出会い 2日目
2日目
午前5時ごろ、トイレの水を流す音で目が覚める。
犬を看病しているうちに、どうやら床で寝てしまっていたようだ。
体がきしんで痛い。
……一応自己確認しておく。
この部屋にいるのは私と昨日拾ってきた大型犬だけだ。
まさかと思ったが、そのまさかだった。
毛布の上に犬の姿はなかった。
昨日の犬は、歩けるようになったのだ。
凄まじいほどの回復力である。
だが本当に驚くのはそこではない。
あの犬は俄かには信じられないが、人間用のトイレを使って、たった今用を足していたようなのだ。
犬はどうやら前足でドアを開けてトイレから出てきた模様である。
その姿を見て唖然としたのだが、寝起きだということもあって、どう驚いていいのかわからない。
犬は私にはお構いなく、何事もなかったかのように毛布の上で丸くなった。
半信半疑で自分もトイレへ行く。
床や便座などは、犬の体の汚れが多少付いていたのでお世辞にも綺麗とはいえなかったが、少なくともトイレ自体は正しく使用できているようだった。
私はトイレットペーパーで自分が使うスペースを拭いて綺麗にしてから用を足した。
「しかしどうやったんだろう……」
まあ(体勢はさておき)、考えられるとすれば、以前はどこぞのお金持ちに飼われていたが、昨今の不況の煽りを受けて理不尽にも捨てられた犬だとか、優秀だが脱走癖のある犬(?)、といったところであろうか。
トイレから出た私は、そのような理論で半ば強引に自分を納得させてから、犬と自分の朝食作りに取り掛かった。
朝食は雑炊(みじん切りにしたにんじん、豚肉、グリンピース、ご飯)。
材料を入れて煮立たせた上で、先に味なしの状態のものを取り分けておく。
これが犬用で、犬にはこれをある程度冷ましたものを与える。
自分用の味付けはだしの素と塩胡椒少々。
この献立は、実は病気や年取った犬をメインに考えられたものである。
だが、この方が時間も手間もかからないし、何よりヘルシーだ。
それに、病み上がりかもしれない犬の健康を優先させることは、私にとって至極当然のことと思われた。
犬は昨日とは打って変わって旺盛な食欲を見せる。
これで病気ではないかという心配は消えた。
体を激しく掻く様子も見られないので、ノミや皮膚病などの心配も今のところはなさそうだ。
食後にはちゃんとトイレへ用を足しに行った。
器用な犬だ。
少なくとも、これでトイレシートを新たに購入したり、他の住人に見つかるリスクを侵してまで、用足しのための散歩に出ることは避けられた。
犬、偉いぞ。
……だが、トイレはあとでしっかり掃除しておこう。
大家さん、なるべく綺麗にしますから、取れなかった汚れはどうか見逃してください。
次に犬をお風呂に入れることにした。
この姿のままでこれ以上うろつかれては、遠からず部屋中真っ黒になるのは必至だ。
被害を最小限に止めるべく、私が「おいで」というと、犬は素直についてきた。
狭い風呂場の床にお座りさせる。
犬、やっぱりでかい。
まずは温かいシャワーで一通りの汚れを洗い流す。
案の定、床一面真っ黒になった。
服は昨日汚したものをそのまま着ていたので、いくら汚れてもどうとでもないが、さすがに昨日自らこのぼろ雑巾のような塊を抱えて家まで運んできたのだということに驚愕する。
勢いって恐ろしい。
だが、この生き物を見捨てることを私の信念が許さなかったのだ。
私は小さいころに、飼っていたメイという名の柴犬を自宅で看取ったこともあってか、弱った生き物を見るとどうしても放っておけないような性格に育っていた。
ああ、思えば学生時代、自分の信念を貫くために、暴行されて弱っているいじめられっこを庇っていじめていた男子グループとガチでケンカしたこともあったわね……。
