第三章『城内 ~城中引き廻しの上張り付き質問~』
死体となって発見されたのはエデラ・バリモアといって、発見者の執事のギャレット氏によれば、この屋敷で辺境伯に仕えていた女性使用人の一人であった。年は中年、顔つきも背格好もやせぎすの女で、骨ばった広い頬からはすでに生気と血色が失われている。私達はその顔に見覚えがあった。ミーナを牢屋へ入れた後、見張りの途中でギャレット氏と椅子を持って来てくれた女性使用人が確か、彼女だったはずだ。
こういう事態になったら、現場の状況を調べるのは目端の利いて器用なキーヴィエの仕事だ。
「側頭部を殴られて亡くなっています。他に原因になりそうな怪我もありませんし、間違いないんじゃないでしょうか。腕に軽い怪我があるのは、とっさに身を守ろうとした痕なんだと思います。何発やられてるように見えます?」
死体の様子を見ながら、今日は途中で、神官として治癒や医学の知識のあるベレンガリアの見解も求めた。ベレンガリアは傷口を覗き込みながら、腕組みをして答えた。「一発だと思うが、二発同じところに殴って当てた可能性も捨てられないな」
「じゃ、腕の傷と合わせて二、三回素早く殴った感じでしょうね~。凶器は何かとっても固くて細長い物だと思います。棒状の」それから立ち上がって周囲を見回しつつ、「血の広がり方から見て、ここでお亡くなりになったんでしょうね」
「死体は動かされていない、と」彼女の報告を別の表現に言い換えて確認した。
「断言しますっ。服にしわがほとんどないので、揉み合ったりはしてません。知り合いに不意を打たれたか、視界の外から気づかないうちにやられたかな~ってところです。血が乾ききっていませんから、殺されてまだそんなに経ってないと思います――あ! もちろん自殺じゃありません、アヴィさん」
「分かってますよ」
私達は死体の状態を確認していたが、ベレンガリアがふと呟いた。
「被害者はなぜ階段の上でも前でもなく、横で倒れているんだ? というかこの狭い空間は何のためのものだ」
たしかに、階段の横には体二つ分の幅の隙間が通路のように空いており、被害者はその奥で倒れていた。偶然その通路の入り口付近に立っていた私が首を突っ込んで奥を見てみると、階段の下に石材の床と壁の剥き出しになった空間がぽっかりと口を開いていて、その中にはバケツや樽や袋が雑多に押し込まれているのが見えた。ただの物置ではないのは、薄っすらと臭気や埃っぽい空気が漂っている事だった。また、一緒に掃除用具も二、三収納されている。
「なるほど、奥にゴミ置き場があるんですよ。くず入れをまとめて置いてあって、生ゴミ以外の捨てる物はしばらくここに溜めておくのでしょう。きっと階段下のごみ置き場から出てきたところでやられたのでしょうね」
私は自分で頷きながら、人差し指を立てて自分の予想を述べた。
そこへ、こちらに階段を駆け下りてくる二人分の足音が聞こえた。押っ取り刀ならぬ押っ取り杖のフォン・クラム辺境伯が、足を不自由そうに引きずりながら小走りで駆け寄って来ていた。もう一人はいつの間にか彼を呼びに行っていた執事のギャレット氏だった。二人は駆けつけるや、まず辺境伯が口火を切った。
「エデラが殺されただと?」
「はい、閣下。ご覧の有様で」
「一体何が起こっとるんだ!」彼は両手を広げた。「騎士団を北へ行かせ、娘を謁見のために王都へ送り出した途端、これだ! 山賊は出る。魔族は下りてくる。使用人は殺される! 次は何だ? 大怪盗と大イノシシのどっちだ? まるで狙いすましたかのようにわしを苛むじゃないか、ええ? わしに平穏な老後を過ごさせてはくれんのか?」
閣下はいら立ちと憤懣を一息に吐き出した後、怒りの灯った眼光で我々の方を向いた。
「――貴様の仕業か、魔族め!」
閣下は腰から格調高い短剣を瞬時に抜いて構え、義憤に燃えている。その目線は私達ではなく、まるでその後ろに誰かが立っているかのように投げかけられている。
振り向くと、後ろにミーナが立っていた。
「あなた……また牢屋から抜け出たんですか!」
彼女は飄々と答えた。
「非常事態の様子ですので。殺しとは?」
しかしその声も表情も真剣そのものだった。先ほどまでの慇懃で鷹揚な笑顔は消え、障害に立ち向かう兵士の顔に変わっている。人族領での事件を、自分達の領域で起きた事と同じように受け止めているようだ。
しかし、魔族のそばで殺しが起きて、魔族を憎まない方がおかしいのである。閣下はミーナの顔をねめつけて指をさし、
「山の異変も屋敷の事件も、どっちも貴様が関わっている。貴様にしかこの殺しは出来ん!」
と怒鳴った。
本来なら、国家の臣民としてはここで閣下と共に仇敵たる魔族を糾弾すべきなのだろう。しかし私達が今までこの目にしてきた事実がそれをさせなかった。
「い、いえ、恐れながら閣下、我々も信じられないのですが、それはあり得ないのです」
三人を代表して、私が水を差した。閣下は信じられないという目で眉をゆがめてこちらを見返している。当然だろう。私は閣下に尋問中の事を伝えた。
「実はその、コイツはずっと我々の前におりました。この魔族、名前をミーナ・セルニャンキサといって、ゴラクリという名のある魔族国家のスパイだそうで、いっそ怪しいくらいペラペラと白状したのですが……尋問の間、我々の前から姿を消した事は一度たりともありませんでした。誓って、フォン・クラム閣下」
「しかし今『牢屋を抜け出した』と言ったろう、アルヴィンソン嬢? こやつがギャリーの目の前で地下牢の鍵を開けて見せた事は、わしは報告を受けておるぞ。貴様! わしの使用人を殺してその肉を食おうなど――」
そこへ割って入って助け舟を出してくれたのは執事のギャレット氏だった。
「お待ち下さいませ、お言葉でございますが、アルヴィンソン嬢のおっしゃっている事は事実かと思います」
「お前もか、ギャリー?」
「先ほどはお伝えしそびれてしまいましたが、あの報告には続きがございまして――この詰襟の奴、私めがお昼食をお運びした際どうやってかは分かりませんが牢屋の鍵を開けてみせたというのは、料理人のフーゴーからお昼食のお盆を取るためなのです。そしてお盆を取った後、お昼食を食べるために自ら牢屋の中に戻っていきまして……いつでも牢屋を抜け出られるのに、抜け出る意思を見せなかったのです。それに、地下牢へ繋がる鉄扉は他の扉と違って開閉に大きな音が鳴るのはご存じかと思います。私めはあのあたりもバタバタ行き来しておりましたが、少なくとも私めが鉄扉のそばにいる時にそのような音を聞いた覚えはございません」
腹心の執事の報告を受けた閣下は、眉間にも口元にも深くしわを寄せて聞いている。
私達が三度ミーナの体を縛ってバインドの術を掛けている間に――魔力を食う術をこう何度も使っていては、夜には魔力切れで倒れていそうだ!――辺境伯は頭を冷やしながら時間を掛けて事実を受け入れていた。
「……もしもそれが事実だとするならば、コイツのせいではない、という事になる、な……」
「ええ、人族と魔族が対立するご当地で口裏を合わせられるとも思わないでいただきたいものですねえ」
ミーナが不用意に口を挟んだので、キーヴィエが慌てて猿ぐつわも噛ませた。閣下がミーナを、先ほどよりは落ち着いた目で睨んだ。
「信用してはおらんぞ、魔族」それからギャレット氏に向かって、「ギャリー、衛視が来たらエデラの事も話しておいてくれ。それまでの間、エデラの体は……ゴミ置き場から動かすだけの手が今は足りんか。せめて上からシーツでもかけておいてやれ。それと、彼女達冒険者達に何か言われたら協力するように。そして、冒険者諸君」
「何なりと、閣下」
「もはや山狩りどころでは無い。賊は屋敷の中で悪さをしたのだ」
「エデラ殺しは山賊の仕業かもしれない、と?」
「そうかもしれんし、そうでないかもしれん。わしが別邸として暮らしているこの城で、殺しが起こった事が重大なのだ。冒険者諸君、わしは君達を信用しよう。こやつを連れていく馬車が来るまでの間、屋敷の中にエデラ殺しの賊がまだ潜んでいないか調べ、その後はわしの警護をしてほしい――あー、そこの魔族も監視しながらだ」
辺境伯閣下は短剣の切っ先でミーナの顔を指した後、その短剣を慣れた手つきで鞘に納めた。
「承知しました、閣下に全身全霊をもって尽くします。依頼内容の変更という事であれば――」
