第一章『ボスク山 ~ミーナ・セルニャンキサ登場~』
◆登場人物一覧
ミーナ・セルニャンキサ――魔族のスパイ
アルヴェアー・アルヴィンソン――冒険者の魔術師
キーヴィエ――冒険者の斥候
ベレンガリア・ブリュッケミュンステル――冒険者の神官戦士
ヴィルヘルム・フォン・クラム――隠居間際のボスクーミェ辺境伯
ギャレット・デブナム――辺境伯の使用人の執事
エデラ・バリモア――辺境伯の使用人のメイド
フーゴー・ブーン――辺境伯の使用人の料理人
アーサー・モーストン――辺境伯領の憲兵隊の大尉
ドレッバ――放浪生活の野良魔族
スタンガ――放浪生活の野良魔族
ロン・クレイ――有名な詐欺師、犯罪組織の中心人物
エッブ・スラーニェ――隣国のマフィアの構成員
トレンフロ・スワスヴォラトゥーイキ――水軍国防哨戒警備隊の指揮官の大佐
「やはり何者かが山で動いてる形跡が見られるな」
私達は山道を登りながら、森のいたる所に目を光らせているうちにそう確信していた。
「そうですね~。見えている範囲だけでは、野外活動の訓練を受けていない何者かが少人数で活動してる痕跡が見られます」
「依頼主から共有された情報は正直怪しいと思っていたが、山賊自体はいるらしい」
「間接的な話と推測ばっかりでしたもんね~、目撃証言。山の中に誰かがいるとか、誰かが山道で倒れてたとか。しかもちょっとあやふやでしたし」
「まあ、この手の依頼は裏の取りようがありません。依頼主の身分に騙りが無い事ぐらいでしょうか」
私も一党の仲間達と同じように口を引き結んだりすぼめたりした。
「まあ、辺境伯家の僭称なんかあっちゃたまらんからな」
「ですがもしも山賊だとしたら、拠点があるはずでしょう? 山小屋のような。それか野営をしなくてはいけないはずです」
「じゃ、この辺りで一旦確認しておきましょっかあ、山賊がいそうな場所。休憩がてら」
一党で斥候役を務める野伏のキーヴィエが地図を広げ直したので、私達は森の中で一旦調査の足を止めることにした。今朝依頼主からもらった地図だ。それと一緒に彼女は私達冒険者には欠かせない道具類の一つであるコンパスを背負い袋から取り出し、それを片手に山賊が巣食っていそうな場所に手早くあたりを付けた。依頼側曰く、捉えどころが無いが、いるとすればもっと奥、それこそ小川の向こう側である可能性も高いという。
「すぐ終わる仕事だと思ったんですけどね」
私は仲間二人の前でため息をつきながら、森の上で空を覆う暗い色の枝葉の天井を見上げた。冒険は何が出てくるか分からないものだが、調査依頼だけは違う。どうしてなかなか出て来ないのか分からないという事もあれば、空振りなのか見逃しがあるのかが分からないという事もある。ある意味で冒険者らしい仕事ではあった。
空気は澄んでいるが、日は遮られて薄暗い。それでいて陰気には思えないのが昼の山林の神秘だと私は思った。
その時、私たちの後ろで重戦士のベレンガリアが、何か取っ組み合いをするような声を上げた。私が振り返ろうとしたその前に彼女は、
「ちょっと手伝ってくれ」
麻縄を手に私を呼んだ。彼女は魔族二人の後ろ髪を引っ張ってこちらへ連れ戻すところだった。つい先ほど私達が叩きのめしてやった連中だ。
「どうしました?」私は言った。
「縄を切って逃げようとした。アヴィ、そっちの奴の手首をしっかり持っててくれ」
ベレンガリアは魔族の鉤爪だらけの短い腕を片手で吊るし上げながら、もう片方の手で私へ手招きした。
緑色の肌をした、二本足で歩くずんぐりむっくりのハツカネズミような姿をした種族のボガードは魔族共の一種で、生来の略奪者である。山の中に洞窟や廃屋を見つけると、そこに定住する事が多い。しかし目の前の二人組は尋問した所によるとそうではなく、今日偶然足を踏み入れただけらしかった。例の山賊とやらはこいつらではないらしい。
それでも彼らは我々人族妖精を見つけた途端に襲い掛かってきた。これは魔族妖精の性と本能で我々を取って食わんとしただけだろう。しかし、相手が経験をそれなりに積んだ冒険者の一党三人組だったのが彼らの不運であった。キーヴィエは投げナイフの練達で、今日は持ってきていないが弩なんかにも造詣が深い。私も魔術師ギルドに身を置く魔法職だ。私達の中で最も荒事に強いベレンガリアに至っては、常に大楯を構えているので、ボガードが錆びだらけの小さな斧や短剣でどうこうできる道理も無い。