中2のときだったから、まだ私と彼らとの体格もさほど変わらなかったこともあってか、私はその男子グループに(奇跡的に)圧勝してしまったのである。
以来、助けた人からは救世主のように崇拝されてしまうわ、ほかの一般生徒(ごく一部の友人を除く)からは少し遠巻きに接されるわ、良くないグループの方々からは(アイツを怒らせると確実に血を見るぞ的な)変な意味で一目置かれるようになってしまうわという痛い思い出がある。
さすがに今はそうでもなくなったきたのだが、今回の件で「世話焼きの自分」というものを再確認したようにも思う。
変なところで不器用な私は、そのことでよく同姓の友人たちから「見た目と中身のギャップが激しい・良い意味で詐欺だ(どういう意味だ、詐欺って何だ)・こんなに男気溢れる人は見たことない(そんなに凛々しいのか)・私兄貴に一生ついていきます(決して姐御ではないらしい)・外見は安めぐみ等の癒し系、なのに中身はすでに人生を達観した枯れた中年男性、たまに変態エロ親父(貴様、うら若くはないけど一応乙女心は辛うじて持っている人間をつかまえてこれはなんという言い草か)・年齢性別詐称、整形疑惑あり(てかこれ言った奴ら全員ちょっとこっち来い)」などと揶揄されている。
……。
最初は私の信念についての回想だったはずなのだが。
それにしても私の友人たちは何か全体的にちょっと酷くないか。
いや、むしろこれは(特に後半)明らかにちょっとどころの騒ぎではないのではないか……。
……気を取り直し、作業に戻ることにする。
犬は床にじっと座って目を閉じている。
そういえば、まだ犬の目を正面からちゃんと見ていないことに気付く。
たしか、水色であったことはおぼろげに記憶しているのだが。
全身の汚れが水と馴染んできたころ、私は浴槽の縁に腰を掛けて、いくつかあるオーガニック石鹸の中からユーカリを選んで犬を洗い始めた。
私はどちらかというと敏感肌なので、石鹸はオーガニック系のものを選んで使用している。
ちなみに、犬の皮膚は人間の5分の1の薄さであるため、人間用洗剤をそのまま使用すると、肌に負担をかけてしまうのだそうだ。
そのため、この石鹸は私と犬、両方にとって使いやすいものなのである。
さらにユーカリの成分には抗菌効果、脱臭効果、虫除け、ノミ取り効果まである。
犬、私が微妙に敏感肌で良かったな。
洗っては流してを何度か繰り返す。
最初は真っ黒だった泡も、回を重ねるごとにだんだんとグレーになり、ようやく今真っ白になっている。
犬は私に洗われている間、とても大人しかった。
時折気持ち良さそうにキュンキュンと小さな声で鳴く。
ちょっぴり調子に乗った私は、一旦犬の体から今の泡を洗い流すと、今度はラベンダーの石鹸を手に取り、それをふわふわに泡立ててから丁寧に洗い始めた。
(ちなみにラベンダーには洗浄効果、リラックス効果、痛み、痒みの消炎効果、傷、虫さされの治療効果がある。)
私はまるで、この犬が自分の大切なものであるかのように、犬の全身を丹念にマッサージしていったのである。
「そういえば小さいころ、メイにもこうやってお風呂でよくマッサージしてあげてたよなあ。最期も『死なないで、死なないで』って思いながら、一生懸命マッサージしてたんだよなあ」
はっと気が付くと、犬はとろんとした目をして、私の肩にくたっと頭を預けている状態だった。
風呂場にはラベンダーの香りが充満している。
私は慌てて犬の体から泡を綺麗に洗い流し、丁寧に濯いだ。
これで作業終了。
……しかし、ちょっとだけやり過ぎてしまった感は否めない。
私は一度何かに没頭すると、そのことに対し職人のように真剣に取り組む傾向がある。
今回もいつの間にか真剣に犬を洗ってしまっていた。