「心得ている。追加という形になるかもしれんから、ギャリーと相談して決めよう。では頼む」
閣下は書類上の依頼人となっている執事のギャレット氏と共に執務室へ戻っていった。
私達は簡単に屋敷を見て回ったが、結局その範囲では何も見つける事は出来なかった。
私達はいくらかこの屋敷の事を知っている。ここボスクーミェに到着した時、初めに私達は辺境伯閣下の屋敷に招かれ、そこで山賊退治の依頼について詳しい話を聞いたり、出発前に調査の準備をさせてもらったりしていた。その時に屋敷の大まかな間取りを教えてもらっていたのだ。客人として歩き回れるところしか見られなかったが、少なくともその範囲では屋敷内を十分探索してあったのだし――我が〈赤き戦斧亭〉は依頼の裏をしっかり取るが、それでも冒険者をたばかり裏切る依頼主はいないとも限らない。念のため、という奴だった――その時の様子は私達三人ともしっかり覚えている。
結果、不審に感じるところは何もなかった。私達が山賊退治へボスク山へ向かう前と比べて、変わったような様子も無かった。もちろん、屋敷に隠されたミステリアスな秘密の出入り口や怪しい謎の部屋も、だ。
屋敷内を巡回し、何も見つからない事が明らかになったという結論に達しつつあった私達三人は、廊下を歩く足が揺らぎ始めた頃――
いや、私達は今、四人で歩いているのである。ミーナは律儀にも甘んじて私達に拘束され続けていた。ぐるぐる巻きに縛られて足の生えた紡錘のような恰好の彼女を、もっとも膂力のあるベレンガリアがずっと麻縄を握って、ペットの散歩のように引き回していた。そのミーナは、屋敷の様子を私達以上に目を凝らして見ながら、私達の会話にも抜け目なく耳を澄ませて聞いている様子なので、私は尋ねてみた。
「セルニャンキサと言いましたか。あなたは人族の屋敷に興味があるのですか?」
しかしミーナは黙って首を横に振った。目元は地下牢で見た時の温和で慇懃な目つきに戻っている。口元は――そういえば彼女には猿ぐつわを噛ませていたはずだが、どんな手品を使ったのか、いつの間にか緩んで外れ、首に掛かっている。私達が再びぎょっとするのも知ってか知らずか、彼女は澄ました調子で答えた。
「ミーナと呼んでください。私が興味を抱いているのは事件の方ですよ。殺しとは穏やかではありませんねえ。一体犯人は誰なんでしょうかねえ。これは上手く調査しなくてはいけません」
私は彼女に対して初めて批判的な口調で問いかけた。「調査? 人族領の殺害事件に興味を抱いているのですか? 魔族であるあなたが調査をしたいと?」
「近衛軍の使命は御所・禁闕の番のみにあらず。その城下の地域の治安維持、国家にとっての要注意案件の目付や征伐なども使命としています。つまり事件捜査も任務の一つなのです、なかんずく国家的重大事件は」
国家的重大事件――確かに今回の事はそう見なせるかもしれない。エシッド王国の国防の水際を担う役目にある辺境伯の城の中で、何者かが殺しを企てたのだから。
「貴国の警察組織がどんな風になっているかは分かりませんが、私がその警察機能のお役に立てるかもしれませんのでねえ。ぜひ手を貸したいのですよ」
「どうしてあなたが私達人族に手を貸したがるのです?」
「それはもちろん辺境伯閣下も殺しに関わっているかもしれないからですよ。気づいてないのですか? 確かに彼はこの領の治安を担っていますが――」
「屋敷を見て回って異変が無かった以上、屋敷の中にいた者は全員容疑者だ――そう言いたいのですか? たとえ辺境伯閣下でさえ?」
そうではないか。身分や依頼主という立場のおかげで考えつきにくかったが、もしもそれらが無かったとしたら、彼らは真っ先に衛視から疑いの目を向けられていただろう。
その事実に気が付かされて私が聞き返すと、ミーナは眉尻を八の字に傾けて、鼻でため息をつくように鼻息を漏らした。まるで《気づくのが遅すぎる。いや、まだ完全には理解し切ってもいない。二周遅れだ》とすら言わんばかりだ。
そのしたり顔に全く腹が立たないわけではない。しかし彼女は捕囚として事態から最も離れていたからこそ、そしてある意味では憎たらしくも台風の目としてど真ん中から偏ることなく事態を眺めていたおかげでもあるのか、人族社会の権威構造や関係性を考慮しない割り切った見方が出来ている。確かに、屋敷の中にいた者達の事も調べるべきだろう。
ただし、私達は今は彼らに雇われている立場にある。事件の容疑者としてでなく、あくまでも下手人を捕まえるための情報収集として彼らから話を聞くべきだ。
私達は甲斐の無い屋敷の様子を検めるのを切り上げ、その振るわなかった結果を報告するべく、まずは死体の第一発見者である執事のギャレット氏を探した。
ギャレット氏はダイニングルームにいた。ダイニングテーブルの前に立ったり、椅子に着いたり立ち上がったり、部屋を出ようとして止めたりしており、落ち着きを失っている様子だった。
「そうですか……では、賊がこの屋敷にもういない事を信じる他ございませんね」
私達の報告を受けて、ギャレット氏は言い聞かせるように言った。
「私めの私情をあえて言わせていただけるのならば、私めにはこのような行為に及ぶ者が信じられません。エデラが死ぬ必要がどこにあったのでしょう?」
「誠に残念な事でした。賊の正体を暴いて捕まえるため、今は少しでも情報が欲しいところです。亡くなったエデラさんを発見した経緯を教えていただけませんか?」
「は、お役に立てるならば私めも協力を惜しみませんでございます。あれは確か――」
ギャレット氏が口を開きかけた時、早々にミーナが話の腰を折った。
「まずあなたはどなたです?」
「は? 私めですか?」
「フォン伯爵の部下なのだとはお見受けしますが、私は名前すら未だにきちんとうかがっていませんのでねえ、ご面倒でしょうが、その、自己紹介からお願いできると……」
ギャレット氏は魔族のミーナに話に割って入られて一瞬不快に感じた様子だったが、すぐに元通りの態度と所作に整え直してみせた。
「では改めまして……私めはギャレット・デブナムと申します」
ギャレット氏は今日日もはや劇でも見ないほどもったいぶって、私達には真っ白な髪しか見えなくなるほど深々と頭を垂れて一礼をした。中肉中背の上、ウンディーネ族という女性的な外見になりやすい種族柄なはずだが、彼の執事としてよく訓練された立ち居振る舞いや整った身だしなみのおかげで、ノーム族の私の基準でも十分なほどの枯れた男っぷりに見え、まるでシルフ族の家令のようなすらりとした瀟洒な印象を与える。
「どうかお見知りおきくださいませ。この屋敷でクラム家の執事として、フォン・クラム辺境伯閣下に――決して『フォン伯爵』ではございません――お仕え申し上げている者でございます。この屋敷にはかれこれ五十年は勤めさせていただいておりまして、旦那様は私めの事を『ギャリー』とお呼び下さいます。普段はこの屋敷の使用人達をまとめ上げる他、お酒類の管理と旦那様へのお給仕、それと一応これでも森林管理責任者でもありますので何かボスク山などに異変があればその対応に責任を持つ事と、あとは旦那様の執務を補佐し予定を管理する秘書の役割も私めの役目でございます」
彼が山賊退治の依頼を届け出るために王都まで出向いた事を、私達三人は無論覚えていた。そしてボスクーミェに私達が到着した時、まず初めに出迎えてくれたのも彼だった。
「皆様の山賊退治のご用意を手伝いまして、ボスク山へ出発なさったのを見送った後、私達はご武運を祈りながらお帰りになるのを待っておりました。その時はこれといって別にこれといって妙な事は起こらなかったような気がいたします……まあ、私が屋敷にいなかった時の事は分かりませんが」
私は少し話を詳しく聞こうと思った。上流階級が相手の時は、三人の中では私が聞き込み係だ。
「屋敷にいなかった? どこかへ出かけたのですか?」
「ええ、といっても大した事ではございません。ここのところ少々ごたついておりまして、野暮用でございます。私は酒類の管理も任されておりますので、本邸へ酒類を取りに戻っていたのでございます」
「本邸?」
何も知らないミーナが聞き返した。
私達は、依頼主からあらかじめ聞いていた話を彼女に教えてやる事にした。「ここはあくまで辺境伯家の別邸です。もともと小規模な城だったようですが。跡継ぎに本邸は譲って、ここに早隠居しているのです」