縛り直している間、ボガード達はすっかり傷だらけになっている顔を憎悪で歪めてずっと我々に対して呪詛を口汚く吐き続けていた。そのざまを私も冷ややかに眺めていた。こうしてまじまじと見ると、彼ら魔族には我々人族と似たところがあって、ぞっとするものがあった。
魔族共が固く結ばれた麻縄と猿ぐつわの前に観念してうなだれるのを確認した後、キーヴィエが言った。
「こいつら、どうしますう?」
私は少し考えた。我々は今、おそらくは同じ人族であろう山賊を討伐するためにこの山を訪れたのだ。たとえ無関係であろうと、魔族共をみすみす離してやる気も当然無い。だがこの場で殺して血を流させ死体を作れば、仮に目標である山賊に見つかった時に彼らを警戒させてしまうだろう。さりとて放置すれば、また騒ぎを起こすに違いない。そこで私は一つ意見を出した。
「まだそこまで山を登ってはいないはずだから、一旦こいつらを下へ連れて行って置いてきてはどうでしょう。麓には大尉が待機しているはずです」山賊の調査に当たり、憲兵の森林警備隊が来たるべき時に備えて山道の入り口辺りで控えてくれているはずだった。「差し当たり、彼らにちょっと身柄を預けましょう。殺すかさらに尋問するかは大尉が決めるでしょう」
彼らは曲がりなりにもこの村や山のそばにいたのだ。憲兵隊の方で何か他に抱えている事案で尋問したい事があるかもしれない。私は多忙な大尉の疲れた顔を思い出していた。
「それも悪くないな。じゃあさっさと行ってくるから、気を付けてくれよ」
ベレンガリアは手を振り、ぐるぐる巻きのボガード共を引きずって山道を降りて行った。普段は王都が誇る四霊大神殿に身を置く神職――生臭神官とはいえ、実績の豊富な、頼りがいのある聖戦士だ――である彼女が連れて行くなら、間違いは無いだろう。
私達三人は、エシッド王国の王都・エシッディアから来た冒険者だ。私達の所属する店舗〈冒険者の宿・赤き戦斧亭〉に舞い込んできた依頼を受けて、私達が派遣されてきた。
キーヴィエはウンディーネ族の斥候で、野伏としても優れている。いつも朗らかな私達のムードメーカーで、ふわふわとしたゆるんだ陽気さをよほどのことが無い限り絶やさない。着る物が実用品一辺倒なのが当たり前な冒険者稼業にあってコーディネートに気を遣うおしゃれな面もあり、選ぶ服飾品や色味使いの統一感は中々センスが良い。特に黄色のボディスを好んで着ている。荒事の方は投げナイフ以外は門外漢だが、それもまた役割分担である。
ベレンガリアはシルフ族の、大きな盾をもつ戦士の女性だ。普段は王都の四霊大神殿に勤める神官でもある。私達三人の正義感溢れるリーダーで、その身分と中世的な凛々しい外見も手伝ってよく頼られる。冒険者らしい酒と色をたっぷりとたしなむ趣味嗜好を持つ生臭神官だが、それを差し引いても、あるいは含めて、頼りがいがある。
そして二人の後ろでずっと後方支援を務めているのがこの私である。アルヴェアーというのが本当の名前だが、周りにはアヴィと呼ばれている。知識面で色々な補佐をしたり、言語的な壁を翻訳・通訳で解消したりといった頭脳的な技能を駆使するのが役目だ。有事の際には魔術的な火力で援護もし、そのために魔術師ギルドの魔法職らしくローブを着用している。そしてこの手の調査依頼では私は、最も重要な作業である情報の記録の担当だった。
残された私とキーヴィエだけで、少しだけ先へ進んで周辺を調べてみる事にした。ほんの少しだけ先へ進んだだけで、古い山道の跡は見る見るうちに薄れていく。それと同時に登り坂だったのがいつの間にか下りへと変わっていた。それだけボスク山は低い小山だという事である。
いつしか私達は山間部の谷間にたどり着いていた。谷は深く、その下をなかなかの広さと深さのありそうな川が流れている。
「きっとここが峠のボスクーム谷です。もう山の端まで来ちゃったみたいですよ」
「ではこれがイアルハラン川ですか?」
私は我々の眼科を横切るように割るV字谷の下を覗き込んだ。谷底には中腹を流れる渓流としてはなかなかの幅と深さのありそうな川の流れが見える。
「でしょうね。この川を超えてしまうと、魔族の住む領域に足を踏み入れてしまいます。ほら」
