出会い 1日目
1日目
最初は黒いゴミ袋が2つほど並べて置いてあるのかと思った。
近くまで来て、それがようやく蹲った犬であることがわかった。
薄暗い夜道、近所のスーパーから歩いて自宅マンションまで帰る途中。
私は道端でぐったりした大型犬を発見したのである。
私はその犬をまじまじと観察した。
犬は雄で大きさから考えると推定2~3歳。
土、もしくは乾いた泥のようなものでもの凄く汚れている。
土といえば、たしかにこの道の付近に小さな畑はあったけれど、それにしたってこれは酷い。
毛色は汚れが薄い部分から推測すると灰色っぽい気がする。
弱っているのはもしかして病気だから?
ハスキーにしてはちょっとガタイが良すぎる、シェパードか?
……と、そんなことを思いつつ、犬を眺める。
可哀想だが、私のマンションはペット禁止(そもそも大型獣は論外)のため、見捨てざるを得ない。
じっと見つめていると、犬の鼻がぴくぴくと動いた。
だがそれだけだった。
呼吸はしている。取り合えず生きてはいるようだ。
スーパーで生物も買っていたので、私は一度マンションに戻ることにした。
けれど道すがら、あの無残な姿が目の奥でちらちらと蘇る。
私の頭の中は、いつの間にかあの犬のこれからの処遇に関することでいっぱいになっていた。
きっと私でなくともほかの誰かがあの犬を助けるだろうとか、もう誰かがとっくに通報していて、もうすぐ警察が来るだろうなどといった考えがぐるぐると渦巻いていた。
……だが僅かな逡巡ののち、結局私は元来た道を引き返したのである。
犬はまだその場所にいた。
動いた様子はない。
私は犬の正面に膝をつくと、スーパーの袋の口をしっかり縛ってから、紐の部分を自分の右腕に通した。
そして、犬のその大きな体の下にそっと両手を差し入れ、ゆっくりと抱き上げた。
……重い。
だが私はその汚れた大型犬をしっかりと抱きかかえて、歩いて10分のマンションに連れ帰ろうと決心したのである。
保健所や警察への連絡を第一に考えないではなかったが、私はとにかく、今目の前にいるこの生き物を助けることで精一杯になっていた。
抱き上げたとき、服が思いっきり汚れたが、今更背に腹は代えられない。
抱きかかえている間、犬は一度も目を開けなかった。
時折鼻と耳をぴくつかせるだけだった。
そして犬はかなり重かった。
これは絶対40キロ以上はある。
この生き物を抱きかかえ、おまけにスーパーの袋を右手にぶら下げての10分間の道のりは、正直もの凄くしんどかった。
いくら世の中広しといえども、薄暗い夜道を汚れた大型犬をかかえて、見るも無残な形相で歩いている28歳の女性会社員なんてなかなかいないわよね。
今なら突然現れた変質者とガチンコ勝負をしても勝てる気が……いやそれはないか。
私のマンションは東京都郊外の某駅から徒歩で約15分、家賃共益費込み6万5千円6畳1Kフローリング(風呂・トイレ別、室内洗濯機置き場あり)の物件である。
この部屋の家賃で給料の約3分の1は飛んでいくのだが、トータル面で手ごろな物件がこれだったのだから、まあ悪くはないだろう。
もっと都心に行けば、同じ条件でも家賃はさらに高くなるのだから。
周囲を見渡し、誰もいないことを確認すると、私は静かにマンションの階段を上り、自分の部屋へ入った。
まずは犬を狭い玄関にそっと置き、押入れから引っ張り出してきた古い毛布を畳んで敷物代わりにする。
狭い廊下に敷いたその毛布の上に、持って来たバスタオルにくるんだ犬を寝かせた。
犬はまだ目を開けない。
体を拭いて手をよく洗い、食料品を冷蔵庫に詰め終わると、レンジの中に、買って来たばかりの鳥のささ身を耐熱皿に入れ、上からラップをかけたものを放り込んでチンする。
ささ身に火が通る間、犬に水をあげるとゆっくりだが全部飲んだ。
出来上がったささ身もちぎって少しずつ食べさせる。
これもゆっくりだが全部食べた。
よし、食欲があるなら回復の見込みはある。
取り合えず犬の顔と足だけは、お湯に浸して絞ったタオルで拭いておいた。
タオルで拭くと、犬の毛色が少しずつわかってきた。
思っていたよりも明るい灰色のようだ。
でも軽く拭いただけでは、顔の汚れはあまり取れず、洗面器のお湯も一瞬で真っ黒になった。
犬は本当にどこもかしこも汚れていた。
どうすればここまでぼろくそに汚れることができるのかというくらいに。
今日1日で着ていた服と毛布1枚とタオル大小2枚を通常使用不可能の状態にしたが、この生き物の命には代えられない。
タオルや服はあとで雑巾にしよう。
犬はやがて深い眠りについた。
まだ若いし、ガタイも良いのだから死ぬことはあるまい。
生きろよ、犬。