「なるほど」
ミーナへの耳打ちが終わったのを見計らって、ギャレット氏が続きを答えた。「屋敷に戻ったのは皆様がお帰りになる十分ほど前の事だったかと思います」
「それくらいの雑務のために目下を使わなかったのは、このボスク・キープに最低限の使用人しかいないからですか?」
「左様でございます」ギャレット氏は恭しく首肯した。
「ここにいる使用人は何人いるのですか?」
「それが、今は私と料理人のフーゴー、そしてエデラの三人しかいないのでございます」
フーゴーという名前が、あのマスクの寡黙そうな男なのだろう。
閣下一人が暮らすのに、三人の使用人とは。隠居しようがさすがは辺境伯家である。しかしその一人、メイドのエデラが亡くなってしまったので、現在では二人になってしまった事になる。
「亡くなったエデラさんについて教えていただけませんか?」
「はあ、なるほど。確かに、旦那様ではなくエデラの知り合いがエデラを狙って殺した可能性もありますな。この執事、頭が固うございました」どうも彼は執事という職業から、主人たる辺境伯閣下に対する攻撃だと決めつけてかかっていたようだ。「彼女はエデラ・バリモアと言いまして、種族はご覧になりました通りシルフ、屋敷に勤めるようになって歴の長い、信頼のおける女性でございました。生まれは記憶が正しければアルズフォードの方だったかと思いますです、はい。落ち着いていて、律儀でまめでもございました」
「彼女の生前の行動で何かご存じの事はありませんか? 私達が屋敷から戻ってきた後の事で」
するとギャレット氏は眉を落として首を傾げた。
「さあ……彼女が私めと共にばたばた、あちらこちらを行ったり来たりしていたのは見かけておりましたし、何度か用事を頼んだ事もございますが、申し訳ございません、はっきりと何をしていたとは申し上げる事は出来ません。何せ私は屋敷を少し出ておりましたので……」
そのような事情であれば答えられなくとも仕方無いとは思うのだが、彼自身は汗顔の至りと言わんばかりの表情をしている。
ここで、今まで黙っていたベレンガリアが口を開いた。
「では、あなた自身は何をしていたのですか?」
よせばいいのに、いかにも事情聴取という口調だ。案の定ギャレット氏は少し気圧されてしまった。
「えー……まず、旦那様の元へ行って指示を受けました。色々――なんでしたか。様々な事を。あれを運ばなくてはとか、これを伝えなくてはとか。半分は、そこの魔族が現れた事に関わりのある事です」
「具体的には?」
「そ、それは……ご容赦下さい。いかに冒険者様方といえど国防に関わる事でございます」
「失礼しました、このボスク・キープのどこにいてどんな作業をしていたかだけ伺えれば結構です。言える範囲で構いません」
「ありがとうございます――旦那様の執務室を出た後、二階の自室へ戻って、手紙を二通書いておりました。旦那様から仰せつかった事でございまして、一通はそこの魔族を監獄へやるための護送馬車の手配。もう一つは皆さまのお店へのお手紙です。先ほどお耳に入っていらっしゃったかもしれませんが、依頼の追加・変更についての内容でございます。それを書き終わった後、私は再び旦那様の部屋へ向かいました。他に届けるべき郵便物があれば、一緒に配達に届けに行こうと考えたからでございます」
「辺境伯閣下の部屋を出た後は?」
「再び外へ出ましてございます。速達をよくしてくれる馴染みの飛脚問屋がおりまして、そちらへ手紙を渡しながら、提携先の貸し馬車業者の事をさりげなく聞き出しておりました。しかし予想以上に時間がかかってしまったので、魔族と一緒に主人をずっといさせているのもまずいと思い、すぐに戻った次第でございます」
再びミーナが口を挟んだ。
「それで靴が土で汚れているのですねえ」
彼女の言う通り、ギャレット氏の靴には乾いた土が付着していた。私はさらに事情聴取を続けた。
「死体発見の経緯について教えてください。帰宅した後、あなたは何をしておりましたか?」
ところがこれにギャレット氏は、さらにひと際歯切れが悪くなった。
「……大変申し訳ございません、はっきりと、覚えておりません……」
「覚えてない?」
「何分、魔族が地下牢に繋がれているような状態は初めてで、全員浮足立っておりまして……エデラもそうでしたが、私めもさすがに恐ろしくて恐ろしくてたまらず……」
「それで覚えていない、という事ですか。いや、心中はお察しします。私達のように魔族を相手取るのに慣れている方ばかりじゃありませんからね」
「は、はい、恐れながら……お心遣い大変感謝いたします、はい……」
「本当に何一つ覚えていませんか? 一つぐらい、これは確実にしたぞという行動がありませんか?」
「あ! そうでございます。皆様に椅子とお昼食を届けました。椅子の方は手紙を書いている途中の事でございますが、昼食の方は手紙を届けて帰ってきてからすぐの事でございました」
ギャレット氏は手を叩いて慌てて言い足した。説明は要領が悪く、頭の中が整理出来ていない様子だ。明らかに彼は事件に動揺し、混乱していた。王都に依頼に訪れた時の理知的な様子とは大違いで、とても演技だとも思えない。
「その後は、その、恐ろしいながらも、とにかく様々な事をエデラと一緒にこなさなければいけませんでした。そう、エデラ! 私は帰ってすぐに彼女に色々指示を出しました。本邸から誰か衛視をよこす事になっているからそれを出迎える用意をしておけ、馬車を停められるように厩を使えるようにしておけとか、普段の掃除は手短にしろとか」
曰く、生前のエデラは主に肉体労働に従事しており、毎日屋敷のあらゆる場所を行ったり来たりしていたそうだ。
「エデラがどのように動いて何をしていたかは、私は存じ上げません。私は帰宅後は金庫室で帳簿と金庫の中身を見比べる仕事に追われておりました。
そしてしばらくした後、私はさすがに一息入れたいと思い、お手洗いへ向かいました。しかし二階から一階へ階段を下りた時、どこからかぼんやりと血の臭いが漂ってきましたので、私はさてはあの魔族めが本性を現したかと思い、周囲を警戒いたしました。そして階段下を覗き込むと、そこにエデラが倒れていたのです」
ギャレット氏は沈痛な顔で締めくくった。
私は帳面に彼の証言を書きまとめた。私達が出発後に彼は本邸とこのボスク・キープの間を往復した。その後私達がミーナを連れて帰って来た。私達が地下牢にいる間、彼は手紙を持って飛脚問屋へ行って帰ってきて、その後はエデラに色々指示を出した後、金庫室で財務的な事務作業に没頭。お手洗いに立った時に二階から死体を発見。
ただし、私は特記事項を書き添えた――彼は詳しい事はよく覚えていないと断っている。実際、私には彼の証言はどことなくふわふわしているように感じた。
被害者エデラ・バリモアについては、何も分からなかったに等しかった。忙しそうにしていた事と、実際に忙しかったらしい事以外、彼女の話は彼の証言から出てこなかったからだ。
「本当は冒険者の方々を今回、山賊退治のためにお呼びしたのですが……このような事になってしまい……」
「いえいえ、そんなにお気になさらないで下さい」
「お気遣い痛み入ります。どうか一刻も早く、エデラを殺した犯人が捕まりますように。本来の山賊退治にも、戻っていただきたいですし……」
ギャレット氏は私達に何度も頭を下げ続けていた。
私が彼の証言を書き留め終えた時、ミーナが不意にギャレット氏に話しかけた。
「失礼、エステパーノ?」
「はい? 『エステパーノ』?」
突然知らない呼ばれ方をして、彼は目を点にしてしまった。私達もまた理解が追いつかなかったが、おそらくこの「エステパーノ」とは彼らの言葉での敬称なのだろう。魔族が敬称? そのような文化が彼らにもあるとは私は思いもよらなかった。ミーナは嫌に真剣な表情で、少しためらいがちに尋ねた。
「エステパーノ・ギャレット・デブナム、あなたはこの事件を、私がリードを手放したグリフィンだと思っていますか?」
「……何ですって? グリフィン?」
彼女がまたもや今度はお国由来らしい聞き慣れない表現を使ってギャレット氏を困惑させたので、今度は私は助け舟を出した。「『私が原因で起きた厄介事だと思っているのか』って言いたいのですか?」
