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残響異譚  作者:
4/5

休息。

森を往く。

奥へと踏み入るにつれ、辺りを満たしていた温気は失われ、代わりに顔を出した冷気が、東雲の肌を遠慮がちに撫でた。


そこは、外界とは相貌も気配もすっかり異なっている。

それどころか、東雲の知るいかなる現実とも似つかぬ、異質な静けさを湛えている。


彼は目に見えない存在――つまるところの神仏や、それに連なる類のものを殊更に信じるたちではない。

それでも、強いて言うならば、この森はそうした「何か」に抱かれている。そんな気がしていた。

得体は知れず、名も与えがたいが、不思議と心をほどく安らぎが、静かに満ちていた。


先ほどの草原はまだ幾分かの真実味というものを持ち合わせていた。

しかし、この森ときたら、まるで節操なく幻想を詰め込んだ御伽草子のような有様だ。


わずかに明滅する苔。踊るように揺れる茸。木の根の向こうを走り回る毛玉のような何か。

銀緑の森というだけでも十分に胡散臭いのに、その実は珍妙怪奇の博覧会である。


まるで現実という層が、一枚、音もなく剥がれ落ちたかのような感覚。

しかし、東雲にとってそれは思いの外悪いものでもなかった。

この男が、もはや現実などというものに、微塵も未練を持っていないせいかもしれない。


むしろ、この森に心地よさすら感じている。

それは、冷たい水面の上に立っているかのような、澄明で淀みのない涼気が、外套の内に籠もった煩わしさをさらっていくからだろう。

常より物事を斜に構えて眺めるこの東雲という男も、この森の空気を肺いっぱいに吸い込んだ時には、率直な安堵を覚えずにはいられなかった。


森の内は、外から見るよりか幾分明るい。

緑銀の葉を透かして落ちる陽光が、地表を覆う苔を淡く照らしている。


それは、熱と破壊ばかりの閃光ではない。

柔らかく、静かで、確かな生を宿した光だった。


前を行く女の背に、木漏れ日が斑の陰影を描く。

それは、するすると音もなく流れ落ちる滝のようで、東雲はただそれを眺めた。


陰翳の中にあっても、その背はよく見える。

しなやかな筋肉が布の下でわずかに波打つ。

歩幅は東雲よりやや小さい。しかし、森と軋み一つ交わさないその身のこなしは、ほとんど自然の一部と言ってよかった。


東雲は黙してその後を追う。聞こえるのは、さらさらと服に触れる草葉の声だけ。

女は折に触れて振り返るが、それは警戒の眼ではなく、落伍した子供を気遣うような、淡い視線だった。


この先に何が待つのか。今さらする命の皮算用など何の意味も持たない。

とはいえ、染みついた習性は容易に拭い去れるものでもないらしい。

東雲は視界の端に映る事象を、一つ一つ、淡々と拾い続けた。そんな自分にどうしようもない笑みが漏れる。


歩く二人。依然言葉はない。

どれほど進んだかと天を仰げば、傾いていたはずの太陽が高く昇っている。

変わったことといえばもう一つ。耳に届く川音。

初めはかすかに聞こえるだけだったそれが、今は随分と大きい。


先行していた女の足が、大岩の上で止まる。

振り返る視線に促され、東雲もまた岩上へと足を進めた。

すると、水の音が全身を打った。目の前に大きな川が現れたのだから当然だ。


幅は広く、さほど深さはない。流れは緩慢にして透明度は高く、水底の砂礫が揺らいでいる。

川というものに対する嫌な記憶に事欠かない東雲であるが、この水はそのまま飲用に供しても差し支えがないほど清冽に映った。


女はひとつ深呼吸をしてから岩を降り、川辺の石に腰を下ろす。

しばし様子を窺っていた東雲も、これを休止と判断し、同様に腰を落とす。


この景色のせいか、それともここまでの疲労のせいか。

東雲の口から自然とため息が出る。


「……。」


東雲がふと横を見ると、女の視線がまっすぐに自分へと向けられていた。

布に隠されて表情までは掴めないが、目の端はわずかに落ちている。


東雲もまた視線を返す。

その表情は石仮面のように変わらない。


川と森だけが在る。

他に音はない。


川辺に並び座す無言の男女。

見ようによっては、長年連れ添った夫婦のようにも映る。

が、その実は先ほど出会ったばかりの言葉さえ通じない二人。


常人であれば、ここに一抹の気まずさでも生まれそうなものであるが、しかし生憎、彼らはそんなことを感じるたちでもないようだった。


女は徐に矢筒へとぶら下げた何かを外す。

それは椀であった。木製で、歪みなく削られ、外面には精緻な紋まで彫られている。

背負う弓もまた、近くで見れば金属による補強が施されていた。

東雲は技術水準という点において、彼女、あるいは彼女の属する勢力への評価を改めた。


女は椀を川に浸し、一杯の清水を汲んだ。そしてそれを、東雲へと勧める。

自ら飲むものと思っていた東雲は、突然差し出されたそれを前に一瞬動きを止めた。


「トゥリケ。」


女はさらに腕を伸ばし、勧める。

椀の中で水面が静かに揺れる。

草原と森を歩き続けた東雲に、これを拒む理由はなかった。


東雲は最低限の礼として頭を下げ、椀を受け取ると、一息に飲み干した。


「……はぁ。」


格別の味がした。いや、特段変わりのない、ただの水である。

だが、濁水を啜るような生活に身を置いてきた東雲は、清潔な水の価値をよく知っていた。


女は先ほどよりも、わずかに笑んだように見えた。


椀を返すと、女は再び水を汲み、また差し出す。

東雲はこれも受け、同様に飲み干す。


椀を返す。水を汲む。

東雲が三度目を断ると、女はそれを自ら飲んで、また矢筒へと結わえる。

細く、長い指がいやに美しい。

椀が落ちないかを確認した後、女の手はすっと彼女の胸の前へと移動する。


「ルーエ。」


東雲は、それが彼女の名前なのだろうと理解した。

しかし、察しばかりがよくても、まともな人付き合いというものをしてこなかった男だ。

如何に応ずべきかと悩むうち、沈黙が落ちた。


「ルーエ。」


今更反応を示そうにも間が空きすぎてしまってまったくきまりが悪い。

東雲がそんなことを考えていると、女がもう一度、同じ言葉を重ねた。


「……ルーエ。」


これに今度は反唱してみせる。

そんな東雲を見て、女は満足げに頷いた。


次いで、女は東雲の胸に手を当てる。

近い。薄布の向こうに顔が透けて見えそうだった。

わずかに香る花のような甘さに、自分の匂いはさぞかし酷かろうと苦笑いが出る。


言葉はない。

だが、何を求められているかなど明白だった。


東雲は、出会った時に一度名乗ったことを思い出しつつも、この際無粋なことは言うまいと口を開く。


「東雲。」


「シノメ。」


「……東雲。」


「シノメ。」


「ああ。シノメだ。」


諦めた東雲が頷くと、ルーエは何度か「シノメ」と繰り返した。

そのあとはまた同じ。


川の畔に二つの影。

聞こえるのは、川と森の音だけ。

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