「透明な盾」
この物語の中で失われた命に、
哀悼の意を。
亡くなった生徒の机の上に、白いメモ用紙が一枚だけ置かれていた。
花はなかった。
手紙も、写真もない。
ただ、その紙だけが残っていた。
そこには、誰のものとも知れない筆跡で、たった一行だけ書かれていた。
——騙された代償は、命。
海は、最初からそこにあった。
教室の窓から見える海とは違う。
もっと遠くて、静かで、妙に澄んだ青だった。
異国の海だった。
ガイドが、少したどたどしい言葉で言った。
「このあたり、サンゴ、とてもきれいです」
誰かが声を上げた。
狭い船の上で、スマートフォンがいっせいに上がる。
「やば、めっちゃ透明じゃん」
俺もそう思った。
船べりのすぐ下を、光が流れていく。
揺れる影が、ゆっくりついてくる。
見えているものはそれだけだった。
——そのときまでは。
おかしいと思ったのは、まず音だった。
無線機から声が漏れている。
何を言っているのかは分からない。
けれど、調子だけが妙に荒れていた。
船長が短く何かを返す。
日に焼けた横顔は、ほとんど動かなかった。
教師は気づいていないのか、気づかないふりをしていたのか、
生徒のほうを向いたままだった。
「ほら、あそこ見て」
指さした先に、小さな船がいくつも浮かんでいた。
見学用の船にしては多すぎた。
近づいている。
いや、違う。
俺たちが、あれに近づいていた。
空気が変わった。
さっきまで船の上にあふれていた笑い声が、少しずつ消えていく。
「……なんか、変じゃね?」
誰かがそう言った。
教師は笑った。
「大丈夫だって。見学コースだから」
言い方が軽すぎた。
そのくせ、目だけは笑っていなかった。
警備艇が現れた。
白い船体が、無駄のない動きでこっちへ寄ってくる。
それを見た瞬間、無線の声がさらに荒くなった。
それでも船長は進路を変えなかった。
前だけを見ていた。
その顔を見たとき、変な感じがした。
迷っている顔じゃなかった。
知っている顔だった。
ここから先に何があるのか、最初から知っているような。
そのとき、俺は初めて教師の顔を見た。
固まっていた。
もう笑っていなかった。
衝撃は、音より先に来た。
体が跳ねる。
すぐ隣の誰かの肩にぶつかる。
足の置き場が消える。
何が起きたのか分からなかった。
次の瞬間には、水だった。
海は、冷たくはなかった。
でも、深すぎた。
「掴め!」
誰かが叫ぶ。
ロープが飛んでくる。
指が滑る。
掴んだと思ったのに抜ける。
もう一度、腕を伸ばす。
水面に顔を出したとき、世界はもう壊れていた。
船は大きく傾いていた。
叫び声があった。
沈んでいく背中が見えた。
誰のものだったのか、今でも分からない。
さっきまで透明できれいだった海は、もう何も映していなかった。
穴だった。
深くて、暗くて、底の見えない穴にしか思えなかった。
病室で目を覚ましたとき、最初に聞こえたのはテレビの音だった。
「事故の原因については現在——」
そこで言葉が切れて、別の声に変わった。
母親が泣いていた。
調査は、なかなか進まなかった。
教師は、詳しい航路までは聞いていなかったと言った。
船長は、危険は想定していたと言った。
証言は揃わなかった。
「サンゴを見るだけだと思っていた」
「何か変だとは思っていた」
俺は、あのときの教師の顔を何度も思い出していた。
あの声も。
——大丈夫だって。
あれは、本当に俺たちに向けて言った言葉だったんだろうか。
ある日、調査資料の一部を見せられた。
航路図だった。
最初から、線が引かれていた。
サンゴ礁の外側をかすめるように伸びて、
そのまま別の船団の縁へつながっている。
見た瞬間に分かった。
偶然じゃなかった。
「これは、どういうことですか」
誰かが聞いた。
けれど、誰もすぐには答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
俺はその線を見ていた。
まっすぐだった。
無駄がなかった。
ためらった形跡もなかった。
きれい、というより、冷たかった。
最初から、こうするために引かれた線だった。
そのとき、ようやく分かった。
あの日、
俺たちは学校に守られていたんじゃない。
守らせるために、
そこにいた。
退院してしばらくしてから、海を見に行った。
同じ場所じゃない。
近くの、ただの海だ。
それでも、透明だった。
光が揺れていた。
何も変わっていないように見えた。
隣で、小さな子どもが言った。
「きれい」
俺は、何か言おうとして、やめた。
ただ、あのとき見た海と同じものが、
どこまでも続いていることだけは分かった。
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、出来事はすべて創作であり、実在のものとは関係ありません。
特定の思想・立場を肯定または否定する意図はありません。