「そうです。さあ正直におっしゃってください、エステパーノ・デブナム。遠慮はいりませんから」
「……まあ、その、根拠はございませんが、少なくとも全く関係が無いとは私めには思えません。何らかの影響は、与えているのではないかと……」
「よろしい! エステパーノ・デブナム、私はあなたに約束します。私がリードを手放したグリフィンなら、私が責任を持ってリードを引っ張らなければいけません。私はこの事件の調査に全面協力いたしましょう。そしてこのミーナ・セルニャンキサ、ゴラクリで培った能力を余すところなく注ぎ、必ずや事件の犯人、この厄介事を起こした原因である人物が何者かを暴き出してご覧に入れますとも」
ミーナはギャレット氏に熱の入った演説をぶって大見得を切ってみせた。ギャレット氏はそれを、眉間と両の下まぶたを強張らせて呆然と見ていた。
私達が再び辺境伯閣下の執務室に入ると、閣下は部屋の中央で相変わらず渋い顔をして座っていた。暖炉には季節外れながらも火が入れられている。部屋の中央の執務机は大きく豪奢で、そのなりは審判所の判事席のようでありながら、横幅だけ見ればまるで書記官席のように広く、男爵家のような下級貴族とは違うのだなあと私は思った。執務机の卓上でもロウソクが揺らめいており、その光は着卓している閣下の脂汗に反射し、この城が今おかれた状況を暗に強調しているように見えた。
閣下は私達の報告を聞いている間も、うんうんとうなずきながらもずっと書類に筆を走らせ続けていた。私達が報告し終えた後、それらを書き終えてからようやく口を開いた。
「つまり、屋敷の中にはこれといって痕跡が見つからなかった。賊の正体は不明、という事か」
「申し訳ございません」
「構わん、それもまた価値のある情報だ」
なんと閣下は寛大かつ聡明なのだろう。私は感謝の気持ちを抱かずにはいられなかった。
「今、本邸から衛視を呼んでおる。それに、そこの魔族をしょっ引くための護送馬車も手配中だ。それらが到着するまでの間、諸君はひきつづき、このボスク・キープの中に控えていて、エデラ殺しの賊に目を光らせていてくれたまえ。山賊うんぬんについては、先ほども言ったが後回しだ」
「承知しました」
私が閣下に返事をすると、ベレンガリアが閣下の前へ進み出て、丁寧ながらも力強く進言した。
「その間、エデラ・バリモア殺害犯の捜査をしたく存じます。閣下、どうかご協力を」
「うむ、道理ですな、神官殿。わしの知りうる事、話しうる範囲で良ければ、諸君に助力しよう」
こういう時、誰に対しても臆さずに話の出来る神官が身内に一人いると、どれだけ心強いのかと私は思った。私なら、爵位が上の立場の相手に、そんな風にはふるまえない。
「ありがとうございます、閣下」
私達は閣下に一礼した。
「では、さっそくお話を伺うとしましょうか。アヴィさん、聴取の方お願いいたします」
私達の後ろであっけらかんとそう言ったのはミーナだった。振り向くとミーナはあたかも最初から私達の仲間だったかのように立って私の顔を見ている。
「……どうしてコイツも調べたがっているのだ?」
「なんだか、人族領の事件に興味津々のようでして……」
私達は魔族ミーナ・セルニャンキサについて、閣下に簡単に説明した。そういえば、私達が地下牢を出た直後にエデラ・バリモアの死体が見つかったので、閣下に彼女への尋問の成果を報告出来ていなかったのだ。
閣下はさらに難しい顔をしてしまった。魔族の間者が身分を明かして人族の事件の調査に加わりたがるなど前代未聞だろう。しかし逆に言えば、捜査に引き連れてさえいれば、大人しくしていてくれる可能性があるという事でもある。ミーナの動向もうかがい知りやすい。どこまで行っても胡乱なのは否定出来ないが。
「……まあ、目の届かない場所で何かされるよりは、まだ良いのか……? 諸君、護送馬車が来るまではくれぐれもそいつを逃がさんようにな」
「心得ております、閣下。それでは閣下、お尋ねいたしますが、何か不審なものを見たり聞いたりした覚えはございますか?」
「いや、無い。せいぜいそこの魔族くらいだ」
閣下がミーナの顔をじろりと見た。当のミーナはどこ吹く風という様子だ。
私は本題へ入った。「さようでございますか。閣下、私達は状況を詳しく整理するため、執事のギャレット・デブナム氏には事件発覚までの行動の全てを一から伺いました。恐れながら閣下にも、これまでの間にいつ何をなさっていたか、つぶさにお尋ねしたく存じます」
「気遣いは不要だとも」閣下は椅子を引いて座り直し、咳ばらいを一つした。「わしは諸君がボスク山から帰って来た時も、知っての通りこの執務室におった。娘に辺境伯の爵位を譲るまでは、わしにも辺境伯としての書類仕事があるもんでな。しかし諸君が魔族を連れて執務室に入ってきた時はたまげたものだよ。地下牢へそこの魔族――ミーナといったか? そ奴を放り込むよう言った後も、わしはずっとこの執務室にいたとも。いた――と思う。正直に言って記憶は確かではないが……しかし、わしにはあの後すべき事が三つも四つもあった。一つに、騎士団を抱えている本邸の娘に連絡を取ってそこの魔族の事を一刻も早く伝え、山から魔族軍が下りてきたりした場合に備えておくように伝えねばならん。それに王都へ連絡を取って捕虜の捕縛を報告し、引き取って監獄へ連れていってもらいたかった。連れていくための囚人護送馬車を送ってほしいし、でなければ自前の普通の馬車で途中まで送ってもいい。緊急時だ、領民に対しても何らかの措置を行う事になるかもしれないが、その辺りの政治は代替わりする娘に任せる事になるだろうか。とにかくわしも何らかの考えをまとめておかねばならんかった。それと、冒険者の宿にも依頼内容の現地での追加をしたためにその追加報酬を出したい旨を手紙であらかじめ伝えたかった。その事を全部ギャリーと――執事のギャレットの事だ。彼と話した」
「執事のギャレット氏を呼びに行ったのですか?」
「いや、呼び鈴を鳴らそうと思ったその時に、ちょうど都合良くギャリーが来た。鍵を返しに来たのだよ。その時に先の四件についてざっと聞かせてやり、任せられる事を任せた。王都へ護送させるための連絡を取る事と、冒険者斡旋業者への連絡の二件だ」
これはギャレット氏が話していた、二通の手紙の事だろう。
「結局護送の方は、本邸にもそれらしい物があるという事になり、それで済ませる事になったのだ――そうだ」閣下ははたと手を叩いた。「諸君、先ほどの追加依頼の中にはだな、その護送馬車の護衛も盛り込んでいるのだ」
「なんですって?」これはベレンガリアである。自分達のあずかり知らぬところで、監獄まで急遽の長旅もさせられる話になっていた事への、抗議の態度が言外に少々表れていた。
「いやいや、領から出る必要は無い」と閣下は慌てて手と首を振った。
曰く、閣下が勅命で北へ送った軍勢が、魔族の捕虜や敵勢力の工作員を首尾よく捕まえて拘束したので、それを監獄へ収容するという連絡を送って来ていた。この軍用馬車の一団にミーナの護送馬車も交ぜてもらえるよう、すでに手はずを整えてあるという。通りから街道へ入るところで、それに合流させてもらえるだろう。そこまで付き添った後、馬車が無事に監獄行きの隊列に加わったのを見送ってくれればいい。往復で二時間もかからないだろう――という話であった。これなら、エデラ殺しの下手人探しか山賊退治の調査にも、支障は出るまい。
「――で、だ。ギャリーとの話が済んだ後、あいつはそのための手紙を書くのでわしの部屋を出た。その後も、おそらくわしはずっとこの部屋を出なかった、と思う」
「その間、閣下はお部屋で何を?」
「わしの方で書くべき手紙もそうだが、まずは溜まっていた書類仕事よ。わしが承認したりなんだりせねばならんものが山ほどあって、ずっと何枚もの紙にわしの名前を書き続けておった。あれは手が疲れる。だからさっさとわしは娘に爵位を譲りたいのだが――諸君に愚痴をこぼしても仕方が無いな。
しばらくして、ギャリーがまた部屋に来た。手紙を書き終えたので出しに行くとの事で、わしの方で何か出す手紙があれば一緒に持って行くと言ってくれた。書類仕事の方は途中だったが、手紙は最初の一通が書き上がっていたので、それを渡した。ギャレットはそれを受け取った後、わしの机の上に反故が何枚か出来ていたのを見つけて、ついでにそれも持って部屋を出て行った。ギャリーが部屋にいたのはほんのわずかな時間だった。