彼女が指し示した川の向こうの山肌を見上げると、ところどころが打ち捨てられたように古びて苔むした石垣に覆われていた。魔族側の防塁だ。
ここはまさに人族の領土と魔族の領域を隔てる境界であった。この向こうが山岳地帯・ザモクラツケ高地。幸いここ五百年の間この地に魔族が下りてきたという報告は無いという。一方、ザモクラツケ高地へあえて登ろうという人族ももちろんいない。
ボスク山はこのザモクラツケ高地の端に接していた。ザモクラツケ高地の山裾のふくらみの小さな一部の名前がボスク山だと言い換えてもいい。その境目がボスクーム谷であり、そこを流れるイアルハラン川であり、事実上の人族・魔族の領域の境界線だった。私はどうもこの辺りの地形と地名が頭に入りにくかったので、調査を始める前にもらっていたのが、先ほどキーヴィエの開いた地図だった。
「これから先も魔族が川を渡って降りてこなければ良いですね」私はつぶやいた。「ここは谷のどのあたりでしょう?」
「目印があるはずです。放棄された砦の跡が。ちょっと探してみましょう」
果たしてそれはすぐに見つかった。森閑とした山中に似つかわしくない重々しいレンガ造りの廃墟がイアルハラン川の川べりに建っていた。といってもすでに黒土で真っ黒に薄汚れた上でところどころ苔むしていて、ほとんど死んだようだった。事前に聞いておいた話によれば、ここの名前はムールヒアル線といい、百十年以上前の小さな砦である。
しかし砦といっても森の中である。おまけに敵はしばらく牙を剥くどころか姿かたちを見せたためしも無いとなれば、リンゴの木よりも低い大げさな山小屋の隣、申し訳程度の物見やぐらを並べて森の中に押し込めるだけで事足りたらしかった。そもそも砦なのに石造りでなくレンガ造りで建てられたあたりに、この防衛設備の規模と求められた重要度が現れていた。
我々が見たところムールヒアル線跡は、砦と呼ぶより詰所付きの陣地、柵塁という言葉の方が似合う風情だった。しかしその周りから背丈ほどの防壁が川岸に沿って伸びていて、これがかろうじてこの廃墟を砦たらしめていた。ただしそのいずれもほとんどが時間の持つ力に押し負けて風化して崩れてしまったようで、現在私達の目の前に残っていたのは、川岸に散らばるかつて防壁だった砕けたレンガの畝を除けば、天井が落ちて壁だけになった天守閣くらいのものだった。
「本当に長い事使われていないみたいですねっ。ぼろぼろです。ひど~い」キーヴィエが少し茶化すように身をくねらせた。
「ですね。天守閣にいたってはもう屋根も無い」
私がそう答えると、キーヴィエは身振り手振りだけで中を調べてくると私に伝えた。直後、彼女の肉体は液状化し、水の塊となった。ウンディーネという種族が持つ特技である。彼女は水たまりの姿のまま繊細な慎重さと敏捷ぶりでムールヒアル線跡の廃墟へ近づいていき、こっそり中を覗き込んだ。しかしすぐに警戒と液状化をその場で解きながら戻って来た。
「野営の後はありませんでしたあ。やっぱり風雨を凌げない場所じゃ拠点にならないってことですかね? でも――」
「隠れ家にするにはうってつけでしょうに」
「ですです! 山賊とやら、一体どこに身を隠してるんでしょう?」
私達は二人して首をひねった。
目端の利くキーヴィエが、砦跡の奥に何かを見つけた。
「あんなところに橋がかかってます! あれじゃあ砦の意味が無いですよ」
それは細い綱を結んで小さな木の板を渡しただけの、見るからに心許ない素人拵えの吊り橋であった。それも綱や支柱につる草が絡みついて枯れたままになっており、どこもかしこも江風で巻き上げられて乾いた土ぼこりが付着して黒ずんでいて、放置されて渡る者のいなくなって久しい事をありありと語っていた。
「村の誰かが勝手に掛けていたようですね、砦が忘れ去られた後」
「現在ではそれすらも使われなくなっちゃったみたいですけど。今にも橋の地面が落ちそうですよ」橋の床版、と言いたいのだろう。「もう誰も通らなさそうな――」
と言いかけたキーヴィエが急に固まった。
「どうしました?」
「あそこ、誰かいません?」
キーヴィエが指さす方を私も見やってみると、確かにぼろぼろの吊り橋の上を、誰かが歩いている。橋を渡ってくる奴がいるではないか?