というか、あの体勢はまるで私がいたいけな家出少女に手を出した最低変態エロ親父のようではないか。
いや、正確には家出少年もとい家出雄犬なのだが。
……。
……これ以上のこの件に関して言及すると、何か自分にとってとても大切なものを永遠に失ってしまいそうな気がするのでこれぐらいにしておく。
バスタオルでよく体を拭いた犬を先に浴室から出し、自分もTシャツとハーフパンツに着替えてから浴室の外へ出た。
気合を入れて犬の体を洗ったせいか、犬は見違えるほど綺麗になった。
灰色だと思っていた毛並みは艶々と輝く銀色で、ドライヤーで乾かすと、手触りのとても良いふさふさの毛並みになった。
犬の瞳はさながらブルートパーズのように澄んだ水色で、きらきらと輝いている。
このときになって、ようやく私はこの犬がハスキーやシェパードなどではないということに思い至った。
「まさか、狼? あり得ないと言いたいけれど、この毛色とこの体格を持つ犬種はそうそう思い当たらないし……とにかく、何にせよ、この犬は間違いなく狼もしくはそれに準ずるイヌ科の動物の血を引いているわよね。もしも狼だとしたらシンリンオオカミ、もしくはその仲間かしら? あ、狼といえばたしかハイイロオオカミが2008年にアメリカで絶滅危惧種に再指定されたんだったわよね……っていや待て自分、そもそもこんな危ない生き物が日本の東京都郊外に放置されているのが何かの間違いなのだということに気付けよ。日本はいつから動物ワンダーランドに? 動物の輸入規制は……」
私はぶつぶつと一人呟いていた。
ここに来て、自分の浅慮が悔やまれる。
自分の取るに足らない信念で、こんな得体の知れない危険動物を家に上げ、寝床と飯の世話までした挙句、あまつさえたった今まで狭い風呂場でのんきに密着しながらわしゃわしゃと体なんぞを洗ってあげてしまっていたのである。
恐る恐る犬を見ると、残念ながら(?)もうすっかり気力・体力ともに回復したようである。
犬はちょこんと床にお座りをして、尻尾をパタパタと振りながら、きらきらとした目でこちらを見つめている。
大きな体躯にも関わらず、その愛らしい姿からは凶暴さのひとかけらも窺い知ることはできない。
だが、この犬(?)が本当は脱走癖のある犬などではなく、「闇の違法ルートで密輸入されたのち、どこぞの豪邸から脱走してきた野生返りの狼」なのだとしたら、自分はいつ咬み殺されてもおかしくはない状況なのである。
「うう、私は普段から慎ましく生活する一般人なんだから。……嫌だ、もしも夕方6時のニュースで『速報です。今日午後5時、東京都郊外で28歳の女性会社員が大型肉食獣によって咬殺されているのをマンションの管理人が発見しました。なお遺体は死後1週間が経過しており、遺体の損傷も激しく……』なんてことになったら……」
自分の想像に思わず頭を抱えてひとしきり苦悩すると、私はもう一度ゆっくりと顔を上げ、犬(取り合えず、この生き物が何であれ、便宜上、犬だと思うことにした)を見た。
犬は相変わらずきらきらとした目でこちらを見つめている。
この狭い6畳の空間で、私と犬はしばらくの間じっと見つめあった。
(……しかしこの犬、本当に綺麗な目をしているわね)
この犬は本当は危険な肉食獣なのかもしれない。
でも、人に慣れているし、大人しいし、お利口だし、1人でトイレにも行けるし、大丈夫だよね、きっと。
そう結論付けた私は、「あとは野となれ山となれ」という不穏な言葉を思い出しながら、腹を括ることにした。
「たとえ私がこの犬に殺されたとしても、それは自業自得。人生、一瞬一瞬を大切に生きることが肝心よね」
私は肩の力を抜くと、犬の前にしゃがみこんで目線を合わせた。
「よし、君の面倒は私が責任を持って見ます。だから、飼い主が見つかるまで、よろしくね」