それから少しして、エデラがわしの部屋に来た。なぜかあいつが昼食を持ってきたのだ。普段はギャリーが持ってくるのでなぜかと聞いたら、あいつは魔族に給仕をするのが怖かったので、ギャリーとフーゴーに代わってもらったのだそうだ。そうなのか?」
「左様でございます」
「そうか――アイツはわしの机の上に飯を置いた後、すぐに出て行った。それがわしの見たアイツの最後の姿だったのだなあ。その一時間後にギャリーが顔色真っ青ですっ飛んできて、エデラが死んだと言われた。たまげて、すぐには信じられなんだわ。今さら言っても仕方無いが、あの時エデラに何か話を聞いていれば、もっと諸君の役に立てたかもしれんな……」
そう言いながら、閣下は遠い目をして執務室の扉を眺めた。今の閣下には、自分が臣下を気にかけなかったために臣下を失った、そう自身を責めているところが少しあるようだった。
私は彼を慰めながら、話題を変える意味も含めて、先ほど拝聴した話の中で一つ疑問に思った事について尋ねた。
「閣下が気を落とすようなことはございません。悪いのは賊でございます。ところで、『反故を持って部屋を出て行った』とは一体何の話でしょう?」
「大した事では無い。そのままの意味だ」
閣下は杖を懐から取り出し、ゆっくりと席を立ちあがった。この時、閣下が杖を伸ばしている所を見てようやく気が付いたのだが、彼の杖は見た目こそ権力ある者にふさわしげな色や形、豪奢な彫刻が施されているが、中身は格式に気を遣った材料で作られたものではなく、端にねじ切りがされた中空の金属パイプを組み立てて使う、折り畳み式の実用品だった。頑丈ではないがその分軽く、足の弱った老人が主に使う物で、閣下がまさにそのような者である事を示していた。
その折り畳み杖を突き、閣下は一人用としては非常に幅の広い執務机の端まで歩いていった。執務机には様々な書類、筆記用具、燭台、閣下の身分とその職能・責務を表す多種多様な高価な品が並んでいる。しかし一つだけそうとは思えない物が置かれていた。机の端にあったのは粗末な浅い木の箱だった。その中に一枚か二枚紙が入っている。閣下はそれを一枚取って、私達の前に掲げた。
「これだ。反故、書き損じの紙だ」
確かに閣下のおっしゃる通り、その紙は公文書専用の高級羊皮紙だった。本文は書きかけで止まっており、その文章は綴り間違いのある単語で尻切れ蜻蛉に終わっていた。閣下の署名も入っていない。「それを捨てに行ってくれたという意味よ。一年ぐらい前にこの箱を置いてくれてな、わしが書き損じをここに入れておく。すると気が付いた奴がそれを捨てる、そういう事になっているのだ。特にギャリーはずっと気を利かせてくれている」
「どうしてそのギャレットさんはこんな箱をご用意なさったんでしょう?」キーヴィエは素朴な質問を口にした。
「何に悪用されるか分からんからだよ、お嬢ちゃん。わしが書類仕事で字を間違えたり、判を押す位置がずれたり、必要の無い書類を作成してしまったりした時は、破いて燃やしてしまうのだ。と言っても――」
辺境伯は言葉を切り、暖炉の上を目線で我々に向けて指し示した。
「大抵は燃え差しになってしまうのだが」
私達が促されるままレンガ造りの暖炉を見ると、上には白い磁器が置かれていた。小さな花瓶のような造りをしているが、中に入っているのは花ではなかった。白く艶のある高級な紙が細く裂かれてこよりのように棒状に丸められていて、それが何本かまるで茎のように花瓶の口から先端をのぞかせていた。暖炉に火を入れる時、燃えやすいこの紙の燃え差しの先端に火をつけ、それを灰の中へ放り込んで中の薪に点火するのが、ここの習慣なのだろう。私は暖炉を見ながら想像した。暖炉はぽっかりと開けた口の中で炎を揺らめかせている。
その暖炉の炎を見つめながら何か考え事をしていたミーナが、不意に私の後ろで口を開いた。
「閣下はなぜ暖炉をお焚きになってますので?」
「……いけないかね、魔族?」
「いえ、麓はそこまで寒くないでしょうに。どうして部屋を暖めたのかと思いましてねえ」
「なんだ、ただわしが書類仕事をする時の習慣よ。年を取ってからというもの、手足が冷えるようになったものでな……なあ、魔族よ」
「何でしょう」
「どうしてそんなにわしの暖炉が気になる?」
閣下は不審物を見るような目でミーナの目を睨んだ。
ミーナは閣下の目を、一瞬力強く見返したはずだが、すぐにわざとらしく首をすくめて目をそらしていた。
「いえ、事件解決の糸口がどこに転がっているか分かりませんものでねえ」
「貴様がわしの城での事件を解決すると、本気で言っているのか? 魔族が人族の社会の治安と平和に貢献するとでも?」
「あなた方人族領の人族の皆様が魔族という存在に対して抱いている感情については、今こうして思い知っているつもりではあります。しかし我が国ゴラクリはそのような国家ではございません。人族種族のウンディーネの文化を中核とし、人族を必要とする魔族種族の国民を中心に、人魔対等を国是として栄える国でございます」
「あるわけが無い」辺境伯閣下はミーナの言葉を即座に切り捨てた。「そんな甘い夢物語で出来た国が。わしは騙されんぞ。そんなにわしらに媚び売り臭くすり寄りたいのなら、エデラを殺した犯人も山賊も貴様が責任をもって捕まえ、目の前にその首を突き出してみせるがいいわ。貴様が本当にこの事件を解決したら、わしはボスクーミェ辺境伯の名で女王陛下に貴様の国との国交を進言し、我が国との間を取り持つ係を請け負ってやろう、領中を裸で逆立ち歩きして回りながらな。どの道、貴様は明日には王都の監獄で泣きながら暮らす事になるのだ。二度とわしら人族を殺して食う事など出来ん。せめて人族ごっこでもしていればよいわ」
閣下は吐き捨てるようにそう言った。
しかしそれを耳にしたミーナは、むしろ俄然不敵に笑った。
「仰せのままに、辺境伯閣下。必ずやご期待に応えて見せましょう」
厨房はボスク・キープの一階にある。辺境伯閣下の建物とはいえ、本邸の大きなマナーハウスとは正反対の城塞、それもごくごく小さくて非常に狭い建物ゆえ、機能を求められる部屋は華美さや風流ではなく機能性を詰め込んで設計されていた。つまり、兵站物資を備蓄する広い倉庫の中央に鎮座する、太い円柱状の大黒柱のように隔てて設けられた空間の中に調理のための設備のほとんどがまとめられていた。
魔族の中でも飛行可能な種族から襲撃された場合や、人族国家同士の小競り合いでは隣国グロースランド王国のワイバーン竜騎兵のような仮想敵を想定した国家の小型軍事拠点の場合、航空戦力の十八番戦術である上からの放火に備えなくてはならない。そのため油や燃えやすいものを取り扱う部屋は、階下の間取り中央に配置して外壁や屋根から距離を取っている作りの建物が多いものだ。広い空の下で散発的に火矢・油玉を魔族軍から受けてきた人族国家には昔から広く普及している思想なのだが、山林や複雑な地形を頼りに拠点を防衛してきた山の民ミーナからすれば、
「興味深い設計ですが……拠点そのものが投下攻撃にさらされるという事は、その地域はすでに空軍同士の衝突で制空権を失っています。地上兵力が残っていても撃ち落としきれないでしょう。さっさと放棄して兵を退いた方が良いのでは?」
と映るらしかった。
「ところでアヴィさん、ではこれは竈門の煤煙や湯気はどこから排気するのです?」
「大抵は柱の一本が中空で、そこに煙突が通っています。それに上の階の床下には換気口も通していますよ。あるいは勝手口までの廊下の天井なんかね」
「たしかにあそこの廊下は上り坂になっていて、天井は低くなっていますねえ。先の高いところにあるのが勝手口ですか」
「ええ。煙は上へ上りますから、煙の通る天井も上り坂だと都合が良いんです。それに勝手口があろうと、それが狭くて高いところにあれば、敵兵はいくらか侵入しづらいでしょう?」
「そういうものですかねえ……」
ともあれ、私達は厨房にいるという料理人の元へ向かった。
あらかじめ聞いておいたところによると、彼の名前はフーゴー・ブーンというらしい。地下牢に昼食を持って来たあのマスクの料理人で、彼がこのボスク・キープに住む者のうち私達がまだ話を聞いていない最後の一人だった。