私とキーヴィエは顔を見合わせ、その陰が近づいて来るのをいぶかりながら見ていた。
のっぽな女だった。詰襟の異国の略礼装風の装束に身を包んでいる。詰襟は防寒・防風・防水の生地で出来ていてつやつやしていて、こののどかな天気には不必要に見える。詰襟の首周りだけボタンを外しており、そこから緑色のスカーフを首に巻いているのが覗いている。
立ち居振る舞いは落ち着いていて、一定以上の水準の教育を受けている事を物語っていた。しかし旅用の杖と大きな背負い袋から見て、明らかに旅の途中という風だ。それなりに高い身分であろうにもかかわらず共連れのいない一人旅というのはどういう事なのか? 私はその答えを詰襟の女が腰からつるしている物に求めた。槍を彼女は佩いていた。黒色に塗装された槍は葉巻形の細長いスパイク型穂先を合わせても片手剣ほどの長さしかなくて奇妙に短い。寸詰まりで格好はつくまいが、取り回しは優れるだろう。同業者だろうか? それともご当地の森林警備兵はこのような装備なのか? いずれにしてもどこかがあべこべに感じられた。
キーヴィエも私と同じように、あの女を奇妙に思っていたようだった。しかし私達が不思議がるのも気づかず、あるいはもしかしたら気に留めずに、詰襟の女は吊り橋をこちらへ渡って来る。
詰襟の女は川の向こう岸から、我々のいるこちら側へと足を踏み入れた。
「いやあ、ここは素敵そうなところですねえ」
歩き方も折り目正しかったが、呟くその話口調も丁寧だった。気分は物見遊山の気楽な一人旅という様子らしい。現地住民ではなさそうだ。ただの野山を見て、大袈裟に感慨深げな声を出している。
「この山道を降りれば、もうエシッド王国の版図。ここから木々の狭間を覗くわずかな田園風景の一端ですら、文化が素朴に息づいているのが感じられますねえ」
「はあ……」言い回しが文学的だ。文化的素養を感じさせる。
「それどころかこの山道さえ、歩いていて非常に心地が良い。取り囲む緑は清らかかつ鮮やかです。ああ、自然よ! 父よ! 私を独り立ちにさせた広大な父よ、どうか私から目を離さずに守る事をせよ! 常に父の気魄を私に充たせよ! この道程は――」
「あの……旅の方ですか?」
「これは失礼、ええ、そうなのですよ。ちょっとこの辺りを見て回ろうかと思っておりまして」
「ボスクーミェを観光ですか」ここは農村だ。そもそもこの村に限らずボスクーミェ領全体がまずあまり観光に有名ではない。
「いえ、何と申しましょうか……商用とでも申しましょうか、この国で商売でも出来れば、と思っておりましてねえ」
詰襟の女は慇懃にそう答えた。その態度は確かに商業的取引が良く似合いそうだ。しかしそれ以上に女の立ち居振る舞いは執事のような上級使用人のそれのように見える。一方、規律に対する誠実さのようなものも感じさせ、それは騎士団のような軍人に似たものだ。
彼女は外国生まれらしい。確かに言葉に訛りがあった。しかしあまり聞き慣れない類のもので、私は言葉の言い様から彼女の出身地が察せないのが不思議だった。「商売ですか」
「ええ。この山道を降りれば、あの大沃野・マヴォルリ平野へと出るのでしょう? 一面に広がる麦畑に牧場、ああ、早くこの目にしたいものです。私は――まあ、良い事をしようというのですから、大丈夫でしょう―――マヴォルリ平野で獲れる豊富な作物をどうにかして我が国に送れないかと考えているのです。その輸入ルートを構築・確立するのが、私に課せられた使命なのです」
「立派なお志です」
「いやあ、どうも。いえね、現在我が国は色々社会問題に悩んでおりまして。難民が押し寄せるおかげで一般市民の食べるものが足りない。しかもそいつらは我が国のルールを知りませんから悪さばっかりする。人族は人族の土地に住むべきです。我が国は難民を彼らの居るべき場所へ送らなければなりません」
「大変ですね……ところで、お国はどちらなのでしょうか。戦争している国のお側にあるようですが」
「ええ、私は――コレ、しゃべって良いのでしょうか。まあ、もう今さらですかねえ――ゴラクリというところですよ」
聞き出したこの国名も初めて耳にする名前だった。ゴラクリ。依頼のためにそれなりに周辺諸国まで遠出の旅をする事もある我々だったが、その我々に聞き覚えが無いのだ。この女がさらに不思議に見えてくる。
「へえ、どんなところなのでしょう」
「何、この上ですよ」
詰襟の女は親指で背後を指した。肩越しに川の向こう、古びた防塁の残る山肌が見える。
――この上? 山の? このイアルハラン川を渡って、ボスク山の岸壁を乗り越えた先の?