そういうと私は犬に笑顔を向けた。
犬は一瞬目を丸くしたようだった。
その反応は犬というよりまるで人間みたいねと、私は思った。
犬はそのまま私の顔を見つめていたのだが、尻尾だけは嬉しそうにパタパタと揺れていたのだった。
どうやらこの犬、人の気持ちがちゃんと解るみたいね。
僅かでも気持ちが通じて良かった、と私は心底思った。
(自分の中では)犬とそれなりに打ち解けたと感じた私は、遅ればせながら保健所と警察に迷い犬の連絡をした。
保健所からは犬の預かり承諾の連絡を受けたが、もし保健所に預けた場合、飼い主が見つからなければ一週間で処分されてしまうとのことだった。
そのため、ここに預けるのは最後の手段ということにした。
このほかネットでも迷い犬と里親探しをしてみた。
迷い犬を預かってくれる動物病院も探すが、この時点ではめぼしいところは見つからなかった。
窓の外を見ると、とても良い天気だったので、次は洗濯と掃除をすることにした。
まずは溜めていた自分の洗濯物を片付け、その合間に掃除をする。
その間、犬は部屋の隅で大人しくしていた。
掃除機の音にも動じないところから、この犬はやはり以前どこかで飼われていたのだと見て間違いないと思われる。
ああそれにしても、社会人はこういう休みの日でもないと満足に家事をする余裕がないから、洗濯物が溜まるのはどうしたってしょうがない。
……いや、単に私がずぼらなだけなのかもしれないが。
自分の洗濯物が一通り終わると、今度は昨日使った毛布とタオルを洗濯することにした。
洗濯機に入れる前に風呂場で手洗いしていたのが良かったのか、洗濯槽はそれほど酷く汚れることはなかった。
狭いベランダいっぱいに洗濯物を干し、掃除もひと段落したところで、ちょうどお昼の時間になった。
昼はブルーベリージャムを塗ったトースト2枚とコーヒーで済ませる。
犬にはささ身をレンジでチンしたものをあげる。
そうして昼食を終えると、私はこれからのことについて考え始めた。
「さて、どうしようか」
まず、この犬の体調管理についてだ。
今のところ、基本的な面に関してはほとんど手がかかっていない。
好き嫌いはしない、吠えない、噛み付かない、(お風呂に入りたてということもあるが)毛は抜けないし獣臭くない、トイレは人間用でOKだし……
こんなに良く出来た犬、初めて見た。
でも、動物なのだからやはり何かしらの運動は必要だろうとは思う。
外に出すのは他の住人に見つかる恐れがあるから、おいそれとは出来そうにない。
「でもずっと閉じ込めておくわけにもいかないし……ストレスだって溜まるだろうしなあ」
そう思いつつふと犬を見ると、犬はつけっぱなしのテレビにじっと見入っていた。
とても静かだったので、取り合えずそのままにしておいた。
(何だか私、育児をテレビに任せるダメな母親みたい……)
犬があんまり静かなものだから、ふと興味本位で犬の目の前にリモコンを置いてみた。
今までテレビを見ていた犬は、今度は「何? 何?」とでもいうようにリモコンと私とを交互に見る。
「ほら、ここのボタンが電源。押すとテレビがついたり消えたりするの」
そういいながら犬の前で実際に操作して見せる。
「ここがチャンネルでここがボリューム。画面が変わるボタンと音量が変わるボタンね」
先ほどまでテレビに釘付けだった犬は、今は私の一挙手一等足を食い入るように見つめている。
そして、私がもう一度犬の前にリモコンを置くと、犬はしばらく躊躇ったあと、恐る恐る右前足を差し出した。
ぽち。
ヴン。
真っ暗になる画面。
目を丸くする犬。
「そう、それが電源。今のは君が自分で電気を消したのよ。同じボタンをもう一度押してみて」
私はさっき犬が押したのと同じボタンを指差した。
私の指と顔を見た犬は、今度は少しだけ慣れたように、そのボタンを押した。
