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第二章『地下牢 ~立て板に水よく湛う堀の内~』

 魔族達――魔族妖精は、この世界が誕生して以来、何千年もの間絶えず我々人族妖精を脅かし続けてきた。

 彼ら魔族は、我々人族よりも種族スピーシーズごとの身体や性質の際が激しいものの、おしなべて我々に比べて強力な肉体や高い魔力を生まれつき持っている。素人が一対一で取っ組み合いを挑んで叶う相手ではない。彼らは殺しや簒奪のための多様な能力をその身に宿しているのだ。

 頭に角や、腰に尻尾を持っているというのが一般に想像される典型的な姿だが、刃物のような牙に鉤爪、口から火や毒を吐き、体躯と膂力は倍もあるという事も珍しくない。それにこの世界、妖精界〈コッティングリア〉に住む我々妖精の特徴である背中の羽も、魔力が薄い塊として現れた半透明なものではなくドラゴンかコウモリのそれを持っている事もしばしばで、彼らはほとんど武装した直立二足歩行の猛獣のような連中だ。

 千余年前、彼らはその恐ろしい力を振るい、徒党を組んで人族妖精達の領域へ大々的に踏み込み、我々の暮らす世界の半分以上を侵略・征服しだした。彼らは、神々四柱が妖精界コッティングリアを開闢かいびゃくした直後には無かった、ある恐ろしい思想を抱いていた。自分達以外を殺し、その肉を無残に食らって侮辱する事こそが神々への恩寵に報いるのであり、その考えに沿わない自分達以外の者共を否定し、侮蔑し続け、この世から無くす事こそが使命なのである、というものだ。その結果、魔族の領域・領土では囚われた人族達が殺されたのみならず、生き残った者達も魔族の霊的・物理的優位性を示すために奴隷、家畜として飼われる事となり、理不尽に働かされ、理由も無く殺され、尊厳を踏みにじられてきた。

 しかし彼らの悍ましい支配も、長い年月を経てほころびを生じ始めた。高慢ゆえの慢心や油断に、魔族領の同胞達の水面下での抵抗、そして支配を免れた人族領の各国家の外からの勇敢な攻撃や働きかけが上手くかみ合って功を奏し、ある時魔族が妖精界をほとんど全面的に支配していた体制へ大打撃を与える事に成功した。それが二百年前の事である。依頼、各地の魔族領の人族が蜂起し、人族領の人族がここぞとばかりに攻め入って、多くの魔族領を滅ぼし、魔族共を殺す事に成功し、彼ら魔族の勢力は半分以下にまで大幅に狭められている。

 この巻き返し期にあって、我々人族の魔族に対する憎しみと敵愾心は緩む事無く、むしろ更なる決意をもって研ぎ澄まされている。彼らの強さ、恐ろしさは我々人族妖精には歴史的に身に染みているので、詰めを誤れば最後、再び暗黒と冒涜の時代を訪れさせてしまう事が分かりきっているからだ。


 私達は縄でぐるぐる巻きに拘束した詰襟女をそばの木の根本に括り付けた後、彼女の荷物を全て解いて持ち物を押収した。詰襟の魔族女の持ち物はすっかり旅支度という風で、私達人族のものとほとんど変わらない物を所持していた。財布、縄、ランタン、懐中鏡に櫛、などなど。しかしそれらは見慣れない形、見た事の無い模様、全て意匠が異国じみていた。また懐には鼠かオコジョのような形の用途不明の超小型ゴーレムを所持していた。私が魔族のゴーレム技術の専門家でなかったら見抜けなかっただろう。魔族の技術を密かに研究する者としてはぜひともそのまま持って帰りたかったが、安全のために破壊して機能を停止せざるを得なかった。

 これらの押収品を全てマントで風呂敷包みにして取り上げ、彼女をさらに簀巻きにしてから、私達は大急ぎで山を下った。

「例の〈ボスク・キープ〉へ戻りましょう」

 依頼主が現在居住している〈ボスク・キープ〉は、別名をボスクーミェ城という。本来は小高い丘の上に建てられた非常に小規模な城である。丘の頂上から頑健な作りの低い円筒形の石造りの古い建物が一棟建っているだけの簡素なもので、中庭どころか防壁も無い。建築物としては二階建てに屋上があるだけの、城という重々しい呼び方などとても似あわない小さな建物だった。これでも有事の際の最前線の軍事拠点として作られたもので、このような建物が未だに取り壊されずに残っているのは、ひとえにこの地のこの方角、ボスク山のふもとに百年以上敵たる魔族が姿を見せなかった事の現れだった。

 平時には辺境伯家の別邸として使われている。ボスクーミェを領主として治める辺境伯のヴィルヘルム・フェーアスライヒ・ジークムント・フォン・クラム閣下は、代替わりの用意のために本邸を嫡子の娘に譲った後、自身は最低限の使用人だけを連れてボスク・キープに引っ込んで行き、早々に隠居を決め込んで暮らしていた。