私は彼女の言葉を受け取りかねた。指は我々の上ってきたボスク山を指してはいない。という事は、それはつまり、ザモクラツケ高地から下りてきた、としか考えられない。
――それは、魔族領では?
という疑いが、私の中でにわかにむくむくともたげてくる。
逃げ出してきた奴隷(という名の家畜)だったのだろうか。それにしては身なりが良い。彼らの社会制度の中で立身出世を成して自らの力で自由を買い取ったのか? しかし、人族を虐げる事に霊的使命を見出す魔族社会の序列意識と独善的思想が、そのような立場や権利を許すとも思えない。
という事は、この、目の前にいる女は――
いよいよ怪しくなってくる。
しかし、直接質問して馬鹿正直に答えてくれるわけも無かった。せめて種族の特定につながる特徴を聞き出せれば。
「あの、えーと……そう、下山でずっと歩き続けてさぞお疲れでしょう。案内しますよ。ボスクーミェは目と鼻の先です。羽を伸ばして気を楽にして下さい」
「これはご丁寧に……」
「ああ、もしかして羽の無い種族の方でしたか?」
「お気遣いどうも。でも実は我々トロール族にも、羽のある血族というのがありましてねえ」
トロール!
魔族ではないか!
私は思わず目を剝きそうになった。この女はこちらが拍子抜けするほどあっさりと自らの種族を明らかにした。それも、そうそう目にする事の無い強力で危険な魔物だ。
一瞬の静寂の間に、張り詰めたものが混ざりそうになる。不意を打たれた驚愕と警戒心が顔に出ないよう、私とキーヴィエはかろうじて無反応を装った。
当の詰襟女はそれに気づかず、呑気に世間話を続けている。
「珍しいでしょう。そういえば、人族領では羽はしまって見えないようにしておくのが礼儀ですとか? 我々はその辺り、頓着しませんもので」
差し当たり私は話を合わせた。「礼儀と言いますか、往来を歩く時に幅を取りますから」それから、何でもない風を装って、「羽のあるトロールとは聞いた事がありません。初めて目にしました。その羽をちょっとこの場で見られませんか? 後ろを向いてもらっても――」
「ああ、別に構いませんよ」
彼女は特にこれと言って警戒する様子を見せずに私達に背を向けた。
無論、私は彼女の羽の形に興味があるわけではない。
私の意図をくみ取ったキーヴィエが、音も無く背負い袋から麻縄を取り出し、その一本を私に静かに私に持たせた。気づかれた様子は無い。彼女の両手首を取って後ろ手に回し、麻縄を巻き付けた。
「あれっ……どうして手を縛るのですか? あのっ、どうして足まで縄を……あっ、あっ、体まで……これではぐるぐる巻きでは……」
すかさずすばしっこいキーヴィエが彼女の胴体を縛り、私もすぐに足首を縛った。
詰襟女は狼狽するばかりで、案外やすやすと拘束できてしまった。
そこへ、山道を再び上って来るのが見えた。ベレンガリアが木っ端魔族二人を憲兵隊の大尉に預けて戻って来たのだ。もちろん、私達の目の前で何が起きていたかなど知る由もない。彼女は手を振った。
「おおい、おおい……調査の方はどうだ?」
「あっ、ベレンガリアさん……」
「おおっ、そいつは? もう山賊の一人でも捕まえたのか?」
「ちょっとそれどころじゃなくなってしまいました。一旦下山しましょう」
「何だ? 何があった」
「三人目です……とんでもない魔族を捕まえました。トロールですよ! トロール……」
「な、何……」
私は詰襟女を縛った紐を引っ張ってみせた。彼女は今にも大盾を落としそうなほど驚いて目を見開いた。