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残響異譚  作者:
6/6

夜の温もり。

東雲の視界、天井の木目がぼんやりと浮かぶ。

視線を動かすよりも先に、耳がそれを捉えた。


ギイギイと、まるで怪鳥の鳴き声のような音を立てているのは、外にかかるあの古びた梯子に違いない。

規則正しく、軽い足取り。登ってくるのは一人だけ。


東雲の視線は、すでに出入り口へ向いていた。

ついさっきまで眠っていたはずなのに、体はすでに起きている。


次いで足音が一歩、二歩。樹上に敷かれた木製の床によく響く。


たった一枚の布きれ。

人が迫れば、その気配は無遠慮に部屋へと立ち入ってくる。


ふらと布が揺れる。


現れたのは見知った顔。先ほどと変わらぬ装いで、弓は背に、矢筒もそのまま。

その姿に、東雲は銃へ触れかけた手をそっと引いた。


出入り口の前に立つ女。

ルーエの目元には、わずかに緊張の色が浮かんでいた。


東雲は、何かがあるのだろうと察しながら、それが何であるかを問うことはない。

何も言わず、軋む体を椅子から剥がしとる。


そんな東雲の様子を確認すると、ルーエは短く頷いた。

そして、出入り口の布を持ち上げたまま、一歩身を引き、道をあける。


――出ろ、ということだろう。


東雲は小さく息を吐いた。


開かれた出入り口。

なんてことはない。木と布があるだけ。

それが、今の男の目にはまるで違うものに見える。


断頭台へ続く道。


もっとも――胸の奥を探ろうと、恐怖の類は見当たらない。


あの戦いか、或いはあの。いずれにせよ、どこかの戦場に落としてきたのだろう。

ただ、これが自分の最期かもしれないと思った時、この部屋の木の匂いをもう一度、肺に詰めておこうと思った。


当然、死ぬと決まったわけではない。

むしろ拘束もせずに放置していたのだからその可能性は低い。

だが東雲は、常に最悪を前提に動く。そういう男なのだ。


出入り口へ向け一歩を踏み出す。

椅子で眠ったが、体は驚くほど軽い。わずかばかりの軋みも一呼吸の間に取れた。


ふと、手が無意識に、机の上から垂れた銃帯を掴んだ。

放り出された銃身から慣れ親しんだ重みが伝わる。


これから起こることが何であれ、今更無用の長物であることは確かだった。

しかし、一度は机へ置きかけたそれを、肩にかけ直し、東雲は歩き出した。


押し上げられた布の下をくぐる。


境界を超えると、夜の森の空気が全身を包んだ。

昼間よりもずっと冷たく、澄んでいる。

村はまだ眠っていないようで、眼下に喧騒が響いている。


ルーエが先導し梯子へ、東雲も続いて足をかける。


下るほどに、音が近づく。

東雲という存在も否応なしにその一部となっていく。


下につくと、何人かの村人がこちらの様子を伺っていた。

ルーエは気にする素振りもなく歩き出す。

東雲もそれに続く。


村の中を進むにつれ、視線は一層この異物へと注がれる。

露骨な敵意はない。だが、好奇の色は隠されてもいない。

すれ違う者たちは、彼の異様な服装や装備品を一瞥し、しかし何も言わずに道を譲る。


やがて広場へ出た。

村の中心、一際巨きな木が立っている。


その根元には、古い建物が寄り添うように立っている。

装飾は少ないが、他の小屋とは明らかに格が違った。


入口の前に、一人の老人が立っている。


白に近い灰色の髪。深く刻まれた皺。

背は曲がっているが、立ち姿は揺るがない。

手には杖とも儀礼具ともつかぬ木の棒を持っている。


老人は東雲を見た。

長く、静かに。


そして、その視線が傍らのルーエへと移る。

彼女はそれを受けて言葉を並べた。

短く、要点だけを並べているような調子だった。


老人は頷き、また東雲へと視線を戻す。


沈黙。


やがて老人は、ゆっくりと胸に手を当て、自らを指し示した。

そして、低く、短い言葉を発する。


「……エル=ナハ。」


名だ。

東雲は理解した。


この老人は、村の中心的人物。

いうなれば代表や指導者のような、意思の決定権を持つ存在だろう。


東雲は一拍遅れて、同じように胸に手を当てる。


「東雲宗一郎。」


老人は目を細めた。

そのまま、何かを思案するように沈黙する。

やがて、杖で地面を軽く打った。


何の合図か。

周囲にいた村人の何人かが動き出す。


東雲は彼らに連れられ、人垣の外へと案内された。

大仰な裁きの場を想像していたが、実際は拍子抜けするほど素朴な光景があった。


木の長椅子。

簡単な机。

そして、水と、果実。


座るよう促され、東雲は従った。


村人たちは一定の距離を保ち、その様子を伺っていた。

その中にルーエの姿もあった。