 辺境伯とは、伯爵と同程度の序列にある高貴なる爵位である。その名の通り国家の版図の端の領土、辺境を預かり、外から国内に侵入し攻め込んできた敵軍と接敵し、外敵を討ち払う役目を王宮より仰せつかる。すなわち辺境伯は有事の際には国防部隊の現場指揮を司る者であり、また辺境伯領とは国防の現場・最前線そのものである。諸外国の民と接触するのを生かして交易で財を成す辺境伯もいるのだが、ボスクーミェ辺境伯領が接しているのは森閑かつ不毛とされているザモクラツケ高地だけであった。しかしこのザモクラツケ高地は長らく魔族の兵が人族領へ降りてくる事の無かった忘れられた魔族領だったため、辺境伯領の爵位名も歴史の名残になりかけていた。

 それが、降りてきたのだ。我々はその辺境伯閣下に火急の知らせがあるとメイドに伝え、再び執務室に通してもらった。

 このボスクーミェ辺境伯が、今回私達冒険者を雇った実質的な依頼主である。

 依頼内容は領内の山賊退治。ボスク山中で怪しい影が二度三度目撃されており、それを捕まえてほしいという。目撃証言そのものはそれぞれ大した事は無く、やれ「男が一人山道から外れたところを歩いていた」だの「山奥から何か小声で物騒な事を話す怪しげな声を聞いた」だのという程度でしかなかった。そこへある日フォン・クラム辺境伯の執事ギャレットが怯えた様子で帰ってきて、山中でそれと思しき薄汚れた武装集団を目撃したと報告し、執事のたびたびの具申に辺境伯もついに重い腰を上げる事になった。しかし間の悪い事に、閣下自前のご自慢の騎士団はちょうど北方の戦役で友軍の支援のために出払っており、手が足りなかった。ただボスク山も小山なので、冒険者を雇って捜索と討伐をさせれば間に合うという結論に至ったそうな。それで実際に私達の店まで出向いて依頼票を書いたのがこの執事ギャレット・デブナム氏で、書類の上では彼が名目上の依頼主となっている。

 当初は私達も、まあ、正直に言ってしまうと、すぐにに終わる仕事だろうと高をくくっていた。もちろんいい加減な仕事をしようとしたつもりはない。

 それが、思わぬ捕囚を連れて私達が帰って来たので、

「何だと、そんな上級の魔族が……」

 さしものフォン・クラム辺境伯も驚愕していた。

「はい。それで急遽山賊の捜索は中止し、急ぎお耳に入れなくてはと思い戻って参りました」

「褒めて遣わす……いや、魔族に立ち向かうは辺境伯領の使命、なのだが……ボスク山に一人とはいえ、魔族が下りてきた、と! なんと間の悪い……我が軍勢は勅命のために北へ送ってしまっている。もしも今、何か事が起きたら、とても迎え討てん」

 私達の途中報告を聞いた閣下は、脂汗を浮かべ、執務室の椅子に鍛えられた矮躯を沈めて唸った。彼の佩いた格調高い装飾の短剣も、突く豪奢な彫刻の施された杖も、朝敵を打ち払わんとする身構えを常に保つためのものだ。しかし今の彼には、その二振り以外の武力がほとんど手元に無い。

 さらに、彼の目の前には今、その魔族が縛られたまま座り込んでいるのだ。

「コイツがそうなのか?」

「そうです、閣下」

「一人だけか。斥候という事か?」

「というよりは、それ事前の情報収集の段階だったのかと――閣下、危のうございますので、あまりお近づきになりませんように」

 私は答えた。貴族との交渉は私の役目だ。万が一魔法が使えた場合を考え、彼女には猿ぐつわも噛ませてある。

「分かっておる。尋問はしたのか?」

「まだしておりません。無力化してすぐに連行しました」

「そうか――コイツがトロールか。まじまじと見るのは初めてだ。巨人の仲間で、体躯を操って山のように大きくなれると聞く」

「小さくもなれますよ」

「うわっ!」

 その場にいた私達全員が素っ頓狂な声を上げて飛び上がってしまった。口を利けないようにしておいたはずの無い詰襟の魔族が、いきなり会話に割り込んできたからだ。

 彼女はいつの間にかブラウニー族と変わらない子供じみた小柄な体格に縮ませ、麻縄を悠々と解いていた。服のしわを手で払って伸ばして身だしなみを整えながら、

「このような形で閣下のお目にかかる事、どうかお許しいただき――」

「早く縛り直せ! なんて危ない奴だ!」当然ながらフォン・クラム辺境伯がすぐに怒鳴った。「これ見よがしに恭しくしおって、魔族め! 何をぬけぬけと言うのか」

 慇懃無礼に平身低頭の姿勢を作って見せる詰襟女を、私達は慌てて再び拘束した。今度は縄は使わず、覚えたばかりのバインドの術を使って彼女の体を締め付ける事にした。不思議な事に彼女はやはりほとんど抵抗しない。その間閣下は、杖の先で床を叩き、ベルも乱雑に引いて鳴らして執事を呼びつけていた。

「ギャリー、地下牢の鍵を取ってこい! ごほん――諸君、この建物は今でこそ、わしの隠居暮らしのための別邸のようになっているが、本来このボスク・キープは小さな城塞。こういう時のために地下牢がある。そこへこの魔族をぶち込んでおいてくれ」

