第66話 諸悪の根源
「ヴァトラス殿下……そしてジュディーカ殿下、我々の目的は、其方らと争うことではない」
「――話を戻させてもらおう」
その声に込められた魔力と言葉の重みは、他の誰にも逆らえぬ絶対の力そのものだった。
その呼びかけに、荒ぶる紅の瞳を光らせていたヴァトラスも、しばし沈黙ののち鼻を鳴らす。
「……ふん」
水晶の向こうでジュディーカが舌打ちをする。
「ちっ……わーったよ」
短く吐き捨てるように言ったきり、声はおとなしく沈黙へと変わった。
「……次の侵攻は、いつだ。アスレオ・メギアトス」
アグナの問いに応じたのは、円卓の一角でふわりと浮かぶ小さな影だった。
沈黙の大魔導士――“漆黒魔典”アスレオ・メギアトス。
それは、人間の幼子ほどの背丈。
雪のように白い肌に、砂粒のようにきらめく銀髪。
背中には夜色の蝶の羽が生え、淡い光を揺らしながらはためいている。
その姿は妖精のように可憐で、同時に底知れぬ異様さを放っていた。
「結論から言えば……十年は要するじゃろうな」
口を開けば、幼い声の響きに、幾世紀を渡った長老のような老成が重なる。
アスレオの周囲に浮遊する魔導書が、勝手にぱらぱらと頁をめくり、影をちらつかせた。
「ゼムノスが記録さえ残していれば、あるいは可能性はあったが」
「あやつ……結局最後まで個人主義の亡霊であったな。魔人様のお気に入りだがなんだがしらんが、実に非効率じゃ」
幼子のような外見と声で語られるその冷徹な叱責。
妖精じみた羽の光と相まって、場の魔族たちの背筋に薄気味悪い寒気を走らせた。
一拍置いてから、わずかに顔を伏せる。
「“狂気の紅月”が失われた影響は大きい。結界に突破に必要な魔力の律動はあの月の引力と共鳴していた」
その語り口はあくまで淡々としていたが、声の端にかすかな疑念が滲む。
「……帝国の神言使いが“天を穿つ術”を発動した直後、紅月が崩壊していったと記録されている。
……無関係と断じるには、少々出来すぎているな」
アスレオはさらに一頁をめくり、静かに続けた。
「月の再生には、少なくとも十年を要する。狂気の紅月は、単なる天体ではない。魔力の流れを律する“柱”のひとつだ。……それまで大侵攻は無理だな」
その時――ぞわり、と這い上がるような気配が広間に広がった。
床の石の隙間から、小さな甲殻類のような虫たちがぞろぞろと湧き出す。
羽音も足音も立てぬまま、無数の虫が波のように這い出し、音もなく最後の七魔星の椅子の足元へと集まり、人の形を象る。
その主――“蠢く蝗害”ラヴィア・アスネラ。
顔の下半分を覆う仮面の奥で、目元だけが異様な光を帯びている。
彼女は虫のざわめきと同調するかのように、囁くように声を落とした。
「つまり……十年はザヴォルドゥの拠点からしか侵攻できないというわけね」
ぞろぞろと這い寄る虫の群れが、ラヴィアの足元に渦を巻く。
その不気味な“衣”をまといながら、唇の端を艶めかしく歪めた。
「ザヴォルドゥが築いたのは死の王国。今頃、死体の軍団を作り上げている頃でしょう。心配はいらない……」
仮面の奥から、甘ったるい声が零れる。
「それに、あの地は私と相性がいい。……早くこの子たちに、また新鮮なお肉を食べさせてあげたいわ」
ぞわぞわ、と群れが蠢き、足元を這い回る音が遅れて響いた。
「特に――あの白狼族の子供。美味だったわねぇ……」
声が湿り気を帯び、熱を孕む。
「喰いそこねたあの一匹の顔を思い出すだけで……ふふっ、涎が出ちゃう」
仮面の奥、細められた瞳が血と肉を欲する異様な輝きを放つ。
その嗜虐的な囁きに、場の空気がさらに濁り、幾人かの七魔星すらわずかに表情を曇らせた。
……ルナファとジュディーカだけは、互いに目を合わせることもなく、同時に心中でつぶやいた。
(……きもっ)
「十年後……か。やはり次の大侵攻はその刻を目処に動くべきか」
ヴァトラスが低く呟くように言うと、アグナが静かに応じた。
「十年――それは魔界の魔力が律動を取り戻す最低限の猶予。だが油断するな」
その声音は、燃え尽きぬ火口のように沈み、重く、芯を持って響く。
「次の侵攻は“準備期間”ではなく、“破滅の時”だ」
場の誰もが息を呑む中、アグナは淡々と告げた。