中は一般的な屋敷と変わらない、厨房らしい厨房になっていた。白い漆喰の壁。レンガのかまど。木の調理台。調味料やら何やらを乗せた棚。床には木箱、木箱、袋、袋、樽。倉庫から調理に使う分だけ、材料の肉やら魚やら野菜・果物やら、小麦の袋なんかを脇に寄せてまとめて置いてあった。
その中央で、今ではもうだいぶ薄れつつある調理後の美味そうな匂いの揺らめきの中に沈んでいる陰があった。体つきのいくらか立派な、マスクをした大男。彼もまた私達は一度見た事があった。私達に昼餉をギャレット氏と共に運んできた太鼓腹の彼が、やはり料理人のブーンだった。
彼は黙々と昼食の後片づけを済ませていると同時に、さっそく夕食の仕込みにも追われ、厨房の鍋の様子をちらちらと横目で確かめながら、皿洗いを終え、今野菜を洗い始めたところだった。作業に集中しているようで、どうも話しかけづらい。
「あ、あのぉ~……」
キーヴィエが控えめに呼びかけたものの、聞こえていないようだ。
「少々いいか? ここの料理人のフーゴー・ブーンさんというのはお前だな?」
ベレンガリアが伝法な口調で声をかけた。やはり彼は反応しない。作業に没頭すると周りが見えなくなる質のようだ。
「ああ、神々へ感謝を! 会いたかったのです、そこのあなた!」
厨房に入った途端、ミーナが突然彼らの言語で感嘆の言葉を叫んだ。彼女を縛っていた縄は例によってまたもや目を離した隙に解かれていた。
「ああ、シェフ! あなたにお会いしたかったのです、今日の昼食は素晴らしい物でした!」
ミーナは体に絡まる縄を振り払いながら小走りでブーンめがけて一直線に駆け寄って行った。
ようやく来室者に気が付いたブーンが顔を上げた。ミーナの顔を一目見るや、即座に包丁を手に取って後ずさり、
「出ていけ、魔族!」
怒鳴りつつ顔を赤黒く染め、鼻にしわを寄せた形相で、ミーナの方へ包丁の刃先を突き出して身構えた。大多数の通常の我々人族妖精が、魔族妖精に対して抱く歴史的憎悪や切迫した敵愾心は、一般論としてごくごく当然の感情だ。今まで冷静に対応していた執事のギャレット氏や辺境伯閣下の方が、取り繕わずに言えば、おかしいのだ。
「さっき地下牢で見た顔だ。お前の事も聞いてる……魔族だ! 人族を殺して食い、捕まえて奴隷にする、残忍な、怪物! 食い物作る料理人を取って食おうなんて、とんでもない冗談だ」
ブーンはなおも口角から泡を飛ばした。
私達が彼の話している所を見るのはこれが初めてだったのだが、意外だったのは彼の話し方が見た目の割に訥々(とつとつ)としてたどたどしく、低い張った声も体の大きさと裏腹に小さかった事だった。寡黙な質だけではない、生来の発話の苦手さを感じさせた。
とにかく、彼の態度は一触即発の様相を呈していた。これでは事件について話を聞くどころではない。
ところがミーナは彼のこの激しい拒絶の姿勢を前にしてなおも妖精懐っこい笑顔を浮かべ、
「いえいえ、そんな事はしませんよ」
などと呑気に首を振っている。
「出て行け、でなきゃ料理されるのはお前だ、魔族!」
事態を収めるため、私が割って入らなければならなかった。
「フーゴー・ブーンさんですね? 私達はここの領主様に頼まれて、エデラさん殺害の下手人を調べているのです」
「こいつは人族の敵だ。けだものだ。顔も見たくない。冒険者さん、どうかこいつを、外の焼却炉にさっさと叩き込んで焼き殺してくれ」
「分かっています」私は彼を抑えるべく説得を試みた。私のとっさの誤った返事にミーナが驚いて振り向いた気がするが、気にしてはいられない。「ですが辺境伯閣下の命により、ここで殺すのではなく、王都の方の大きな監獄へ送る事になったのです。そこに閉じ込めておいて、長い期間激しく尋問を行うのでしょう。護送馬車が来るまでの間、監視しなくてはいけないのです。こいつは放っておくと勝手に逃げる事が出来てしまうのでね。地下牢を勝手に開けられるのを見ましたでしょう? それにこいつ、人族に対して妙に友好的なのですよ。それどころかなぜか事件に興味を示しているのです。逃げられるよりはと考え、仕方無く連れ回しているのですよ。それで目の届くところに常に置きながら調査もしているわけです」
ブーンは顎に手を当て、私とミーナを交互に見ながら唸っている。主人の命令となれば逆らうべきではないが、受け入れがたい部分もあるのだろう。「……辺境伯閣下の、命? 旦那様の……だがコイツは、魔族……ちっ……」
ミーナが手を合わせて微笑んだ。
「エステパーノ・フーゴー・ブーン、改めて、お昼は素敵なお食事でした」
「黙れ。魔族に料理なんか分からねえ」
「マンドラゴラのポタージュは十分時間を掛けて適切な下処理がされていて、安心して食べられました。マンドラゴラはピューレみたいなものにする時、下手な料理人が作ったり、物臭な奴が手間を省いて時間を掛けずにやろうとしたりなんぞすると、ふとした拍子に爆発するようになりますからねえ。それに、ニンニクも程よく効いておりました。肉料理にも合っていて、スプーンが止まりませんでしたよ。影の主役ですねえ」
ミーナは人差し指を立てて夢中になって語った。よほど人族の料理が上手かったらしいが、それにしても、食べ慣れない料理について、貴族生まれの私が思った事と同じ感想を抱けるとは思わなかった。食材に関する知識は正確で、舌も肥えている。
料理人ブーンも内心驚いているらしかった。彼の心中は、マスクで多少分かりにくいものの、微小ながら明確にその表情に現れていて、
――この魔族、本当に人族の事をそう思っているのか? 演技に決まってるが、演技に見えない。それに事件を調べたがってるというのは?
と己の目や耳を疑っていぶかる気持ちと、
――それに、こいつは少し料理が分かる……いや分かる気でいるのか? 魔族の癖に生意気だ。
と小憎らしがる思いが渦巻いているのが見て取れる。
ブーンは相手を試すような口調で言った。
「なら、魔族。今日の豚肉のソテーに掛けたソース。あれを俺がどうやって作ったか、材料を当ててみろ。当てられたら、ここにいるのを許してやる」
おそらく彼なりの譲歩であり、認めるに値するか理解しようとしているのだとは私は思った。しかしこれは無茶苦茶だ。彼女は人族の料理を今日初めて食べたのだ。
「弱りました、あれは私の知らない食材が使われていたのです」
ミーナは眉間にしわを寄せて舌や鼻の記憶をたどりながら唸った。
「ええと、まず肉汁に葡萄酒を混ぜて酒精を飛ばした後……何かの木の実を刻んで入れ、香辛料にある種のハーブの一種と山の方で採れる方の塩を入れ……そのう、別の何らかの料理酒およびビネガーを混ぜた物も加えてて、あと……ええと……あのまろやかかつ主張しない感じは何を使ったのでしょう……」
ミーナの口からすらすらと出てきたものに、私とベレンガリアは思わず顔を見合わせた。キーヴィエはというと、農民出身であまり料理文化に詳しくないのか、釈然としない表情だ。
彼女の答えを、ブーンは黙って聞いている。
「……バロメッツの幼果の中の、子山羊の骨髄を煮出したものですか? 隠し味に少量混ぜてあのような味を出すのは、バロメッツ特有の沢蟹のような風味しか無い、かと……」
ブーンは目を見張った。しばし黙った後、頬にわずかに生色を映しながら、少々あきれた様子で言った。
「それが分かるのに、オリーブの実は分からないのか、お前……」
「あれがオリーブ!」
ミーナは感嘆の声を上げた。ブーンはさらに首を横に振り、それから毒気を抜かれた様子で頭を掻いた。
「これはまだ食えねえ。この前渋抜きを始めたばっかだ」
ブーンはミーナのそばに置かれていた、緑色のオリーヴの実がいっぱいに漬けられた瓶を取り上げ、木の落し蓋を入れてから封を閉めて流し台の下の物入れへしまった。代わりに別の瓶を取り出した。こちらにもオリーヴの実が半分ほど詰められているが、すっかり渋みの元の灰汁を抜いてある様子だ。昼食はこれを使ったらしい。
ブーンはミーナの前でその蓋を開け、オリーブの実を一つ手に取った。
「こっちは岩塩を混ぜた水で渋抜きした後、薄い塩水で塩抜きまで終わってる。塩気があって、このまま料理に入れられる……料理が分かる奴は、他の奴の仕事が分かる奴。言葉が分かる奴だ」
「言葉が分かっても話が分かるとは限りませんよ、エステパーノ・ブーン?」