 辺境伯閣下の下命に、私達はかしこまって答え、縄を引っ張って詰襟の魔族を無理やり立たせた。

 すぐにギャレット氏が鍵を持って執務室まで戻って来て、開いた扉の外を手で指しながら、

「地下牢まで案内いたしましょう」

 と言った。


 屋敷の奥に重い鉄扉があり、その向こうには暗く狭い階段が、死後の世界へ続く細い洞窟のようにぽっかりと口を開けている。私達はそこへ、縛った詰襟女を連れて階段を下った。その下がこの屋敷の地下牢になっている。一般に「地下牢」という言葉を聞いた時に想像するような典型的な、生の気配が退廃して陰惨さで窒息死させられそうになる場所だった。

 護送用の馬車が手配されるまでの間、無論山賊探しの続きも出来ないので、私達は地下牢に拘束した彼女が逃げ出さないよう見張る事にした。彼女の処分については、具体的には尋問の成果を検討してから決められるものの、ずっと辺境伯屋敷に入れておくわけにもいかないため、どこかへ移送する事を前提に今後は動くようだ。

 地下牢の中はもしも押し込められればすぐに気が滅入ってしまいであろうほどに暗く、そして暴れるには狭かった。中にある物といえば粗末な木製の小さな机と椅子、そしてあからさまに固そうなベッドだけだ。鉄格子は一見して古めかしく、年季の入った汚れで奇妙な風合いが出てはいるものの、太く頑丈そうだった。これならそう簡単には壊れないだろう。もしもトロールがこれを壊そうと思ったら、まずどの程度巨大化すればいいかを探らなくてはならない。その間に私達はまたバインドの術か何かで拘束し直す事が出来る。事実上、力づくではまず破られないように思われた。牢屋の鉄格子を開けようとして手を掛けたキーヴィエが、

「うわっ! これ、大っきいですけど魔法の道具(マジックアイテム)の類ですよ~! あたし達ウンディーネみたいなのがすり抜けようとしても、錠前を開けずには通れないって奴ですっ!」

 と言って驚いていた。

 ともあれ、鉄格子が開けられた。詰襟の女魔族は、促されるままに地下牢の鉄格子の中へ素直に中へ入った。ベレンガリアが借りた鍵で牢屋に鍵をかけた。バインドの術はその内時間で切れてしまうだろうが、鉄格子もある事だし、都度掛け直せばいいだろう。

 彼女は鉄格子の中で行儀良く椅子に座ったまま、何も行動を起こす事無くずっとおとなしくしている。

 最初に会った時から、彼女は嫌に従順だ。経験上魔族という生き物は、種族スピーシーズ血族レイス氏族クランで程度や差はあれど、たいていは人族に見下されたり支配下に置かれたりする事に強く抵抗する。そうでない者は必ずなんらかの企みがあってあえて従っているのに過ぎないのだ。しかし彼女はどうしても、そのどちらにも見えない。

 どれだけ時間が経過しただろう。一時間程度だろうか?

 途中で、執事のギャレット氏と共にエデラという中年のメイドの女性が、見張りのさなかに私達が座っている分の椅子を用意してくれた。二人とも、檻の中から不敵に顔を覗かせている魔族に近づくのが恐ろしいようで、階段を降りるのも椅子を並べるのもどこかおっかなびっくりなところがあった。事あるごとに詰襟女の顔色を気にして横目でちらちらと見ていたし、特にメイドの方はあからさまに怯えていた。

 加えてギャレット氏の方が、

「お昼食がまだでしたら、お出ししましょうか? 実は皆様が帰ってきた時のために、三人分の用意をあらかじめ料理人にさせておりまして」

 と快い提案をしてくれた。

「ああ、ありがとうございます。少し早いですが、昼食にしましょうか」

「私はせっかくですから人族領らしい料理が良いですねえ」

 詰襟魔族女まで図々しく乗ってきて好意にあずかろうとしだした。よく見ると私の分の椅子を勝手に牢屋の中に引っ張り込んでしまっている。ギャレット氏とメイドのエデラは、困惑と動揺の表情を混ぜて浮かべながら階段を上って地下牢を出て行った。ベレンガリアが白い目で詰襟女をねめつけた。

「お前の分は無いぞ、魔族」

「先ほどから魔族、魔族と大まかな分類で呼ばないでいただけませんかねえ。私にはミーナ・セルニャンキサという名前があるのですよ」

 詰襟の魔族、ミーナは膨れてみせた。

 彼女は自ら名前を明かした。ボスク山で捕まえた時もそうだったが、彼女はこちらから水を向けなくとも勝手にべらべらしゃべってくれる。このまま尋問を始められそうだ。そしてこちらの聞きたい事はすぐに聞き出せるだろう。

「ミーナさんと言いましたか、魔族のあなたがなぜ人族領まで下りてきたのですか? それも、トロールといえば山の民、森の民でしょう」

「それを言うなら、我らが愛すべき友人のウンディーネ族達だって人族にして山川さんせん林泉りんせんの民ではありませんか」この呼び方に、当のウンディーネ族であるキーヴィエは非常に渋い顔をして拒否感を露わにしている。しかしミーナはそれに構わず、「それに私は森閑なる巨人の一人である以前に、ゴラクリ国の民です」

 ゴラクリ。この名前も一度耳にしている。「国名と国民意識があるほどの大きな魔族領なのですか? あなたの故郷は」

 私の質問に、ミーナは胸を張って答えた。

「冗談を言ってはいけません。我がゴラクリ国は、ザモクラツケ高地で千年以上歴史を紡ぎ続けてきた文化的な国家ですよ。それに他の野蛮な魔族国家とは違います。人族は同等なる友。対等な共存を前提として栄え続けてきたがゆえに、周辺の魔族国家・地域・勢力から誇らしくも孤立してきたのです」