ぽち。
ヴゥン。
犬が先ほどまで見ていた番組が映った。
今度は少しだけ目を丸くする犬。
私は笑顔で話しかけた。
「そうそう、よくできたねー、その調子。こんな風にほかのボタンも押してみるといいわよ」
私がにこにこしたままでいると、犬は「本当にいいの?」とでもいうかのように首をかしげたあと、リモコン操作に再挑戦し始めた。
犬は最初リモコンの細かい操作に苦戦していたようだったが、程なくしてそれらのボタンを肉球と爪で器用に押す方法を編み出したようだった。
それからは嬉々としてリモコンを操作をしながらテレビに齧りついていたのである。
そんな犬の横顔をしばらく見ながら、私は眉根を寄せながら、ふと思いついたことをぽそりと呟いた。
「君がもの凄く手がかからなくて、理解力も高いことがわかったのだけれど……、君、本当に犬なんでしょうね? 背中にチャックとか、頭に遠隔操作のリモコンとかついてないでしょうね?」
そんなことがあるはずのないことは、一応理解しているつもりではあるのだが、そう呟かずにはいられない私だった。
夕飯も雑炊(かぼちゃ、おくら、鶏肉、豆腐)にした。
(離乳食ってこんな感じかしら?)
自分用の味付けはめんつゆにした。
基本ずぼらでめんどくさがりの私と、好き嫌いなく何でも食べるこの健康優良犬とは、どうやら相性が良いようだ。
「本当に、よく出来た子でお母さん助かるわ」
なぜか母親の感慨に浸る私だった。
食後の後片付けも終わり、私がお風呂に入ろうと浴室の前まで行くと、なぜか犬も一緒についてきた。
「君は今日の朝入ったし、十分綺麗だから今日はもう入らなくてもいいのよ。それに、犬の入浴は普通週1程度で十分なのよ」
そう言って私が犬の目の前で着ていたTシャツを脱ぎ始めると、犬はなぜか慌てて部屋のほうへ向かった。
だが犬は、私が浴室に入ってドアを閉めると、戻ってきてその前にちょこんと座りこんだようだった。
すりガラスの窓からは犬のシルエットがぼんやりと見える。
(ど、ドアの前で待ってる……もしかして、私が出てくるまでずっと待つつもりなのかしら)
埒が明かないので、取り合えず先に自分の頭と体を洗っておく。
一人分のスペースしかない浴槽に身を沈めると、私はすりガラスをちらりと見やった。
「うう……、まだ座ってる」
その姿に、ご主人様を待つ忠犬ハチ公を想像してしまい、私は何だか切ない気分になってしまった。
「犬、お前、思えば見知らぬ土地に一人で来て、右も左もわからなくて、きっと心細かったんだろうなあ……そんなときに衣食住を提供してくれる人がいたら、私だってきっと縋っちゃうよ」
そんなこんなで、私は結局犬もお風呂に入れることにした。
ドアを開けると、犬は私の姿を見てぎょっとしたようだった。
私は自分の格好をまじまじと見直す。
そしてあることに思い至る。
ああそうか、私は今まで風呂場でも服を着てたものね。
犬、人間の「毛皮」は着脱可能なのだよ。
君が驚くのも無理はないな。
私はそう一人合点すると、犬に向かって笑顔で「おいで」といった。
犬は目を伏せながらも、尻尾はパタパタと振っており、しばらくそのままの状態でいた。
ん? 犬、もしかして照れてるのか?
一応雄だし?
変なところで遠慮しいなんだな。
……って、いや、そんなわけないか。
その数瞬後、犬は意を決したように顔を上げると、尻尾を振りながらそっと浴室に入ってきたのであった。
犬の体は朝洗ったから、今回は浴槽に浸からせるだけにする。
何分、浴槽のスペースが一人分しかないので、必然的に私は風呂から出ることになった。
代わりに入った犬は、少し窮屈な浴槽の縁に顎を乗せ、目を閉じている。
なかなか気持ち良さそうだ。
犬は、お風呂が好きなのかしら?