「少なくとも、そいつは俺の仕事場は荒らさない。もしも荒したら、叩き出す」
オリーブの実を一つ口へ放り込み、奥歯で噛み潰しながらミーナに背を向けた。
彼の背中の前で、瓶の口がぽっかりと空いている。ミーナは恐る恐る瓶へ手を伸ばした。ブーンは何も言わずに黙って立っていた。ミーナも一つだけオリーブの実を手に取って口に入れた。彼女の口から、
「なるほど、こういう味なのですか。ふむ、ふむ……」
という関心を示す声が漏れた。それを聞くまで待った後、ブーンはオリーブの実の瓶を片付けて、
「渋みは旨みだ。ただ、そのままじゃ渋すぎる」
とだけ言った。
このやり取りを、キーヴィエはなぜかむすったれながら見ている。
私は尋ねた。「――さて、えー……ブーンさん、その、事件について伺っても?」
彼は黙って私達の方を向いてうなずいた。口よりも態度で示すような職人気質の男らしい頷き方だった。
「まず、事件についてどこまで伺ってますか?」
「……そこの魔族が来た。ギャレットが騒いで、一食余計に作れと言われた。エデラはピーピー泣いて――」
彼は話をするのがそこまで得意な方ではないらしい。声量が小さいのもそうだが、彼はこちらの尋ねた事だけ取捨選択して答えられない男のようだった。私は彼のぎこちない話を遮った。「そのエデラさんが亡くなられた事についてはご存じですか?」
「……知らないって言った方が本当は良いんだろうが、知ってる」
「――もう一度お願いします、お声が小さくて。知ってる、というと?」
私が首をひねると、彼は親指で厨房の外を指した。
「お前達、そこで騒いでただろ。階段からは厨房の扉は見えないように出来てる。音もあまり、聞こえない。でもな、厨房から階段での物音が聞こえないわけじゃないんだ。階段下のゴミ置き場でエデラは殺されたんだろ。ギャレットが死体を見つけて、お前らを呼びに行って、閣下も呼びに行って、大騒ぎ。全部聞こえてた」
「しかしあなたは来ませんでしたね」
「最初、ギャレットの間抜けな叫び声が聞こえて、なんだろうとは思った。大ごとになったっぽいのも、薄々分かってた。ただ、俺は料理人だ。料理が終わったら、洗い物も必要だし、その後の料理の仕込みも要る」
「仕事で手が離せなかったから、厨房から離れられなかった、という事ですか」
「まあ、面倒臭えからな、厄介事は。料理だけしててえってのが、本音だ。そういう意味じゃあ今日は、仕事に集中出来た良い日だった。ずっと厨房にいたよ、一日中」
「それは、つまり、私達がボスク山へ出発してから今ここへ話を伺いに来るまで、ずっとですか?」
「ああ――いや、違う。二回ぐらい外に出た。一度は倉庫にいくつか取りに出た。この厨房、周りが倉庫になってる。そこでいくらか材料を厨房へ運び込んだ。いつ頃かは忘れた。朝食を作った後片づけて、昼食の用意に入った時だったから、多分午前中だ。時間が掛かっちまった。いつもなら誰かに会ってたら、無理やり手伝わせるんだがな」
おそらく、私達が山に出発してから、ミーナを連れて帰ってくるまでに間の事だろう。
「もう一つは、お前達に料理を運ぶ時だ。エデラがそこの魔族にもう近づきたくないと喚いただかなんだかで、ギャレットがお前達に昼食を運ぶ事になった。あいつが俺んところに昼食を取りに来た。で、いざって時のために、俺もついて行く事にした。俺が一番体がデカいから、そいつが暴れ出した時にゃあ、俺が盾になるのが一番マシだろ」
ブーンは肩をすくめた。私は彼の証言を書き留めながら、念のため再度確認を取った。
「その二回を除いては、一度も出ていない?」
「ああ。忙しかったからな。さっき言ったろ、アレのせいだ」
「ええっと……?」
「俺は、同じ事は二回も言わねえぞ……昼食だ。作るのも、洗い物も――」
「何だって?」ベレンガリアが大きな声を出して聞き返した。「すまないがブーンさん、もっと大きな声でしゃべってくれないか? 声が小さくてどうもたまらん」
彼女は耳介に手を添え、眉間にしわを寄せながら一歩前に出た。確かに彼の声は体の立派さに反して小さい。今まで辛うじて聞き取ってはいたものの、正直に言って会話をするには不十分な声量だった。元々あまり誰かと話をする方ではない質なのは察しがついていたが、それにしても聞き取りづらい。
しかし、ちょうど私がベレンガリアを擁護してブーンによりはっきりとしゃべるように頼み込もうと思った、まさにその直前に厨房の扉が開いた。
「申し訳ありませんが、そればかりはご容赦願えませんでしょうか、神官殿」
「ギャレットさん」
厨房に入って来たのは執事のギャレット氏だった。その羊のような顔は冴えない。今までも突然の悲劇のせいで冴えなかったが、そうではなく、深刻かつ話す事がためらわれる事を話さなければならないという顔だ。
「彼はあまり、大きな声を出して話をする事が出来ないのです。お聞きの通り、彼には発話に少々難がありまして。彼の唇は、その……何と申しましょうか。あまり、形が良くないものですから」
「形が?」
「……フーゴー、見せてあげなさい。嫌なら結構」
ギャレット氏はブーンに水を向け、マスクを摂るように促した。彼はしばらくためらっていたが、結局ゆっくりとマスクを外し、その下の素顔を露わにした。
フーゴー・ブーン氏の唇がどのようになっていたのかは、ここでは明確には描写しない。ただ、障がいと呼んで差し支えないものではあった。あれでは口を開いて会話するのも大変だろう。声で異常に気付かれないのが不思議なくらいだった。
ブーンが再びマスクを着けた。この上で一体誰がもう一度彼の話し声にケチを付けられるだろう? 当然誰もいなかった。だからというわけではないが、私はブーンからギャレット氏に話題の矛先を変えた。
「ギャレットさん、どうしてこちらに?」
「いえ、ちょっと伝言がありましたので……しかし、通りかかりましたらフーゴーの唇の話をしておりましたので、差し出がましくも口を挟ませていただきました」
ギャレット氏の言葉の続きは、ブーンの不意な質問に遮られた。
「デブナムさん、今日、焼却炉、使いましたかい?」
「いや? どうしたんです、フーゴー」
ギャレット・デブナムは身に覚えの無い事に首を傾げた。するとブーンは我が意を得たりという風にうなずいた。
「じゃあ、ありゃきっとエデラだ、冒険者さん」
「何かエデラさんについて思い出した事があるんですか?」
「ああ。というか、俺じゃないから、エデラしかありえねえ。俺が厨房で、いつ頃だったかな、昼食を作り終えて運んで、戻って来た後だ。ほら、そこに勝手口があるだろ」
ブーンは厨房の何も無い壁の方を指した。その壁の向こうには、確かに先ほどミーナが厨房の構造や換気に興味を示した時に見かけた、排気口のために天井の低くなった廊下がある。そしてその先には勝手口があった。
「あそこだよ。古い扉だが、一応ここは小さくても城だ、あそこの勝手口もそこそこ厚さがあって、閉める時にデカい音が鳴る。それが厨房まで聞こえてきたよ。一回だけな。最初は何か物音が聞こえたんだ、ゴンって何かぶつけるような音な。どうせエデラがまたゴミを入れた甕でも壁にぶつけたんだろうって思って気にしなかったんだ。その後でバタン! って扉が閉まる音がしたのさ。聞き違えるような別の音がなる場所でも無えし、やっぱり誰かがあそこを通ったんだな。きっとエデラがゴミ持って外に出てったのさ」
「どうしてエデラさんだと思うのですか?」
「勝手口の外には焼却炉があってな、そこでゴミとか燃やすのさ。俺も生ゴミのうち、燃やさなきゃいけないやつは、そこに捨ててる。横着して目の前の階段下のゴミ置き場に放るとさ、エデラは怒るんだよ、生臭いからやめろってな。でも俺は、今日は焼却炉を一度も使ってねえ。デブナムさんも使ってねえって話だ。焼却炉なんて貴族様みたいな方が使うような物でもねえから、旦那様でもねえ。て事は、エデラしかありえねえよ」
ミーナは私と同じことを考えていたらしい。彼女は尋ねた。「それはいつ頃の事か分かりますかねえ? 事件発覚の騒ぎの何分前か――」
「五分ぐらい前か? 分かんねえ。でも間違いねえ、エデラは勝手口を通ったんだ。死ぬ直前に焼却炉を使ったんだと思うぜ」
ブーンは寡黙な彼らしくもなく得意げにまくし立てた。それが重要な情報だという事が自分でも分かっていたからだろう。確かにそれが事実だとしたら、少なくとも事件発覚の五分前には生きていた事になる。それよりも後、わずか五分未満の短い間に彼女は殺された可能性がある。