 信じられない事だった。

 一般的にはこうだ。妖精界コッティングリアの人族妖精と魔族妖精は敵対し続けてきた。魔族は人族を軽視し、虐げ、最終的には殺す事で自分達以外の存在に対する優位を示す事が、自分達の敬服する神々への功徳であると信じているため、彼らの版図では同胞達が奴隷的地位・家畜的扱いに貶められて使われる事を強いられる。

 全ての魔族の領域が一般にはそうだと言われている。

 しかし種族スピーシーズごとに見れば全ての魔族が人族の命を奪う事を求めるわけではない。魔族の中には捕食行為や繁殖手段などで種の存続に人族が欠かせない者達が存在する。人族の母胎を犯して子を成すミノタウロス、人族の男性を捕えて夫とするアラクネ、人族の精気を吸い取って生きるサキュバス・インキュバス、など。そのうち、人族と融和的に暮らす事の出来る種族は、必ずではないがそうでない大多数の種族と、特に人族に対する態度について価値観が合わない事が多い。

「そのような人族と共に生きるほかに無い者達が、ザモクラツケ高地のウンディーネの里へ逃げ込み、現地のウンディーネ族達も周辺の魔族から身を護るために彼らを受け入れたのが、魔族と人族が共存して生きるという珍しい地域が誕生するきっかけになった、と教わっています」

 ミーナの出身国・ゴラクリは、そのような建国の歴史と稀有な価値観を持っているという。元々ウンディーネ族の土地であった事と、そこへ流入した魔族のほとんどが人族社会に紛れ込んで暮らす傾向の強い種族スピーシーズばかりであった事が、人魔対等社会・人族寄り文化の魔族領という奇跡の土地を生んだ。

 ゴラクリ国は産地や高原の広がるザモクラツケ高地の中にあり、現在ではザモクラツケ高地のほぼ全域を版図とする。人族の尊重という他の魔族国家とは相いれない価値観を擁していながら現在までその国体を保っていられているのは、複雑に入り組んだ山岳や渓谷といった自然の要害のみならず、ウンディーネ族のものをもとにした人族的国家体制や文化や技術が人魔入り混じって独自に発展していった地域性そのものにもある。

 版図全域が野趣に富んだ緑と水源であふれかえり、都市部にも地方にも人族国家と大差無い豊かな街並みが営まれているという。

 そのような地域が存在するなど私達は信じられなかった。それどころか、我が国の目と鼻の先で千年以上栄え続けていたとは。

「そうでしょう。我々の方も貴国とはご縁がありませんでしたからねえ。我が国の関心はずっと周囲の魔族勢力に向いていますから」

 人族を庇うゴラクリを憎む他の魔族国家とは価値観が合わず、敵愾心を抱かれて戦争を仕掛けられる事も多いという。

 それに関わって近頃、ゴラクリではある社会問題が起きている。現在ゴラクリは北方の某典型的魔族国家と深く対立しており、戦争状態が続いている。防衛戦では無類の強さを誇るゴラクリは、散発的に発生している戦闘そのものについては非常に上手く事を運んでいた。しかし戦乱に乗じて敵国から脱走してきた人族奴隷がゴラクリに大量に流れ込み、市民生活を混乱させ、さらに地理的に第一次産業の地力が弱いゴラクリの国内食糧事情を圧迫するようになっていた。

「山でちらっと話していた難民問題とは、この事ですか」

「人族国家の方々にはお分かりにならないでしょうが、我が国にとっては大問題なのです。このままでは兵站にまで影響が出ます。そうなれば最悪、我が国はおしまいです! それに今に貴国へも魔族の蛮兵共が押し寄せるようになりますよ!」

「それで、その……『商売』を?」

「正確には『任務』なのです」 

 ゴラクリ国の頭座とうざ――原語ではプリシッツィオ。直訳すれば主席。政治体制に関わらず国家の首脳という意味合いの言葉である――として君臨するグァルドゥイノ・ゾ・モルコ元帥は、議会軍の資源・一次産業師団大臣からの報告を受け、内奏の末、多面的かつ大規模な対策を講じる事を決定。そのための活動の命令は近衛軍にも下された。その内の一つが、国外における食糧の生産と流通の事情を調べ、食糧問題の解決につながりうる情報や人脈を手に入れる事。

 この特別な命令を受けた一人がミーナであった。

「私は、ヴィヴェルノ川を渡ってウォスティエイスキーユ峠からエシッド王国へ入るように、と指示されました――貴国ではそれぞれイアルハラン川、ボスク山と呼ばれている場所の事です。国内の河川流域の警備を中心に担う我が国の水軍が調べたところによれば、現在敵性集団や有害な組織が活動している形跡が見られないため、そこを通れば安全で、地理的にも事故の恐れが少なく、手近なのであえて選ばない理由も無いとの事でした。