「各々、己の役目を忘れるな。我が軍は兵力の拡充と練度の底上げを進める」
アグナはゆっくりとうなずき、アスレオへと視線を向ける。
「アスレオ。魔力環境が回復し次第、再侵攻に向けた術式の再構築を最優先で進めろ。
――たとえ一日でも早く、次を起こせるようにな」
アスレオは魔導書を静かに閉じ、無言のまま小さく頷いた。
アグナは最後に、卓上を硬く叩く。
「そしてザヴォルドゥ……奴の“死の王国”を通じ、女神の民に与える損害は絶やすな。踏みにじり、奪い、焼き尽くせ」
沈黙が再び玉座の間を覆い、会議は終息を迎えた。
「すべては――“魔神”の御誕生のために」
アグナは立ち上がり、低く告げる。
「――各自、領土へ戻り、準備を始めよ」
その言葉に応じるように、七魔星と魔大帝の身体がそれぞれ異なる魔力の光をまとう。
次の瞬間、光は柱となり、天や地へと伸びていく。
それぞれの領土へと帰還し、再び侵攻の日に備えるために。
轟音と共に魔力の柱が消え去ったとき――広間には静寂だけが残っていた。
……ただ一人、“深紅の吸血姫”ルナファ・グラムッドを除いて。
重苦しい沈黙に包まれた広間で、彼女は大きくため息をついた。
「……はぁ~。演技するって、ほんっとしんどい」
さきほどまでの冷ややかな仮面を脱ぎ捨て、気だるげな声音がこぼれる。
その瞬間だけは、会議の場にいた誰も想像できない“素”の姿だった。
ルナファはゆるりと視線を巡らせる。
豪奢な円卓を囲んでいたはずの七魔星も魔大帝も、今は姿を消している。
紅い瞳が妖しく揺らぎ、彼女は気だるげに椅子へ身を預けた。
「……でも、収穫はあった」
その手には、いつの間にか小ぶりな水晶が握られていた。
そこに映し出されているのは――ダウロと交戦していた少年。
全力で剣を振るい、必死に抗うその姿。
水晶越しでもわかる、濃厚な魔力。
頸動脈を流れる芳醇な血潮。
そして、まだ幼さを残しながらも美しい顔立ち。
ルナファの紅い瞳が妖しく細められ、唇が艶やかに歪む。
「この子、かわいい。絶対に私のものにする。……お姉さんと、沢山いいことしましょうね?」
囁きと同時に、水晶の表面を舌で妖艶に舐め上げる。
映し出された少年の顔――ノアの姿が濡れ、艶やかに歪んだ。
「……ふふっ」
その愉悦の余韻を残したまま、ルナファは声を落とす。
「――エリザ」
名を呼ぶだけで、影の中からメイド服に身を包んだ吸血鬼が音もなく現れ、深々と膝を折った。
「……私の言いたいこと、わかるわね?」
「はい。ザヴォルドゥの領地より使い魔を飛ばし、少年を捜索させます」
「ふふっ、いい子ね」
紅の瞳を細め、ルナファは艶やかに笑った。
そして、その笑みの裏で冷ややかな思考が巡る。
(あの中で“まともな意識”を保てていたのは……せいぜいアグナとジュディーカだけ)
ルナファは椅子の背に身を預けながら、薄く唇を歪める。
自分たちの主君であった“魔王”の存在を、誰も気にかけていない。
まるで最初からいなかったかのように。
(政に興味のなかった私の性格がここで祟った。暫く領土に引きこもっていたから気づけなかった)
紅い瞳が冷ややかに細められる。
(おそらく三百年前に突如現れた“アレ”が原因か……。
下手に動いて全員を敵に回すのは面倒。しばらくは傍観してるのがよさそうね)
ルナファは音もなく立ち上がり、重厚な窓辺へと歩み寄る。
黒曜石の窓枠の外には、王宮の裏手にそびえ立つ巨木が見えていた。
《魔界樹》――魔大陸全土に根を張り巡らせる巨大な魔力の根源。
天へ届かんばかりの幹は、夜闇に溶け込みながらも確かに脈動している。
その奥深く、誰も触れることのない“核”で、黒く脈動する“悪意の種子”が鼓動を刻んでいた。
それはまだ芽吹かぬ災厄。――この物語すべての悪の根源、“魔神”の胎動であった
最後まで見ていただきありがとうございます!
おかげ様で、このエピソードをもって第2章は終了となります!
次エピソードから第3章にはいるのですが……様子見でみてくれている読者さんいましたら
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٩(ˊᗜˋ*)و エタラナイよ!
これからも引き続きよろしくお願いおねがいします!