第78話 消えない傷跡
ギルバートレアーー大浴場 聖滝の湯
立ち込める湯気の中、ノアとアデルは湯桶を手に背中を洗い合っていた。
背中を流し終えると、相手が軽く頷いて口を開く。
「よし、綺麗になった。――じゃあ、今度は僕の背中も流してもらおうかな」
「はい!」
張り切って桶に湯を汲み、背後に回り込んだ。
その瞬間――思わず手を止める。
目の前に広がる背中。ぱっと見は細身でしなやかに見える体つき。
けれど実際に手を当てれば、そこにあるのは無駄のない研ぎ澄まされたアデルの肉体だった。
引き締まった肩、力強い背筋。触れるたびに、その厚みに圧倒される。
(すごい……! 線が細いと思ってたけど全然違う。これ……戦士の体だ……)
だが――それ以上に目を引いたのは、背に刻まれた数えきれない傷跡だった。
新しいものもあれば、古びて色あせたものもある。
よく見れば、傷は背中だけにとどまらない。
肩から腕へ、腰から脚へと、全身に刻まれた痕跡が浮かび上がる。
その肉体は、まさに戦場を渡り歩いてきた証そのものだった。
思わず息をのむ。
湯気の向こうで背中を流しているだけなのに、その背は言葉以上に雄弁に、生き様を語っていた。
手が止まっているのに気づいたのか、アデルが振り返らずに声をかけてきた。
「……ああ、傷が気になるのか」
そう言って、肩甲骨のあたりを軽く指で叩く。
「ここにあるやつは、グリフォールって怪鳥にやられた時の傷だ。仲間をかばった時にね」
その声音は淡々としていたが、湯気の奥にかすかに滲む誇りを感じ取った。
おどけるように、今度は背の真ん中を軽く撫でる。
「この一番でかい傷はキングスレオだね。光獅子の二つ名を持つ魔物だ。……ま、どっちも倒したけどね」
軽い口調。だがその一言が持つ重みは、計り知れなかった。
あの“岩犀ゴルガンド”ですら、姉と二人でやっとの思いで退けた魔物だ。
そのさらに上をいくであろう怪鳥や獅子を、たった一人で打ち倒した人間が――今こうして、同じ湯船で同じ場で語っている。
その事実に気づいた途端、胸の奥が熱くなる。思わず、言葉を失った。
その数多の傷の中で、ひときわ目を引くものをノアは感じとった。
(……なんだろう。魔の気配が……微かにする)
それは背中から肺を突き抜けて貫通した、一本の深い剣傷。
魔物の爪でも獣の牙でもない――明らかに”剣による痕跡”だった。
「……この傷は」
思わず声に出しかけたより先に、低く答えが返る。
「触らないほうがいい。その傷には、今も呪いが残っているんだ」
ぞくりと背筋を震わせ、思わず手を引いた。
その瞬間、立ち込める湯気がひやりと冷たく感じられ、湯面がわずかにざわついたように見えた。
背中越しの声は、これまでの軽口とは違い、どこか重く沈んでいる。
湯気の向こうで、彼の横顔に影が差す。
「この傷を刻んだ相手と、再び対峙すること――それが、僕の人生の悲願の一つなんだ」
湯気の奥に見えた横顔は、遠い記憶を見つめるような陰を帯びていた。
「それって――」
思わず口を開きかけた。
だが、その言葉を遮るように片手がひらりと上がる。
「話すと長いし……暗い話になっちゃうから、今日はここまでにしよう」
背中を軽く叩きながら、わざと明るい声で続ける。
「さあ、もう十分きれいになったろ? 湯舟に行こう」
その調子に合わせるように、場の空気も再び和らいでいく。
まだ聞きたいことが山ほどあったが、今はただ「はい」と頷き、その背に続いた。
立ち上がったアデルが、湯けむりの向こうを指さす。
「ここの名物は“滝撃ちの湯”でね。あれに撃たれると筋肉がほぐれて、いい感じになるんだよ~」
視線を向け――そして、思わず目を疑った。
そこには巨大な滝のように湯が流れ落ちる一角があり、その真下に人影があった。
ふんどしのような布一枚で股間をつつみ、光の魔法で後光をさしながら、空中にふわりと浮かび上がり滝を全身に浴びている人物。
「……賢者様!?」
湯気と水しぶきの中、魔法使いとは思えない鍛え上げられた肉体のギルバートは悠然と座禅を組み、仁王像のごとき表情で滝撃ちを受け止めていた。
轟音に包まれても眉ひとつ動かさず、ただ目を閉じ、静かな呼吸を繰り返している。
思わず口をパクパクさせているノアの横で、アデルは腕を組み、満足げに頷いた。
「ほらな? 言ったとおりだろ。筋肉がほぐれるんだよ、あれで」
「あれで!?」
滝の下で仁王のように座禅を組んでいたギルバートが、湯気越しにこちらを見やって声をかけてきた。
「来たか。よく覚えておきなさい――衣を脱げば地位も外聞も関係ない。裸でこそ、人は心を映すのだ」
堂々たる賢者の言葉に、「は、はい……」と小さく頷きながらも、横目でじろりとアデルを見やる。
(……え、お風呂に入る前に言ったあのセリフって賢者様の受け売りだったんですか……!?)