 一度入国してした後、現地での情報収集のし方については、私に一任されていました。どこで食糧が生産され、どのように流通しているのかの大まかな流れや、その産業や物流に中心的に携わっている組織について調べ、定期的あるいは重要な情報を手に入れ次第報告する事。それが当面の私のする事でした。そして最終的には、その食糧が我が国へ輸入出来る流通経路を構築する事が目標です」

 つまり、彼女がボスク山で語った商売の内容とは、そのまま任務の内容だったのである。

「つまり、あなたは祖国を食糧難から救うために調査の旅を国家から依頼されたのですね」

「ええ。私は近衛兵ですから」

「常備軍ですか。しかし兵士にしてはあまり武張って見えませんね」

「それはまあ、近衛軍は懐刀ですから。そもそも近衛軍は水軍や陸軍・空軍と違い、師団によってやってる事が全然違いますのでねえ」

 近衛軍は国家の懐刀であり、全軍の中でも特別で特殊な軍隊である。国家元首直々の命令を受け、ゴラクリを守るために闇の中から中へ蠢き、暗躍する。その特殊性から、所属する者は軽々と身分を明かす事すら咎められる。そのため近衛兵はよく「お堀の内側に勤める者」などと婉曲表現で名乗ったりするため、俗に()()()などと呼ばれているとか。彼女はその近衛軍に所属する近衛兵である。そこでミーナはかつて警護師団で爆発物捜索処理連隊に配属されていた。特別な訓練を受け、様々な専門知識と特殊技術を学ぶ機会を得た。またそこで危険な実戦もいくつも経験している。

「その際、異界の邪神を奉じ招来せんとするカルト教団のテロ行為にも関わりましたよ。彼ら異世界カルトは魔族と人族の共通の敵ですから。そう私は認識しているのですが、ご当地では実際のところどうなのでしょう?」

「そりゃあまあ、当然の事ですが……」

 そこで任務を遂行しているうちに高水準の機密情報にいくつも触れざるをえなかった事、彼女自身が持っている特殊な知識の事など、様々な要因が勘案された結果、ミーナは情報師団に異動となった。

 情報師団は、特命を受けて行動する最も機密性の高い組織の一つであり、国家の意思決定に関わる各種調査・取り締まり・工作活動などを担う。要は諜報機関である。

「って事は――やっぱり魔族のスパイなんじゃないですかあ~っ!」

「そうですとも。悪党などではありませんし、悪事を働きに来たのではありません」

 キーヴィエがどれだけ叫んで魔族に対する忌諱感をあらわにしようと、ベレンガリアが盾を構えて鬼の形相で睨みつけてどれだけ警戒心をあらわにしようと、やはりミーナはこうして胸を張るのだ。

 我々が何を恐れ、何に憎しみを抱いているのかを、彼女は本当に理解していないかのように見えた。人族が魔族をどのような悪感情を抱いているか知らず、魔族でありながら人族に対して悪感情を抱いていない。どのような人生を歩めば、そのような無知で呑気な魔族に育つのか? 人族と魔族が争わない、夢物語にも描けない楽園で育てばこそ? そのような融和的な国家が、本当に実在するのか? もしも今までの全てが演技だったとしたら、天性の劇の才能の持ち主だ。

 私は、次第に彼女の言葉を信じ始めていた。その事に自分自身でも驚きを隠せなかった。

 なんであれ、彼女の口から工作員という言葉が出てきたのは事実だ。これを尋問の成果として、私達は当然ながら報告する。そして彼女は自ら供述した通りの者としての扱いを受けるだろう。

 それでも、他国の領土で明かせば自分の首を絞めるだけの身分を、ぺらぺらと悪気も無さそうにしゃべる姿を見ると、全く我が国にとって有害に見えないのだ。

 尋問がひと段落ついた時、再び階段の上の鉄扉が開かれる音が聞こえた。階段を下りてきたのは、一人はまたも執事ギャレット氏。もう一人は調理服に身を包んだ料理人だった。がっしりとした体つきとさらに立派な太鼓腹をした、いくらか大柄な男。衛生面のためか口元を白い覆面布で覆っている。二人ともやはり妙な緊張感を感じ取れた。

「お昼餉ひるでございます」

 二人の手には深盆バトラーズ・トレイが載っていた。細く急な階段はサービスワゴンでは通れなかったためだろう。深盆バトラーズ・トレイの上には小麦多めのライスバゲットと、マンドラゴラのポタージュ、薄切り豚のソテーのシルフ風赤ワインソース掛け。貴族の料理としては大した品ではないものの、時間と手のかかるものには違いなかった。農民の生まれのキーヴィエが目を輝かせてよだれを垂らしながら眺めるのも不思議な事では無い。

「座敷牢の奥には、看守室というほどではありませんが、こまごまとした物を置いてある場所があります。今そこからテーブルをお出ししましょう。それとも一階のダイニングで召し上がりますか?」

「いえ、ここでいただきます。ありがとうございます」

 ギャレット氏が奥の部屋から小さなテーブルを出してきて、ミーナを閉じ込めてある鉄格子の前へ恭しく配置した。その上に無口な料理人が深盆バトラーズ・トレイの上の料理を置き、それを執事ギャレット氏がてきぱきと配膳した。