何にせよ、清潔なのは悪いことではない。
お風呂嫌いの子供もいるなかで、うちの子は本当に手がかからないわね。
あ、それにこれで散歩に行けなくても、若干の運動不足解消とストレス発散にはなると思うし。
洗濯物は増えるけど、一石二鳥だわと前向きに考えることにした。
さらにせっかくだからと、風呂場で犬の歯磨きもしてあげることにした。
バスタオル一枚を巻いた姿で浴室から出ようとすると、犬の目が開いた。
安心させるように「待っててね」と声をかけて出ると、私は少し大きめに切ったガーゼを持って再度浴室へと戻った。
犬はおあつらえ向きに浴槽の縁に顎を乗せたままである。
「ちょっとそのままでいてね」
そういうと私はガーゼを右手の人差し指と中指に巻きつけ、左手で犬の上唇をそっと持ち上げた。
「わあ、鋭い歯なのねえ。大きさを差し引いても、うちのメイとはやっぱり大違いだわ」
そういいながら、私は犬の歯を磨いていった。
「意外と綺麗なのね。まあ、これは歯茎のマッサージも兼ねているからいいか」
私は犬の上顎を持ち上げて、奥の歯まで綺麗に磨いていった。
犬は私の為すがままである。
普通、狼のような動物が口や鼻、歯を相手に委ねるのは、相手のことをよほど信頼しているか、相手に対して服従しているかのどちらか、もしくは両方である。
……もし今この犬が口を閉じたら、私の指など簡単に喰い千切られてしまうだろう。
でもこのときの私は、この犬に咬まれるかも知れないという考えには終ぞ及ばなかった。
あとで思い返してみると、私の場合はきっと、この犬の窮地を救ったことによって、犬の信頼を僅かばかりでも勝ち得ていたからなのではないかと思われる。
というか、それ以外に思いつく理由が見当たらない。
犬の歯磨きが終わると、私は浴槽の栓を抜いて、お湯を捨てた。
犬はお湯が流れていく様を興味深げに見ていた。
お湯を抜き終わると、私は浴槽を仕切るカーテンを引いた。
「そこで水気を飛ばしてくれるかな? 」
カーテン越しに声をかけると、犬は勢い良く身体を振るわせた。
浴槽から出た犬をバスタオルで拭きながら、私は前の飼い主のしつけの良さに感謝した。
今日の犬の寝床は、私のベッドの隣の床である。
昨日のように狭い廊下で寝てもらうよりも、居心地はきっと良いだろうと思ってのことだ。
洗いたての毛布の上で、犬は気持ち良さそうに体を伏せた。
私はベッドの上で、犬を拾ってから今までのことを反芻していた。
勢いで拾って来てしまったが、この犬のしつけの良さは、きっと前の飼い主がとてもきっちりとした人、あるいはしつけのプロに頼んだお金持ちであるからに違いない。
どんな経緯であの場所まで来たのかは知るべくもないが、きっとなにか尋常ではない理由があったのだろうと推測する。
……犬はきっと今も不安なのではないかと思う。
でも、この私が犬に対して「責任を持つ」という約束をしたのだから、安心してくれていい。
きっと良い飼い主を見つけるからね。
犬を見ると、今は毛布の上で丸くなり、前足に顎を乗せて目を閉じていた。
私はベッドの上から手を伸ばし、犬の頭をそっと撫でた。
「ここは安全だから。安心して、ゆっくり休んでね」
優しく撫でていると、閉じた犬の目から一滴の涙がこぼれた。
涙はそれを皮切りに、閉じた犬の両目から止まることなく溢れてきたのである。
犬の前足と毛布は、犬の涙ですぐに濡れていった。
……28年間生きてきたけど、犬がぼろぼろ泣くところなんて初めて見た。
メイだって、最期の瞬間でさえもここまで泣いたことはなかったのに。
私は犬が泣き止んで寝付くまで、ずっとそうしていた。