ミーナが尋ねた。「その勝手口は、屋敷の者以外が出入り可能ですか?」
「無理だ」ブーンは間髪入れずに首を横に振った。「魔法の鍵が付いてる。扉を閉めたら勝手に鍵がかかって、中から出る時は閂を手で外して開ければいいが、外から入る時は鍵が必要って仕掛けがしてある。古い鍵だが、だからこそ安心だ。長期間の信頼って奴があるって事だもんな。おまけに、ウンディーネ族の執事も幽霊の類も通さない。城の扉だからな。ここは全部、そうだが」
ブーンと一緒にギャレット氏も胸を張った。彼の方が自信なさげなのは、地下牢でミーナが鍵を簡単に破って見せたためだろう。
この手の鍵は、諸侯の住居か大商人の店舗に多い。庶民には手が届かない。集合住宅に忍び込もうという輩は最初から羽で飛んでベランダか窓から入るだろう。神殿や王宮の場合ならもっと大掛かりな警備を用意出来る、となると、人族領では昔からそういったところでしか有効に使われないのだった。ミーナの国ゴラクリの文化や技術はつくづく人族並みに発達しているらしく、彼女は「なんだ、つまりオートロックという事ですか……」とつまらなそうにつぶやいていた。
「見てみるか、その扉」
ブーンが提案し、返事を待つよりも先に扉を押し開けて厨房を出て行った。私は、もしかしたら彼は本来はいくらか話好きで、ただ唇の奇形さえなければ訥々ともせず、声も十分な大きさで他愛ない雑談に人並みに花を咲かせたかもしれないのであって、今の寡黙で職人気質のような性格は見せかけだけかもしれない、と思った。
勝手口は、天井の一段低くなったその廊下の奥にあった。この小さな建物には似つかわしからざる、直径が目玉よりもはるかに大きな鋲をいくつも打たれた、重々しい古びた鉄扉だった。このボスク・キープがあくまで当初は城塞として作られた事の証だろう。鉄扉の勝手口の前に立つ私達全員の視線が、そのドアノブに集まっていた。丸い玉ねぎのようなノブの上に、回る閂が取り付けられている打掛錠だ。
鍵・錠前の話題となれば役目柄誰よりも食いつく斥候係のキーヴィエが、真っ先に打掛錠に手を伸ばした。
それと同時にミーナも手を伸ばしていた。
二人の指が打掛錠の前で触れ合った。手が止まり、顔を見合わせる二人。キーヴィエがミーナの手を強くはたいた。そのまま顔を背けて不愉快そうに離れていった。
先ほどからずっとキーヴィエが不機嫌そうにしているのが、私は気になっていた。しかし私が話しかけようとした、まさにその直前にブーンが鍵の説明をし始めてしまったので、おかげで私はキーヴィエに声を掛けそびれてしまった。だが当のキーヴィエはブーンの言葉と打掛錠に意識が向いており、ついさっきのミーナとのやり取りなど忘れているようだった。
ブーンが閂を回して鍵を外すと、勝手口の扉は見るからに重そうにゆっくりと開いた。しかし扉がもの凄まじい音を立てて閉まると、途端に閂がバネ仕掛けのように勝手に回って鍵がかかった。もちろんブーンは扉を閉める時に閂に手を触れていなかったし、この状態では再び扉を開ける事が出来ない。しかし何よりも、
「ほら、こんな風に、この扉も閉めるとデカい音が鳴る。古いし、城の扉だからな」
であった。
――バタン!!
強烈な開閉音だった。聴覚の鋭敏なキーヴィエにいたっては飛び上がるほどだった。これなら確かに彼の言う通り、厨房の中まで音が響くだろう。
「ブーンさん、私も扉を開けてみてもいいか? それに勝手口の外がどうなっているのか見たい」
「勝手に開けてみろ。閉める時、タオルか何か噛ませると、うるさくない」
ベレンガリアが勝手口の閂を回して開けた。私とキーヴィエ、ベレンガリアは勝手口から出て、外がどのようになっているのか調べる事にした。
外は、背後に小さな城を背負っている事を除いては、ただの田舎の外れにうず高く盛り上がった小さな丘の頂上と、これといってほとんど変わりなかった。丘の頂上からは、ボスクーミェの田園風景を少しだけ高いところから見下ろす事が出来た。しかし一たび後ろを振り返れば、牧歌的な丘のてっぺんとは正反対の、ボスク・キープの低い円柱状の物々しい石造りの塔と、そのそばに黒い塗装のつややかで新しい焼却炉の直線的な金属の煙突が見えるのだ。
キーヴィエがボスク・キープ周辺の土の上に足跡が残っていないかと地面を這いつくばり始めた。ベレンガリアは焼却炉を調べている。その間、私は外から勝手口を見て見る事にした。勝手口は地面から数段高いところに開いている。スロープも小階段も無く、ここから出入りするには下に打ち付けられた鉄の棒のかすがいに足をかけて足場にして昇り降りする必要があった。
私達が閉め出されないよう、ミーナがずっと勝手口の鉄扉を開けっ放しにしてくれていたのだが、ボスク・キープの外から勝手口越しに中を見ていて、意外な事に気が付いた。ここから事件現場のゴミ置き場までは目と鼻の先で、勝手口から入って一直線に二十歩も歩けば事件現場にたどり着く事が出来るのだ。
さらに私は上を見上げた。ボスク・キープの外壁は石のレンガで、古い建物ゆえか無骨な用途の設備ゆえか曲面を描く外壁は滑らかではなく、レンガの端が至る所に突き出していてでこぼこしていた。風雨に長年さらされてだいぶ角は落ちているものの、それでもまだまだ頑丈そうだった。私が下のレンガの角に足を掛けてもびくともしない程度には。
そしてボスク・キープもまた城塞ではあれど建築物であるため、レンガの外壁には採光のために窓が開けられている。敵兵が侵入しづらいよう幅は狭いが、妖精一人分が辛うじて通れるだけの隙間はある。
「……もし、もしも犯人が犯行現場を行き来する時に、壁の突起に足を掛けてこの壁を上り下りしたとしたら?」
私はつぶやいていた。ふと、犯人がそのような真似をした可能性が残されている事に思い当たったのだ。
「この壁を上り下りできるような、身軽な事件関係者はいるでしょうか……」
顎に手を当てて検討をし始めようとしたその時、キーヴィエが戻ってきた。眉を八の字に下げ、残念そうに口をすぼめている。
「アヴィさ~ん、お城の周りからは何にも見つけられませんでしたあ。雑草のせいで足跡は残っていませんし、踏み折られた草も広すぎて調査になりません。ブーンさん、もしかしてエデラさんって働き者でしたぁ?」
「エデラは毎日何度もこの辺を使う……使ってた。その辺にたらいを置いて洗濯物を踏んだり、物干しざおを立てて洗濯物を干したりな。デブナムさんも通るんじゃないか? 知らないが。俺もここは通る。料理に使う食材なんかは仕入れたら大体ここから倉庫に運び込むしな。もしも俺達以外の足跡が見つかったら、そいつはたぶん業者のだ。八百屋、肉屋、酒屋……」
ブーンの言葉にキーヴィエはがっくりと肩を落とした。「じゃ、外から誰かが入って来たかどうかは、全然分かんないって事ですねえ~……うーん……」
焼却炉からもベレンガリアの声が上がった。
「こっちもだ。中で何か事件に関係ありそうな物が焼却処分されたりはしてなさそうだ」
ベレンガリアが焼却炉に肘を乗せてもたれかかった状態で首を横に振った。その様子を、ミーナは勝手口から首を伸ばして見ている。
私は不思議に思った。あれだけ事件の捜査に意欲的な姿勢を見せていたミーナが、城の外周はそこまで積極的に調べようとしないのだろうか?
「キーヴィエさんのような優秀な野伏が白旗を上げたのです、私が調べたところで犯人の形跡はみつかりませんよ。こういう事は素人ですし、土地不案内なんですから」
ミーナは肩をすくめて見せた。
「まあ、収穫はありましたよ」
私は厨房と勝手口での調査の結果を帳面に書き留めた。キーヴィエもベレンガリアもこれ以上得られる物はないと考えてここでの調査を切り上げていた。
「そろそろご用はお済でしょうか?」
ずっと黙って私達の調査を見守っていたギャレット氏が、頃合いと見て私達に声を掛けてきた。
「冒険者様方に、お伝えする事がございます」
「なんでしょうか?」
「先ほど、囚人護送馬車がこちらに到着しております。現在馬に水と餌を与えて休ませておりまして、そろそろそこの魔族を監獄へ連行しに出発可能な状態かと思いますので、あまり衛視達を待たせない内にお発ちになる事をお勧めいたしますよ」