 その横から、 

「私にはそのまま渡して下さって大丈夫ですよ。牢屋にはテーブルがありますので」

 と言いながら、なんとミーナは、鉄格子を開けて牢屋から出てきた。

 我々は再び面食らわされた。どうやって? そういえばバインドの術を掛けてからもうだいぶ時間が立っているので、尋問中に切れていたとしてもおかしくない。しかし牢屋の鍵は確かにベレンガリアが掛けた。それを内側からどうやって開けたのか? ギャレット氏も目を皿にして驚愕している。

「や、屋敷で最も強固な錠前を……?」

「でしたら、屋敷中の鍵を全て交換する事をお勧めしますねえ。犯罪者に入られてしまいます。この手の鍵は、鍵穴に髪の毛二、三本差し込みさえすれば、解錠の出来る何らかの魔術の心得一つ持つ者には簡単に開けられてしまうのです。錠前の中に別の小さな錠前が入っていて、ただ解錠魔法一回で単純に開けられはしないというだけなのですから。見たところ古いお屋敷のようですから、鍵も古いままなのでしょう」

 得意げに語りながら、ミーナは勝手に深盆バトラーズ・トレイの一つを平然と手に取ると、

「確かに鉄格子まで魔化して強固に封鎖をしてあるようですが、肝心の錠前がこれでは牢屋の意味がありませんねえ……ああ、そこの青いローブのあなた。施錠をお願いします」

 自分を再び監禁するように自ら頼みつつ牢屋の中へ引っ込んでいった。私は彼女に言われるがまま鍵をかけた。その様子をギャレット氏と料理人は奇妙なものを見たと言わんばかりに――実際その通りだろう――顔を見合わせ、地下牢から出て行った。

 ミーナはそのまま牢屋の中に備え付けられていた粗末なテーブルいっぱいにその料理を並べ、

「ううん、良い匂いですねえ。では失礼しまして……」

 美味そうに食器を手に取って食事をとり始めた。普通、魔族の食事というと、誰もが殺した人族の生肉を血塗れになって素手で貪るような残忍な蛮習を思い浮かべるものだ。彼らは人肉食いの殺戮者だ。しかし目の前の食器を操る手付きは、我々の厳密な慣習には則っておらずとも、丁寧さは人族と変わりなく、むしろ上品にすら見える。さらに食文化に対する知識と好奇心も豊富な様子で、

「おや、麓ではマンドラゴラをこう料理するのですか。ちゃんと丁寧に下処理してありますねえ。それを低温でじっくり時間を掛けて煮込んで……うん、コクがあって素晴らしいスープです。これは何の肉でしょう? 山羊でも蛇でもないし……さては豚ですねえ? 人族領では、豚肉に加え葉野菜・小麦粉・魚を用いた料理を揃えた献立は、職分・身分、いかなる者にも差別無く扱うという意味を持つとか。それに豚肉は、人族領では薬としても食されているとも伺っていますよ」

 いかにもその通りではあった。前者は、人族がそれというだけで魔族に貶められてきた被支配者の歴史の反動の賜物だ。種族上ひいては広く身の上での公平な扱いを神々四柱の前で誓うための献立形式であり、会食や係争相手との対話の場などで完全な献立を饗さなかったとなれば、向こう十年は非難を免れず、さらに多くの国で法的な厳罰を伴う。後者も事実で、いくつかの症状や疾病の治療のために、神官が豚肉の摂取を患者に指示する場合はあるが――どこでそんな知識を仕入れてきたのだろうか。

 私は曖昧に笑って頷いた。彼女は再び舌鼓を打ち始め、

「ううん、柔らかくて美味しい。しかしこの濃厚なソースは何でしょう? きっと発酵食品大国たる我がゴラクリにも無い未知の料理酒が使われているに違いありません。それに、この名も知らぬ木の実のわずかな渋みが味に立体感を出していて、いや、実に美味しい……そして、パン! 小麦に米、この手の穀物は山の中にある祖国では絶対に食べられないものです。これはどうやって食べるのでしょう、ええと――」

 ミーナは舌鼓を打つ手を止めて顔を上げて、私の方を見つめたまま黙っている。

「ポタージュに浸して食べるんですよ」

「いえ、そうではなく」

「……では何です?」

「何とお呼びすれば?」

 ミーナは牢屋の鉄格子越しに人懐っこい笑顔を私達へ浮かべて見せた。

「そういえば、皆様のお名前を伺っていませんでした。私はお話ししましたので、今度はそちらの自己紹介をお願いしたいものですねえ」

 鉄格子を隔てて、牢屋の中から彼女はやはり何でもない風に、外から彼女を監視する私達にそう問いかけてきた。

 普通なら、魔族のスパイなどにこう馴れ馴れしく距離を詰められて、そのまま仲良く話に答える奴などいない。

 しかし私は、いつの間にかこの魔族にすっかり気を許してしまっていた。

「……アルヴェアー・アルヴィンソンです。アヴィと呼ばれています」

 ベレンガリアが慌てて私を静止しようとした。「お、おい――」

「いえ、向こうはあくまで平和的な態度を見せているのですから、こちらも話を合わせておけば良いでしょう。それで向こうが黙ってこちらに従ってくれるのならば」

 これは半分は彼女に対する説得だったが、実際には私自身への言い訳がもう半分だった。それでも彼女は一瞬の逡巡の後、存外不満を見せずに引き下がってくれた。反発を露わにし続けるよりは監視しやすい態度を保たせる方が良いと判断したのだろう。私は白ブナの魔術行使杖を彼女の前に立て、もう片方の手で首に下げている鉄筆を掲げて、ミーナへの自己紹介を続けた。

