第36話 カドゥラン領強襲① 漆黒の軍勢
星も霞む夜空の下、街はずれの小川近く。
私は草原に一人、寝転んでいた。
頬に触れる草はひんやりと冷たく、風が吹くたび、さわさわと揺れる。
頭上では月明かりが、静かにこの場所を照らしていた。
(……そういえば)
私はそっと、自分の体を見下ろす。
儀式用の白い聖衣は、土に触れてすっかりしわくちゃになっていた。
着替えようなんて気にもなれず、ここまで来てしまったのだ。
(この服も返さなきゃ……お腹、すいたな)
儀式のために昼ごはんを抜いた。晩ごはんなんて、不貞寝して気づけばノアと喧嘩して飛び出して、誰とも一緒に食べていない。
胸の奥にぽっかりと空いた穴を埋めるように、かすかにお腹が鳴った。
気づけば、蛍が何匹も舞っていた。
宙をたゆたうように光るその姿は、この地方で〈霊幻蛍〉と呼ばれる、不思議な生き物だ。
薄明の季節にだけ現れる、淡く儚い光の群れ。
――聖環の儀が終わったら、家族で一緒に見ようねって、言ってたのに。
(……結局、一人で来ちゃったな)
指先に蛍がひとつ止まり、またふわりと羽音を立てて輝きながら飛び去っていった。
私はぽつりとつぶやく。
「……君たちみたいな虫にだって……」
そっと視線を落とし、小石を見つめる。
「石ころにだって、属性があるのに」
村で友人達が儀式のあと、みんなが嬉しそうに自分の属性を語り合っていたのを思い出す。
「リアみて、魔法で作ったシャボン玉出せるの!」
「俺、火だった!かっこいいだろ!」
そんな声が、耳の奥で何度も響いた。
「みんなは水を出したり、火を操ったりもできるのに……」
小さくつぶやいた声は、夜風にさらわれていく。
ふと手を伸ばし、いたずらに草を一束ちぎる。
掌を開くと風に乗って飛んでいったそれは、指先に何も残さなかった。
「私には……草一本も生やせないなんて」
ぽろりとこぼれたその言葉に、目尻がわずかに濡れた。
でも、それ以上に――ノアの言葉が胸に刺さっていた。
「やっと僕にも、“すごいでしょ”って言えるものができたのに……
姉さんに、初めて自慢できると思ったのに……
人の気持ちを分かってないのは、姉さんのほうじゃないか!」
ノアの瞳にも、涙がにじんでいた。
あんなふうに、感情をぶつけてくるなんて……思わなかった。
「ノアが……ずっと、あんな気持ちでいたなんて……」
震える手で目元をこすり、私はそっと立ち上がる。
「私、自分のことばっかりで……ひどいこと、言っちゃったな」
ポン、と頬を軽く叩く。
深く息を吸い込むと、冷たい空気が肺を満たした。
気づけば、胸の奥に小さな火がともっていた。
まだ弱くても、確かにそこにある灯り。
逃げていても、何も変わらない。
無属性でも、私は私。
「一応覚悟はしてたしね。それに……」
泣いてばかりじゃ……ノアに、顔向けできない。
悔しさも、嫉妬も、ぜんぶ飲み込んで。
寝転がったまま膝を抱え、勢いよく足を振り上げる。
グイッと立ち上がった私は、ぐっと拳を握りしめた。
「よしっ! ノアに謝ろう。……ここは、お姉ちゃんからいかなくちゃね!実年齢はかなり年上だし……」
そう言って、私は街の方角に向き直った――そのときだった。胸の奥に、ぞくりとする違和感が走る。
街の城壁の、さらにその先。地平線の向こうに、黒い雲が広がっていた。重く垂れこめたそれは、月明かりを呑み込みながら、時折雷を閃かせていた。
雲の奥では、渦のような蠢きが見え隠れしている。
その瞬間、私の周囲に漂っていた〈霊幻蛍〉の光が、一斉にふっと消えた。蛍たちは、まるで合図でも受けたかのように姿を潜め、辺りから光が失われていく。
月明かりすら届かない、まさに“本当の闇”がそこにあった。
ひんやりとした気配が肌をなぞり、風も音も消えた空間に、世界そのものが息を潜めているような感覚が広がる。何かを、迎え入れるために。
私は目を凝らした。闇の向こうで、何かが動いている、そんな気がした。揺れている? 這っている?
風のせいか、気のせいか、それすらも曖昧で、ただひとつ、胸の奥に広がる不安だけが確かだった。
「……なんだろう、あれ。すごく……嫌な感じがする」
夜空に染み込むように闇が広がり、ゆっくりと、大地を包み込んでいく。
それはまるで、“その瞬間”を待っていたかのようだった。
やがて、渦巻くような暗雲がうねりを上げ、そこから次々と“何か”が現れはじめた。
その姿は一様ではなかった。
骸のように細く伸びた人影。
四つ足で地を這う異形。
翼を広げ、空を滑るもの。
人に酷似した者もいれば、どこかの生物の断片を無理やり繋ぎ合わせたような者もいる。
まるで、悪夢が具現化したかのような生物たち。
だが、その全てに共通していたのは、
まとわりつくように濁り、重く、禍々しいまでの“邪悪な魔力”だった。
ひと目見ただけでわかる。これは、ただの魔獣じゃない。
理性も、目的も持っている。
「……あれは……何……?」
恐怖では説明のつかない、本能の奥に突き刺さる感覚。
夜が生んだ悪意そのものが、いま、姿をもって領主町カドゥランへ向かっていく。
そしてそれに呼応するかのように、
闇がひとつ、またひとつと大地覆っていくたびに、
静かだった土地が、少しずつ“戦の舞台”へと姿を変えていくのがわかった。
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