第12話 紅魔熊、現る(後編)
「“今の私”って……君の目に、どう映ってる?」
――その瞬間。
獣の本能が、警鐘を鳴らした。
眼前の少女は、もはや“小さな人間”ではなかった。
その瞳の奥に潜むのは、狩られる側ではない、“狩る者”の光。
その気配は、かつて対峙したどの猛獣よりも異質で――
圧倒的強者の風格。
カナリアの姿が、視界の中で歪む。
否、“膨れ上がる”。
獣の目には、眼前の少女が“巨大な怪物”に映っていた。
深い蒼の髪、空のように澄んだ眼差し――
だがその内に、圧倒的な力の核が渦を巻いている。
熊の肩が、無意識に震えた。
カナリアの挑発に、クリムゾンベアが本能で応じた。
怒号のような咆哮と共に、全身の毛が逆立つ。
その巨体を赤い光が包み――次の瞬間、魔力が弾けた。
「これって魔力……⁉」
熊の体から、荒れ狂う赤の奔流が迸る。
地が裂け、巨木がきしむ。
魔法をまとった突進――ただの力任せではない、“魔力を纏った肉弾”だ。
「ちょっとまずいかも……」
カナリアの顔に、一瞬の焦りが走る。
(さーて。……私、魔法の“受け方”知らない――!)
勢いを増し間合いを詰める紅魔熊。魔力の奔流が周囲の空気を焼き、空間すら歪ませる。
だがその時――
「グルルゥゥゥ……!」
横合いから飛び出した影が、ベアの首元へ一直線に食らいついた!
「ガアアアアアッ!!?」
獣の叫びとともに、その動きが鈍る。
振り返るカナリアの視界に、灰色の獣影――地狼グラウンドウルフの姿が飛び込んだ。
(っ……この巨狼、まさか……!)
その背に乗っていたのは――
「ねえさーーん!!」
風を切るように叫びながら、ノアが飛び出してきた。
ノアに続きやや小ぶりなウルフたちが紅魔熊に飛び掛かる。
「えっ……な、にやってんの!? あんた!」
驚愕するカナリアに、ノアが満面の笑みで応える。
「間に合ってよかったー!!」
「神父様ー!!」「カナリアー!!」「怖かったよー!!」
草をかき分ける音と共に、森の奥から男子たちの姿が現れた。
顔を涙と泥でぐしゃぐしゃにしながら、次々と走り寄ってくる。
「……まったく、君たちは……!」
ホフマン神父が苦笑しつつもすぐに前に出て、ローブを翻しながら結界陣を描く。
「全員、私の後ろへ。ここは私が守る。動かないように!」
キィン――と清らかな音と共に、淡い金色の結界が展開された。
その前方では、**地狼と紅魔熊**が激しくぶつかり合っていた。爪と牙が交錯し、赤と灰の獣たちが土煙を巻き上げてもみくちゃになっている。
「ノア、あいつ……魔力を纏ってる。止められる?」
カナリアが焦りを隠さず問いかけると、ノアは小さく頷いた。
「うん! 僕、ひとつだけ自信ある魔法があるんだよね!」
――ノアの眼に、強い光が宿る。
紅魔熊が ゴウッ! と音を立てて全身から魔力を放出した。
まるで焔のように、その毛並みが紅蓮に輝き始める。
「みんな、どいて!!」
ノアの叫びに反応し、地狼たちが一斉に距離を取る。
両手を掲げ、そこに凍てつく蒼白の光を集束させた。
「いっけぇぇぇぇ!」
放たれたその魔法は、まるで冬の女王の吐息のようにあたりを凍てつかせ――
一瞬で、クリムゾンベアの全身を氷の棺に封じ込めた。
「グゥオォ……ッッ!!」
凍り付いた紅魔熊が、氷を溶かすために魔力を使いじわじわと氷を融かしていく――だが、それは自壊と引き換えの魔力消費。
「ありがと、ノア」
カナリアが横をすり抜け、剣を再び突きの構えをとった。
――地を蹴る。 紅魔熊は完全に氷を溶かしきれず、下半身が固定された状態だ。
「次は外さない!」
突き刺すような声と共に、カナリアは氷を割りながら一直線に跳躍。
クリムゾンベアは、学習本能で頭部への危険を悟る。
「ガアアアアア!!」
咄嗟に両手で頭部を覆い、完全防御の姿勢に入る。
「……残念、狙いはこっち!」
――ズブリ。
鋭い音とともに、カナリアの剣が胸の奥深くへと突き立てられた。
貫かれた心臓は、ずるりと体外へ転がり出る。
その瞬間、心の臓は赤黒く脈動しながら“紅い巨大な石”へと変化した。
「グ……ガァ……ァァ」
カナリアは刃を引き抜き、さっと後ろに跳んで距離を取る。
そして――
「これで終わりだよ」
クリムゾンベアは、呻くように一歩、また一歩と後退し崩れるように倒れた。
地面に激突したその巨体は、動かない。
ホフマン神父はすかさず警備団の手当をし、子供達は安堵のあまり座り込んでいた。
ふう さすがに私もちょっと疲れた。ノアが来てくれなかった少し危なかったかもしれない。感謝を伝えるためにノアに視線を向ける。
「アハハハハ! やめてってば! くすぐったいよ! ウヒヒヒ!」
――そこに広がっていたのは、誰もが予想しなかった光景だった。
ノアが、地狼たちに囲まれていたのだ。
毛並みの大きな狼たちが、彼にじゃれつき、舐め回し、まるで仔狼のように甘えている。
「……まったく、私たちがどれだけ心配してたと思ってるのよ」
頭を抱えてため息をつくカナリアの目の前で、ノアは嬉しそうに笑いながら叫んだ。
「ねえさん! この狼たち、心配いらないって! 紅魔熊がテリトリーに入らないように警戒してただけで、襲うつもりはなかったんだって!」
「お座り!」
「お手!」
「整列ーっ!」
ノアの掛け声に、地狼たちは訓練された軍犬のように動いた。
巨体をたたんでぴしっと座り、器用に隊列を組んで静かに並ぶ。
その姿はもはや魔物というより、忠実な従者そのものだった。
それを見て、ホフマン神父は目を細め、カナリアはぽかんと口を開けたまま呆然と見つめていた。
「……あんたって、本当全方向にモテすぎだよ……」
カナリアはぽつりと呟く。
ノアは最後に、狼たちへと穏やかに語りかけた。
「さて、森にお帰り」
リーダー格の地狼が、ワォーンと遠吠えを上げる。
一瞬だけ、ノアを振り返るように見つめてから、群れは静かに森の奥へと姿を消していった。
その背中を見送りながら、ホフマン神父は静かに息を吐いた。
(……あれほどの魔物たちが、子どもの一声にこれほどまで従うとは)
(これが“寵愛の祝詞”か……)
女神の大地に生きるすべての命から、無条件に愛される祝福。
それが、本当にこの世に存在するというのなら――
今、目の前にいるこの少年こそが、その証明なのだ。
ノア・グレンハースト。
彼は、確かに“勇者の資質”を、その身に宿していた。
(……そして)
ホフマン神父はそっと視線を横に向ける。
傷ついた兵士を心配しながらも、笑顔で剣を返す少女――カナリア。
真紅の熊を打ち倒しながらも、まるで風を切るような軽やかさで、その表情には一切の驕りがなかった。
(君もだよ、カナリア……その強さは、すでに大人たちの想像を、遥かに超えているのかもしれないね)
そう思った神父の唇に、自然と小さな微笑が浮かんでいた。
しかしその力が必要な時が来なければいい。神父は少し複雑な心境になった。
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