「私はご覧の通り、魔術を少し使います。いや、あなたの国の魔法使いがどのような格好をするのかは分かりませんが、ここではローブというのは魔法職の制服のようなものなのです。その魔術で、いくらか戦ったり調べたりするのが私の役目です。

 私達はエシッド王国の王都エシッディアから来た冒険者です。先ほどお会いした男性はヴィルヘルム・フォン・クラム卿といってこの土地の領主で、私達は彼に雇われて山賊退治を頼まれ、この地へやってきました。

 こちらは私達冒険者一党(パーティー)のリーダー、ベレンガリア・ブリュッケミュンステルです。大盾の重戦士で、まあ、生臭神官ですがとても頼りになる女性です」

 ベレンガリアは一歩前に出て牢屋に近づく時にすらりとした長身を強調するように立ち、中世的な顔立ちにしわを寄せてわざと少し威圧感を出した。「よろしく。普段は王都の四霊大神殿に神官として務めている。捜査・捜索や武力が要る時は、周辺の神殿に協力を要請出来る」

 つまり〈もしもお前が逃走を図ったり勝手な事を試みたりしたら、こちらはすぐに探し出して捕まえられるぞ〉と言外に匂わせているようだ。

 意外にもキーヴィエは最後に口を開いた。こういう場では子犬のように真っ先に駆け寄って親交を深めようとしそうな彼女なのだが、今日は手負いの猫のようにずっとミーナを警戒し続けている。自慢のボディスを縛っているひもが解けかけているのにも気づいていないほどだ。いつでも天真爛漫な彼女らしくない。農村部出身の彼女にとって、魔族は身近で差し迫った具体的危険だ。たとえ仕事で必要であろうと態度だけの話だろうと、打ち解けろという方が難しいのだろう。彼女は怪訝そうに、

「……良いんですかあ?」と私に尋ねて来た。

「逃がさなければ大丈夫でしょう。逃げる様子も無さそうですし」

「……キーヴィエですっ。斥候スカウトで、ナイフとか弩とか使います」

 彼女がこうまで言葉少な、かつむすっとしているのもまた珍しかった。彼女が姓を言わなかったのも、誤解を予防するためのいつもの習慣だけではないのに違いない。

 ミーナは一瞬目を丸くし口をすぼめて驚いた顔を見せ、牢屋の粗末な丸椅子にどっかと座り、

「なるほど……私はてっきりそこのキーヴィエさんか、そうでなければアヴィさんが隊長なのだと思っていましたねえ」

 と言った。

 私達は不思議に思って尋ねた。「一体なぜそう思ったんです?」

「一目見ただけですよ。服装や人相風体、態度。外見は内面がにじみ出るものです。〈水を入れた甕は濡れ、蛇を入れた甕は動いて見える〉と我が国では言いまして……。

 まず、えー……アヴィさん。私もそう呼ばせていただきましょう。ローブの説明をされなくても、あなたが女学者か女性技術者らしい事は見てくれで分かります。他のお二方と見比べてみれば、アヴィさんは袖だけが異様に擦り切れていて、右手の指にわずかにペンだこのようなものがあり、杖はよく手入れがされていて野外活動をしても真っ白です。これは順に、両腕を何かに突っ込んで作業する事が頻繁にあり、よく物書きをし、かつ魔術を扱う道具に対して日常的に気にかけている事を表しています。これら三つが仮に同じ理由でこうなっている場合、条件を満たすのは魔法技術の開発に明け暮れる研究者か何かではないかと思いました。そのような魔術的技能を学術的に会得しうるのは、高い教育水準の証拠です。首から鉄筆を下げる習慣は見た事がありませんが、ゴーレム技術者かその他の系統の魔術師が魔法陣を描くためと考えれば納得です。アルヴェアー・アルヴィンソンという名前もそうです。人族で父称姓を名乗っているのは旧家の生まれか、歴史的に魔族の影響を全く受けなかったごく限られた地域の一族か、偽名かぐらいしか思い浮かびません。総合的に見てあなたは貴族出身。若い技術将校、あるいはそれに近い身分かと思っていました。兵法を学んでいそうな身分とは言えませんが、誰かの上に立つくらいなら十分こなせるでしょう。

 次にそちらの、ええと、ベレンガリア・ブ、ブル……失礼、覚えにくくて……とにかく、ベレンガリアさん。どうか謝らせていただきたいのですが、私はあなたの大きな盾を見て真っ先に隊長格ではないと思っていました。明らかに前線に立つための装備をしているからです。兵法の基本として、戦略的判断を下す者は陣形の後方に控えているものです。それにあなたの服装は明らかに凝っている。細身の白い上着と白いズボンに爪先の尖った靴。私の把握している神官の装束ではありません。あなたはきっと〈カリン・ラフーリ〉という奴でしょう。資料によれば、対魔族戦線で華々しく戦果を上げた女性騎士達の武勲詩いさおしとその軍装に影響を受けて生まれた、男性的魅力を磨き、あるいは女性的魅力と併せ持って、同性にとっての理想の恋愛対象として振る舞う事に耽溺する男装家に近い女性達、だそうですが――指揮官を務めるための軍師の訓練を受けるような者は、あんまりそういう伊達者気取りに色を漁り続けられるだけの時間的余裕はは得にくいと、少なくとも我が国での感覚ではそう感じるものでして。ですので小隊の隊長ではなさそうだと早とちりしたものなのです。