ジト目を向けられたアデルは、気まずそうに湯をかき混ぜてごまかすのだった。
ギルバートはふっと目を開けると、座禅の姿勢のまま、湯面からすうっと浮き上がり、後光を浴びながら湯気の向こうへ漂っていく。
「では、私は先に上がるから。後でな」
その背は、全てを悟っているかのように堂々とした浮遊で、静かに浴場を後にした。
湯面には静かな波紋だけが残り、漂う湯気が余韻のように揺れていた。
ぽかんと口を開けたまま見送ると、隣のアデルはうんうんと頷き、視線を交わす。
「……賢者様って、やっぱり規格外なんですね」
「昔からあんな感じだよ」
二人は湯に肩まで浸かり、しばし黙って湯音に耳を傾けていた。
やがてアデルが口を開く。
「……立ち会いのときは、煽るようなことを言って悪かったね」
驚いたように目を瞬かせ、けれどすぐに首を振った。
「大丈夫ですよ。最初はカチンときましたけど……でも、わかりました。合わせて剣を交えながら、本音を引き出そうとしてくれてたんですよね?」
静かな湯気の中、少年の真っ直ぐな瞳がアデルを映す。
小さく笑い、湯をかき混ぜながら「よくわかったね」と頷いた。
「……でもね。言ったこと自体は、僕の本音だよ」
湯気の向こうで、その表情が少しだけ硬くなる。
「君みたいに突出した力を持てば……きっと他の人間からも同じことを言われるだろう。妬まれたり、疎まれたりすることもあると思う」
静かな声には、どこか過去を知っている者だけが持つ重みがあった。
少しのあいだ黙っていたが、やがて小さく笑みを浮かべる。
「……それも、慣れさせるために言ったんでしょ? 他の人に何を言われても、傷つかないようにって」
真っ直ぐな視線を向ける。
「……優しいですね」
その言葉に、アデルはわずかに目を見開き――そして照れ隠しのように湯をかき混ぜた。
顔を背けた横顔には、確かに安堵と、ほんの少しの誇らしさがにじんでいた。
ふっと笑みを浮かべ、肩まで湯に沈めながら言葉を続ける。
「君とは、きっと長い付き合いになるからさ。最初のうちに思いのたけを話しておいた方が、互いに気持ちよく生活できるかなって思ったんだ」
柔らかな笑顔に、湯気がゆらゆらと溶け込んでいく。
敵意や上下関係ではなく、ただ純粋に後進を思う先輩剣士の表情だった。
その横顔を見つめながら、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じていた。
(ものすごく強いのに、全然飾らない人だ……。こういう大人に、僕もなりたい。必ず――なってみせる)
その瞬間、胸に「この人を信じていい」という確信が宿った。
湯に揺れる光が、二人の間に静かな絆を映し出していた。
アデルは勢いよく立ち上がり、湯しぶきを飛ばしながら拳を突き上げた。
「よし! 俺たちの友情は固く結ばれた! 一緒に目指すは――更なる剣の高みだ!」
そのまま浴場中央に立つ、剣を掲げたセレスティア像を堂々と指さす。
だが、その勢いで腰に巻いていたタオルが――ハラリ、と音を立てて落ちた。
鍛え抜かれたアデルの“すべて”が露わになった。
「すごい……これが剣聖としての器……! 僕、目指します! あなたみたいな人に!」
瞳をきらきら輝かせ、少年のようにまっすぐに言葉を放つ。
しかしアデルはしばし沈黙したのち、湯気の中で苦笑を浮かべてつぶやいた。
「ノア君……ちゃんと顔を見てしゃべってくんない?」
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