがこちらを見た。
「クリーム」
クラリッサは即座に口元を拭った。
「どこです?」
「嘘」
「レオン!」
笑い声が会長室に響く。
以前なら腹を立てていただろう。
今も腹は立つ。
けれど、追い出そうとは思わない。
クラリッサは席へ戻り、残っていたケーキを一口食べた。
甘い。
その向こうで、レオンハルトが満足そうに紅茶を飲んでいる。
気づいたときには遅かった。
王弟殿下は秘書になりたかったわけではない。
最初から、クラリッサを手に入れるためにここへ来たのだ。
そして彼女は、その企みに気づくよりずっと前から、毎日少しずつ甘やかされ、頼ることを覚え、彼が隣にいる時間を好きになっていた。
逃げられないのではない。
もう、逃げたくなかった。
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