 そして最後にキーヴィエさんですが、あなたの服装はお二方とは正反対です。ボディスやその下に着たチュニック、長ズボンに長靴、頭に被っているのは騎馬きば原帽ぱらぼうという人族独特の物でしたか、それに手袋。あなたの身に着けている物はどれもこれも、一つ一つ見れば平野部の人族農業従事者が身に着けているような、格式上平易な衣類ばかりです。しかしその色合いや色の合わせ方といったらどうです! 黄色と茶色を中心に色味を統一し、素材同士の風合いの相性も加味され、柄物を必要以上に使わない事も承知していて、全身の服飾のシルエット同士の組み合わせに至るまで十分に検討されています! しかもここまで練られたコーディネートにもかかわらず凝りすぎた印象を与えずにさり気無いとは! 明らかに一平民の美的感覚ではありません。それに、依頼主のヴィルヘルム・フォン・クラム閣下の部屋へ通された時、キーヴィエさんがフォン伯爵の机の上に置かれた書類をこっそり興味深そうに読んでいたのを、このミーナは見逃していませんよ。あなたは高い水準での読み書きが出来るのです。私はあなたが、これだけの美意識を培えるだけの、高い教育を受けられる身分か環境で育ったものと確信しています。姓を明かさずに名前だけを名乗ったのも、家名がばれてはまずい事情があるから。あなたは高貴な方であるのに違いありません! そのような方がどうして兵法に全く触れた事が無いと言えるでしょうか? あなたは慎ましくも下々を従える役目を隊の同胞へ譲ったのでしょう?」

 ミーナは跪いて鉄格子越しにキーヴィエの手を取った。当然、キーヴィエはどうしたら良いか分からず戸惑っている。

 私はミーナの長弁舌を聞いて少々舌を巻いた。彼女の見立ては、私とベレンガリアについてはほぼ完璧に見抜いていたからだ。確かに私はヒュスレーム子爵の娘だし、ベレンガリアは好色家の伊達者だ。しかし彼女の言葉の選び方から察するにゴラクリは軍事国家らしく、「リーダーシップは将校の技能であり、基本的には訓練によって会得するもの」という固定観念があるようで、それが彼女の推理を誤らせているらしかった。

 キーヴィエについては大外れも良いところだ。彼女はただの百姓、それも実家を村はずれに追いやられた貧農だ。ただし幼い頃から生計の足しにするための外国製の雑貨や稀覯本きこうぼんの仕入れに携わっていたり、村長の屋敷に奉公していたりしたおかげで字が読めるというだけにすぎない。ファッションセンスについては彼女の天性のものだ。しかしそれで「高貴な方」と心酔するように呼ばれた事については、キーヴィエもまんざらではないのだろう。不俱戴天の仇たる魔族の言葉である事を除いては。

 私が事実を伝えるとミーナは、

「そうなのですか? ではしばらくは文化の違いを観察する事に集中した方が良さそうですねえ」

 と口をすぼめて驚いて見せた後、ひざまずいてキーヴィエの手を取っていた両手を離して立ち上がり、くるりと踵を返して少し浮ついた足取りで折の中へ戻っていき、牢内の粗末な椅子に深々と腰を下ろしつつ楽し気に嘆息した。

 ――バタン、バタン!

 突如天井の上から、何か慌ただしい足音が聞こえ始めた。上の階で屋敷の誰かが足を踏み鳴らして走っている。

 ただ事ではなさそうだ。まず耳聡いキーヴィエが真っ先に察知し、斥候の表情に戻った顔を上げて周囲を警戒し、次にベレンガリアが立ち上がって盾を構えて身構えた。

「一人の足音みたいです」

「何の騒ぎだ? 上の様子を見にいくぞ」

 私達はリーダーの判断ですぐに、ミーナを牢屋に入れたまま地下牢を後にした。階段を駆け上がり、鉄扉を押し開けると、廊下で執事のギャレット氏が青い顔で右往左往している。

「た、た、大変です! 大変です……誰か! 誰か!」

「どうしたんですか!?」

「一体何が? どうして? どうして――」

「落ち着いて下さい!」

 ベレンガリアが一喝してようやく彼は落ち着きを取り戻し始めた。彼の取り乱しようは一目見て異常事態が起きたと分かるものだった。

「一体何があったんですか?」

 私達が尋ねると、彼は、震える声と足で廊下を歩き出した。

「こちらです、冒険者さん。こ、こちら、こちらへ……」

 彼は階段のそばまで行ったあたりで立ち止まった。屋敷の一階と二階の間を繋ぐ階段は複数あるが、彼が私達を案内したのは最も奥にある階段だ。彼は階段の上を指差しながら、今にも失神しそうな顔で見降ろしている。

「何があったんですか?」

「彼女が、そこで、た、倒れてるんですよ……」

 私達は階段を駆け上がると、果たして彼の言う通り、エプロン姿の中年の女が階段の横で仰向けに横たわり、血走った眼を見開いた形相のまま、側頭部から血を流して動かなくなっていた。

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