目は口程に物を言う。

向けられた視線の意味というのは時に言葉よりも正直に語るものだ。


この異物は何者なのか。危険はないのか。

それを皆が見ている。


老人――エル=ナハは、東雲を見て、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

当然、意味は分からない。


だが、語調は穏やかだった。

責めるでも、命じるでもない。


東雲は聞く姿勢だけを保った。

理解できない以上、余計な反応もできない。


話が終わると、エル=ナハは一人の若者に何かを指示した。

その若者は頷き、東雲の前に椀を一つ置いた。

満たされた水に月が浮かんでいる。


そしてまた沈黙。

はて、どうしたものかと思案して、エル=ナハの顔を覗き込む。

するとエル=ナハは椀の水を飲み干すような仕草をして見せた。

そしてこう囁く。「トゥリケ。」と。


彼らの言語は東雲からしたら当然聞きなじみのない単語ばかりだが、この言葉には聞き覚えがあった。

ルーエが椀を差し出す時に同じ言葉を口にしていた。


単に飲めという意味か、それとも何かを勧めるときの言葉か。

なんにせよ、もはや状況からみて飲む以外の選択肢はない。


東雲は椀を持ち上げると、目の前の老人と、水を注いでくれた若者に対して軽く礼をして、中の水を飲み干した。

不思議なことに、今の今まで人の生活という騒音に包まれていたはずの村の中が、この瞬間はぴしゃりと戸を閉めたように静まり返っていた。


木の机に椀を置く音が殊更に響く。


一拍をおいて、老人が頷く。

ふっ、と周囲の空気が緩み、せき止めていた水が溢れ出すように騒々しさが返ってくる。


今ので一体何を測られたのか。

東雲には知る由もないが、ひとまず周囲の警戒が解けたようなので良しとする。


その後は盆に乗った果物を一切れ差し出されたのでそれを口にした。

瓜のようなみずみずしい果実で、優しい甘さが空きっ腹に染みた。


同じ果実を村人が一切れずつ食べている。

東雲はぼんやりと、その様子を眺めていた。


それから食事になった。

皆が一所に集まって食事をする。

そういう文化なのか、それとも今日だけなのか、それは定かではない。


部外者である東雲にも、皆と同じ食事が出された。

何日かぶりの温かい食事。


それを前に東雲は酷く動揺した。

そして、「これも何かを測る試験か、遠慮すべきなのではないか」と悩んだのは、すべてを平らげた後だった。


味もわからぬうちに腹の中に放り込んでいたらしい。

この皿の上には何が乗っていたのか。それさえ覚えていない。

ただ、腹の奥に温かみを感じる。


そんな様子に周囲の村人たちは目を丸くしていた。

まったく空腹とは恐ろしいものである。

東雲は白々しくもそんなことも考えていた。


食事が終わっても、東雲は特に拘束されることもなく、再び小屋へと戻される。

ルーエとともに先ほど来た道を戻る。

ただ一つ違ったのは、道すがら、村人が近づいてきたことだ。


それは小さな女の子だった。

背丈は腰ほど。感情と連動でもしているのか、尖った耳がぴくぴくと動くことがあり、東雲は不思議な人種だと改めて思った。


横にいるルーエにも視線を向ける。

この村の住人は総じて背が高く、肌は褐色で耳がとがっている。そして皆、顔や体に金の模様を描いている。

熱い地域でもないのに、服装はやけに軽装。顔を覆う布はいつの間にか外していた。


目が合うと、ルーエは静かに微笑んだ。


「……。」


東雲はなんとなく、その顔を見続けることができなくて、視線を女の子に落とした。


女の子も東雲の服装や見た目に興味があるのか、コートの端を掴んで中を覗き込んだりしている。

東雲は、それを蹴とばさないように注意して歩いた。


梯子の前につくと、女の子が何かを差し出した。

それは木の実だった。


小さな手。東雲はそっと受け取る。

かたい殻に覆われており、振るとカラカラと音を立てる。

どうすべきか分からず、頷いてみせた。


「トユス!」


子供はそれで満足したのか、駆けていった。


「……トユス。」


ルーエも短い言葉を残して去っていく。


「トユス……か。」


その背を見送りながら、東雲は思う。

自分はなぜここにいるのか、と。


役割も、命令も、あるわけではない。


――ただ、ここに居る。


それだけのことが、なぜだか重く、そして奇妙に確かな感触を伴って胸に残っていた。


東雲は梯子を上り、入口の布を少しだけ開けたまま、横になる。

外には、まだ村人の声が残っている。


彼は、深く息を吸い込む。

吐き出すとき、もうため息にはならなかった。

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