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「透明な盾」

掲載日:2026/04/19

この物語の中で失われた命に、

哀悼の意を。

亡くなった生徒の机の上に、白いメモ用紙が一枚だけ置かれていた。


花はなかった。

手紙も、写真もない。

ただ、その紙だけが残っていた。


そこには、誰のものとも知れない筆跡で、たった一行だけ書かれていた。


——騙された代償は、命。


海は、最初からそこにあった。


教室の窓から見える海とは違う。

もっと遠くて、静かで、妙に澄んだ青だった。


異国の海だった。


ガイドが、少したどたどしい言葉で言った。


「このあたり、サンゴ、とてもきれいです」


誰かが声を上げた。

狭い船の上で、スマートフォンがいっせいに上がる。


「やば、めっちゃ透明じゃん」


俺もそう思った。


船べりのすぐ下を、光が流れていく。

揺れる影が、ゆっくりついてくる。

見えているものはそれだけだった。


——そのときまでは。


おかしいと思ったのは、まず音だった。


無線機から声が漏れている。

何を言っているのかは分からない。

けれど、調子だけが妙に荒れていた。


船長が短く何かを返す。

日に焼けた横顔は、ほとんど動かなかった。


教師は気づいていないのか、気づかないふりをしていたのか、

生徒のほうを向いたままだった。


「ほら、あそこ見て」


指さした先に、小さな船がいくつも浮かんでいた。

見学用の船にしては多すぎた。


近づいている。


いや、違う。


俺たちが、あれに近づいていた。


空気が変わった。


さっきまで船の上にあふれていた笑い声が、少しずつ消えていく。


「……なんか、変じゃね?」


誰かがそう言った。


教師は笑った。


「大丈夫だって。見学コースだから」


言い方が軽すぎた。

そのくせ、目だけは笑っていなかった。


警備艇が現れた。


白い船体が、無駄のない動きでこっちへ寄ってくる。

それを見た瞬間、無線の声がさらに荒くなった。


それでも船長は進路を変えなかった。


前だけを見ていた。


その顔を見たとき、変な感じがした。

迷っている顔じゃなかった。

知っている顔だった。


ここから先に何があるのか、最初から知っているような。


そのとき、俺は初めて教師の顔を見た。


固まっていた。


もう笑っていなかった。


衝撃は、音より先に来た。


体が跳ねる。

すぐ隣の誰かの肩にぶつかる。

足の置き場が消える。


何が起きたのか分からなかった。


次の瞬間には、水だった。


海は、冷たくはなかった。


でも、深すぎた。


「掴め!」


誰かが叫ぶ。

ロープが飛んでくる。


指が滑る。


掴んだと思ったのに抜ける。

もう一度、腕を伸ばす。


水面に顔を出したとき、世界はもう壊れていた。


船は大きく傾いていた。

叫び声があった。

沈んでいく背中が見えた。

誰のものだったのか、今でも分からない。


さっきまで透明できれいだった海は、もう何も映していなかった。


穴だった。


深くて、暗くて、底の見えない穴にしか思えなかった。


病室で目を覚ましたとき、最初に聞こえたのはテレビの音だった。


「事故の原因については現在——」


そこで言葉が切れて、別の声に変わった。


母親が泣いていた。


調査は、なかなか進まなかった。


教師は、詳しい航路までは聞いていなかったと言った。


船長は、危険は想定していたと言った。


証言は揃わなかった。


「サンゴを見るだけだと思っていた」


「何か変だとは思っていた」


俺は、あのときの教師の顔を何度も思い出していた。


あの声も。


——大丈夫だって。


あれは、本当に俺たちに向けて言った言葉だったんだろうか。


ある日、調査資料の一部を見せられた。


航路図だった。


最初から、線が引かれていた。


サンゴ礁の外側をかすめるように伸びて、

そのまま別の船団の縁へつながっている。


見た瞬間に分かった。


偶然じゃなかった。


「これは、どういうことですか」


誰かが聞いた。


けれど、誰もすぐには答えなかった。


答えられなかったのかもしれない。


俺はその線を見ていた。


まっすぐだった。

無駄がなかった。

ためらった形跡もなかった。


きれい、というより、冷たかった。


最初から、こうするために引かれた線だった。


そのとき、ようやく分かった。


あの日、

俺たちは学校に守られていたんじゃない。


守らせるために、

そこにいた。


退院してしばらくしてから、海を見に行った。


同じ場所じゃない。

近くの、ただの海だ。


それでも、透明だった。

光が揺れていた。

何も変わっていないように見えた。


隣で、小さな子どもが言った。


「きれい」


俺は、何か言おうとして、やめた。


ただ、あのとき見た海と同じものが、

どこまでも続いていることだけは分かった。

本作はフィクションです。

登場する人物、団体、出来事はすべて創作であり、実在のものとは関係ありません。

特定の思想・立場を肯定または否定する意図はありません。

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